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    <title>伝承の大国・能登</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/</link>  
    <description>伝承大国・能登の伝説､逸話､縁起話､民話（説話､昔話､御伽話､頓智話）を中心に紹介。又時には祭など神事、民謡ｅｔｃ･･･まで含めた伝承文化・民俗も紹介。</description>  
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    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-05-17T08:54:42+09:00</dc:date>  
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  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-05-17"> 
    <title>狐に許しを乞うた間右衛門(まよもん)　</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-05-17</link>  
    <description>（参考：｢加賀・能登の民話｣、｢石川県鳳至郡誌｣） 　昔々のこと。穴水の兜村に間右衛門という樵(きこり)がおりました。　ある日のこと、間右衛門は、奥山深く入り込んで、木を切り倒していました。　すると間右衛門が、仕事に精を出している間に、人目を忍んで狐が現れ、木陰においてあった間右衛門の弁当を残らず盗み食いしてしまいました。　さてお昼となり、間右衛門は弁当を食べに木陰にやって来てみると、笹皮の弁当包みが散乱しているだけで何も食いものは残ってません。見れば周囲に狐の足跡が残ってます。さては近くに棲む狐の仕業だなと知ると、彼は大いに怒りました。　ある日、以前弁当を盗まれた場所に近いところで狐を見つけると、間右衛門は斧を置いて追いかけました。狐は巣穴に逃げ込み出てきません。そこで間右衛門は入口から枯れ枝や枯れ草を押入れ、火をつけて子狐もろとも殺してしまいました。　実は、この時、牝狐(めぎつね)は出かけていて無事でした。夫、子供を失った牝狐は復讐して怨みを晴らそうと心に誓いました。　彼女は、界隈一帯の狐のみならず、遠く珠洲は三崎の狐にいたるまで、応援を頼みまわりました。復讐を期したある月の満月の夜、能登一円から、牝狐のもとに何百頭にものぼる同志が集まりました。　夜分に乗じて狐達は、間右衛門が住む村はずれの家を見下ろす山に移動しました。そして群れを引き連れた牝狐が「コーーーン」と一声鳴いて気勢をあげると、狐達は一機に駆け下り、間右衛門の家に押し寄せました。　間右衛門の家は、何百頭もの狐に襲われたのでは、堪りません。まるで竜巻ににでもやられたかのように、あっという間に柱は折れ、壁、戸板、障子は破れ、屋根は崩れるといった見るも無残な有様となってしまいました。　しばらく呆然としていた間右衛門でしたが、正気に戻ると大層後悔しました。そして夜が明けると、山深く分け入り、牝狐のところに謝りに行きました。　それで牝狐も間右衛門を許しました。その上で牝狐は、また多くの狐達を動員して、間右衛門の家をすっかり元通りに修繕してやりました。　この話を聞いた村人はそれから、野山の狐を決して苛(いじ)めなくなったといいます。　それきりぶっつりなんばみそ。</description>  
    <dc:subject>奥能登・穴水町の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-05-17T08:54:42+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>（参考：｢加賀・能登の民話｣、｢石川県鳳至郡誌｣）<br /> <br />　昔々のこと。穴水の兜村に間右衛門という樵(きこり)がおりました。<br />　ある日のこと、間右衛門は、奥山深く入り込んで、木を切り倒していました。<br />　すると間右衛門が、仕事に精を出している間に、人目を忍んで狐が現れ、木陰においてあった間右衛門の弁当を残らず盗み食いしてしまいました。</p><p>　さてお昼となり、間右衛門は弁当を食べに木陰にやって来てみると、笹皮の弁当包みが散乱しているだけで何も食いものは残ってません。見れば周囲に狐の足跡が残ってます。さては近くに棲む狐の仕業だなと知ると、彼は大いに怒りました。</p><p>　ある日、以前弁当を盗まれた場所に近いところで狐を見つけると、間右衛門は斧を置いて追いかけました。狐は巣穴に逃げ込み出てきません。そこで間右衛門は入口から枯れ枝や枯れ草を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%8A%BC%E5%85%A5%E3%82%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">押入れ</a>、火をつけて子狐もろとも殺してしまいました。</p><p>　実は、この時、牝狐(めぎつね)は出かけていて無事でした。夫、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%AD%90%E4%BE%9B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">子供</a>を失った牝狐は復讐して怨みを晴らそうと心に誓いました。</p><p>　彼女は、界隈一帯の狐のみならず、遠く珠洲は三崎の狐にいたるまで、応援を頼みまわりました。復讐を期したある月の満月の夜、能登一円から、牝狐のもとに何百頭にものぼる同志が集まりました。</p><p>　夜分に乗じて狐達は、間右衛門が住む村はずれの家を見下ろす山に移動しました。そして群れを引き連れた牝狐が「コーーーン」と一声鳴いて気勢をあげると、狐達は一機に駆け下り、間右衛門の家に押し寄せました。</p><p>　間右衛門の家は、何百頭もの狐に襲われたのでは、堪りません。まるで竜巻ににでもやられたかのように、あっという間に柱は折れ、壁、戸板、障子は破れ、屋根は崩れるといった見るも無残な有様となってしまいました。</p><p>　しばらく呆然としていた間右衛門でしたが、正気に戻ると大層後悔しました。そして夜が明けると、山深く分け入り、牝狐のところに謝りに行きました。<br />　それで牝狐も間右衛門を許しました。その上で牝狐は、また多くの狐達を動員して、間右衛門の家をすっかり元通りに修繕してやりました。</p><p>　この話を聞いた村人はそれから、野山の狐を決して苛(いじ)めなくなったといいます。<br />　それきりぶっつりなんばみそ。 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-05-16"> 
    <title>葭(よし)が池</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-05-16</link>  
    <description>　(参考：｢加賀・能登の民話｣、｢石川県鳳至郡誌｣ )　鵜川の吉谷というところの話です。　昔、ある晩、二子山の方に盆をひっくり返したくらいの篠つく大雨が降り、そこへ大木を引っこ抜くほど凄まじい風がおこりました。荒れ狂った挙句、恐ろしい山鳴りとともに、あたり一面を揺るがしたので、村人たちは一晩中生きた心地も無く、小さくなって震えていました。　嵐が去った明け方、村人たちは早速外へ出て、周囲の様子を調べました。すぐわかったのは、東の裾野にあったはずの水神池が、山崩れのため跡形も無く消えていたことです。　村人は、心配になって、数人づつの幾つかの組みに分けれてなおも周囲の方々の土地を見て周りました。そのうちのある組が、諸橋の竹田に行く途中、妙な事に出くわしました。　村一番綺麗なヨシ(葭)という娘が、薄靄(うすもや)のかかった溜池の畔(ほとり)に恍惚な表情をして何故か座っているのです。よく見ると時々髪を梳(くしけず)りながら、わが姿にうっとりと見とれています。腰に鎌を差しているところを見ると、池の畔に生えている葭を刈りに来たようです。　それを見て　｢ヨシ！｣と一人の男が叫びそうになったのを別の男がさっと口を塞(ふさ)ぎました。　それから村人たちは、木の陰に隠れて、じっと様子を窺(うかが)いました。　するとヨシは、池に櫛を落としたらしく、池の中に腕を入れて手探りしています。やがて櫛を拾い上げたヨシは、櫛を口に咥(くわ)えて、両手で髪を手挟みました。　そして櫛を髪に差し入れることはせず、懐に仕舞い込むと、今度は、池の水を掬(すく)って、さも美味しそうに飲みはじめました。何度も何度も水を掬って飲むことをやめようとはしません。　村人たちが気になって、ヨシの方に近づこうとした時です。　池の中から、大きな龍が躍り出てきて、やにわにヨシを抱きこみ、ガバッと水底へ姿を消してしまいました。　　村人は恐れ戦(おのの)きました。その場から逃げようとしますが、どうした事か足の自由が利きません。　もたつく間に、池がみるみる大きく広がって、周囲３町ほどになったといいます。  </description>  
    <dc:subject>奥能登・能登町の民話</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-05-16T06:33:16+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>　(参考：｢加賀・能登の民話｣、｢石川県鳳至郡誌｣ )</p><p>　鵜川の吉谷というところの話です。<br />　昔、ある晩、二子山の方に盆をひっくり返したくらいの篠つく大雨が降り、そこへ大木を引っこ抜くほど凄まじい風がおこりました。荒れ狂った挙句、恐ろしい山鳴りとともに、あたり一面を揺るがしたので、村人たちは一晩中生きた心地も無く、小さくなって震えていました。<br />　嵐が去った明け方、村人たちは早速外へ出て、周囲の様子を調べました。すぐわかったのは、東の裾野にあったはずの水神池が、山崩れのため跡形も無く消えていたことです。</p><p>　村人は、心配になって、数人づつの幾つかの組みに分けれてなおも周囲の方々の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%9C%9F%E5%9C%B0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">土地</a>を見て周りました。そのうちのある組が、諸橋の竹田に行く途中、妙な事に出くわしました。<br />　村一番綺麗なヨシ(葭)という娘が、薄靄(うすもや)のかかった溜池の畔(ほとり)に恍惚な表情をして何故か座っているのです。よく見ると時々髪を梳(くしけず)りながら、わが姿にうっとりと見とれています。腰に鎌を差しているところを見ると、池の畔に生えている葭を刈りに来たようです。<br />　それを見て<br />　｢ヨシ！｣<br />と一人の男が叫びそうになったのを別の男がさっと口を塞(ふさ)ぎました。<br />　それから村人たちは、木の陰に隠れて、じっと様子を窺(うかが)いました。</p><p>　するとヨシは、池に櫛を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%97&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">落とし</a>たらしく、池の中に腕を入れて手探りしています。やがて櫛を拾い上げたヨシは、櫛を口に咥(くわ)えて、両手で髪を手挟みました。<br />　そして櫛を髪に差し入れることはせず、懐に仕舞い込むと、今度は、池の水を掬(すく)って、さも美味しそうに飲みはじめました。何度も何度も水を掬って飲むことをやめようとはしません。</p><p>　村人たちが気になって、ヨシの方に近づこうとした時です。<br />　池の中から、大きな龍が躍り出てきて、やにわにヨシを抱きこみ、ガバッと水底へ姿を消してしまいました。　<br />　村人は恐れ戦(おのの)きました。その場から逃げようとしますが、どうした事か足の自由が利きません。<br />　もたつく間に、池がみるみる大きく広がって、周囲３町ほどになったといいます。  </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-05-01"> 
    <title>中能登の椀貸伝説四話</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-05-01</link>  
    <description>●椀貸穴　　（出典：『石川縣鹿島郡誌』（昭和3年発刊）） 　（旧：鹿島町・現：中能登町)小田中にある※親王塚の墳丘の頂に小さな穴があります。この村の貧しき人々が必要な時に、膳椀衣装類を借りて使用したのだといいます。入用の場合は、その前夜に穴に向かって頼んでおけば、明朝その品が穴の中に取り揃えてあるのである。しかし借りたまま返さない者もあったあったため、遂に貸し出ししないこととなってしまいました。神職能登部家には、借用した衣装についていたという管玉が所蔵されていると伝えられています。 (この記述は、昭和9年のものを現代語風に私が書き改めただけのものなので、現在の管理も同様か否かなど確認はしておりません)※親王塚に関しては、私のホームページの｢能登の古墳｣の頁の初めの方に、紹介しています。　明治８年(1875)、能登国造(くにのみやっこ)の祖、崇神天皇皇子・大入杵命(おおいりきねのみこと)墓として陵墓に指定され、宮内庁の管理下にあります。●物貸石　　(出典：『石川縣鹿島郡誌』（昭和3年発刊) ）　(七尾市)池崎より(七尾市)直津に行く所に、横打(よこうち）と云う畑地があるが、昔、そこの大きな石があった。この石を物貸の神様といいます。村の人が、この石に所用の品を頼む時は、膳や椀は勿論、金銭までも貸し与えられたが、天正年間の頃、石動山の僧がやって来て種々の物を借りていったが、そのまま返さなかったので、物貸の神様も怒って、遂に貸し出しをしなくなってしまった。 ●貉(むじな)の居　(出典：『石川縣鹿島郡誌』（昭和3年発刊))　(旧：田鶴浜町・現：七尾市)吉田より羽咋郡加茂村(現在の志賀町加茂)に至る山中に｢貉(むじな)の居｣と称する洞窟があります。入口は狭くわずかに身を入れることが出来る程度の大きさですが、洞窟の内部は約1坪の広さがあり、数人くらい入れる大きさであった。洞窟内は古くから多くの貉が棲んでいたので、貉の居と称したのであった。　昔、吉田の某家に、饗応の用事があったが、家具が不足していた。それで家人は夜中、洞窟の前にやって来て、膳・椀、その他、望みの品々の貸与を請い願ってみた。そして翌朝行ってみると、前日頼んだ件(くだん)の器物が取り揃えてあった。それ以来この地方の人々は、膳・椀その他望みの品々を借りたい時は、ここにやって来て借りたのでした。しかしある時、心得違いの者がいて、この洞窟から入用の品々を借りたのに、それら..</description>  
    <dc:subject>中能登の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-05-01T07:58:45+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p><strong>●椀貸穴</strong>　<br />　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/ShinnouDuka2.jpg" alt="中能登町小田中/親王塚" width="240" height="160" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/ShinnouDuka2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />（出典：『石川縣<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%B9%BF%E5%B3%B6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">鹿島</a>郡誌』（昭和3年発刊）） <br />　（旧：鹿島町・現：中能登町)小田中にある※親王塚の墳丘の頂に小さな穴があります。この村の貧しき人々が必要な時に、膳椀衣装類を借りて使用したのだといいます。入用の場合は、その前夜に穴に向かって頼んでおけば、明朝その品が穴の中に取り揃えてあるのである。しかし借りたまま返さない者もあったあったため、遂に貸し出ししないこととなってしまいました。神職能登部家には、借用した衣装についていたという管玉が所蔵されていると伝えられています。 (この記述は、昭和9年のものを現代語風に私が書き改めただけのものなので、現在の管理も同様か否かなど確認はしておりません)<br />※親王塚に関しては、<a href="http://www.geocities.jp/une_genzaburo/" title="畝源三郎のホームページ">私のホームページ</a>の<a href="http://www.geocities.jp/une_gen/TumulusesInNoto.htm" title="能登の古墳">｢能登の古墳｣の頁</a>の初めの方に、紹介しています。<br />　明治８年(1875)、能登国造(くにのみやっこ)の祖、崇神天皇皇子・大入杵命(おおいりきねのみこと)墓として陵墓に指定され、宮内庁の管理下にあります。</p><p><strong>●物貸石</strong>　<br />　(出典：『石川縣鹿島郡誌』（昭和3年発刊) ）<br />　(七尾市)池崎より(七尾市)直津に行く所に、横打(よこうち）と云う畑地があるが、昔、そこの大きな石があった。この石を物貸の神様といいます。村の人が、この石に所用の品を頼む時は、膳や椀は勿論、金銭までも貸し与えられたが、天正年間の頃、石動山の僧がやって来て種々の物を借りていったが、そのまま返さなかったので、物貸の神様も怒って、遂に貸し出しをしなくなってしまった。<br /> <br /><strong>●貉(むじな)の居<br /></strong>　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/tanu1a.gif" alt="" width="32" height="32" align="right" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/tanu1a.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />(出典：『石川縣鹿島郡誌』（昭和3年発刊))<br />　(旧：田鶴浜町・現：七尾市)吉田より羽咋郡加茂村(現在の志賀町加茂)に至る山中に｢貉(むじな)の居｣と称する洞窟があります。入口は狭くわずかに身を入れることが出来る程度の大きさですが、洞窟の内部は約1坪の広さがあり、数人くらい入れる大きさであった。洞窟内は古くから多くの貉が棲んでいたので、貉の居と称したのであった。<br />　昔、吉田の某家に、饗応の用事があったが、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%AE%B6%E5%85%B7&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">家具</a>が不足していた。それで家人は夜中、洞窟の前にやって来て、膳・椀、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">その他</a>、望みの品々の貸与を請い願ってみた。そして翌朝行ってみると、前日頼んだ件(くだん)の器物が取り揃えてあった。それ以来この地方の人々は、膳・椀その他望みの品々を借りたい時は、ここにやって来て借りたのでした。しかしある時、心得違いの者がいて、この洞窟から入用の品々を借りたのに、それらの物を返さなかったので、その後は、如何に懇願してもそれらの品々を貸与することはなかったとそうだ。<br /> <br /><strong>●弥三平狐</strong>　<br />　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/kitune1c.gif" alt="" width="32" height="32" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/kitune1c.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />(出典：『石川縣鹿島郡誌』（昭和3年発刊)) <br />　（七尾市）石崎寺山の東堂ヶ谷という所に、昔、村人から弥三平狐と呼ばれている老いた狐が棲んでいた。村人がこの狐の穴に到り、家具の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%80%9F%E5%85%A5&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">借入</a>を頼んでおいて、一たん去ってから、後ほどもう一度穴の前に行ってみると、頼んでおいた家具が数を揃えて穴の口に出し置いてあったそうである </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-25"> 
    <title>稲舟の蟹報恩譚</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-25</link>  
    <description>(参考：日置謙校訂本「能登名跡志」、｢鳳至郡誌｣の｢泰澄法師の法力｣ )　輪島の町より十町（約1.1ｋｍ）離れたところに稲舟村という村があります。往来より、山手にあります。この村に笠原藤太と言う村役がいました。先祖は由緒がある家柄で、数千年続く百姓であります。ですからそのあたりでは並びもない大金持ちだったそうです。　  昔は、藤太は輪島に住んでいました。その頃の話です。ある年、このあたりは酷い旱魃に見舞われました。田畑の多くが、カラッカラに乾いて割れてきたので、その当時の主がこのことを嘆き、「何卒、この田へ水を与えて下さい。願い叶えてくれた者には、私の大事な一人娘を与えましょう」とつぶやいて神仏に誓いました。　するとある時、いずことも知れぬ所から一人の若い男がやって来て、「わたしがこの田を水で充たしましょう。」とそれだけ言いと立ち去りました。その夜大音響の雷とともに大雨となり、翌朝には、それらの田は水で充たされました。　その後、その男が再びやって来て　「あなたの田んぼへ一晩で水を張ってみせたぞ。約束どおり娘をいただきに来たぞ。」と娘を連れて行こうとした。　藤太は、何故心に祈ったことを知っているのだろうと訝(いぶか)ったが、思わずつぶやいてしまったのを聞いたのに違いないと思い　「嫁入りの仕度もいるこっちゃし、少しの間待っちょくれ。」と男に頼んだ。　男は、しばらく待つことにして、その日は一応立ち去った。　藤太は、男が帰った後色々考えてみた。あの男は心に祈った言葉を聞き届けたり、雷を操ったりすることが出来た。でも神様が人の大事な娘を呉れというはずがない。男はきっと魔物に違いない、と思えてきた。だがあのような魔物にどう対処して拒めばよいか考えあぐねた。　ところで藤太の娘は心優しく、自分の食べた残りかすなど与えて一匹の蟹を育てていた。　父親の心配を察した蟹は、　「ご恩返しをしましょう。」と言って、その若者が実は、この輪島川の淵に棲む大蛇の化身であることを知らせた。　藤太は、蟹が教えた条件を若者に告げた。それは家の周りの全ての戸を閉め、その中にいる娘を連れて行くことを許すというものであった。　一度は去った若者であったが、ある日、夜更けを待って藤太の家に忍びより、大蛇の本体を現した。大蛇は、その家を七重半巻きに纏いついて締め付けて、やがて潜り戸の鍵穴から首を入れて侵入しようとした。　すると家の中には大きな蟹がいた。蟹はのたうち..</description>  
    <dc:subject>奥能登・輪島の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-25T09:31:04+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>(参考：日置謙校訂本「能登名跡志」、｢鳳至郡誌｣の｢泰澄法師の法力｣ )</p><p>　輪島の町より十町（約1.1ｋｍ）離れたところに稲舟村という村があります。往来より、山手にあります。この村に笠原藤太と言う村役がいました。先祖は由緒がある家柄で、数千年続く百姓であります。ですからそのあたりでは並びもない大金持ちだったそうです。<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/kani.gif" alt="" width="200" height="60" align="right" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/kani.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />　</p><p>  昔は、藤太は輪島に住んでいました。その頃の話です。ある年、このあたりは酷い旱魃に見舞われました。田畑の多くが、カラッカラに乾いて割れてきたので、その当時の主がこのことを嘆き、「何卒、この田へ水を与えて下さい。願い叶えてくれた者には、私の大事な一人娘を与えましょう」とつぶやいて神仏に誓いました。</p><p>　するとある時、いずことも知れぬ所から一人の若い男がやって来て、「わたしがこの田を水で充たしましょう。」とそれだけ言いと立ち去りました。その夜大<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%9F%B3%E9%9F%BF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">音響</a>の雷とともに大雨となり、翌朝には、それらの田は水で充たされました。</p><p>　その後、その男が再びやって来て<br />　「あなたの田んぼへ一晩で水を張ってみせたぞ。約束どおり娘をいただきに来たぞ。」<br />と娘を連れて行こうとした。</p><p>　藤太は、何故心に祈ったことを知っているのだろうと訝(いぶか)ったが、思わずつぶやいてしまったのを聞いたのに違いないと思い<br />　「嫁入りの仕度もいるこっちゃし、少しの間待っちょくれ。」と男に頼んだ。<br />　男は、しばらく待つことにして、その日は一応立ち去った。</p><p>　藤太は、男が帰った後色々考えてみた。あの男は心に祈った言葉を聞き届けたり、雷を操ったりすることが出来た。でも神様が人の大事な娘を呉れというはずがない。男はきっと魔物に違いない、と思えてきた。<br />だがあのような魔物にどう対処して拒めばよいか考えあぐねた。</p><p>　ところで藤太の娘は心優しく、自分の食べた残りかすなど与えて一匹の蟹を育てていた。<br />　父親の心配を察した蟹は、<br />　「ご恩返しをしましょう。」<br />と言って、その若者が実は、この輪島川の淵に棲む大蛇の化身であることを知らせた。<br />　藤太は、蟹が教えた条件を若者に告げた。それは家の周りの全ての戸を閉め、その中にいる娘を連れて行くことを許すというものであった。</p><p>　一度は去った若者であったが、ある日、夜更けを待って藤太の家に忍びより、大蛇の本体を現した。大蛇は、その家を七重半巻きに纏いついて締め付けて、やがて潜り戸の鍵穴から首を入れて侵入しようとした。<br />　すると家の中には大きな蟹がいた。蟹はのたうちまわる大蛇を8本の足でしっかと押さえつけ、残る2本の手、つまり鋏で、この大蛇を九つに切断して大蛇を殺してしまった。父娘はそれにより救われました。</p><p>　大蛇の死骸は９箇所に飛び散り、落ちたところは池となり、その池毎に、蛇が棲むといわれています。<br />　今現在でも蛇池と呼ばれ、近郷に9箇所のうち8箇所残っているようです。その中でも、惣領村の内深見という所は、頭が飛んできたところで、これを親池（惣領の蛇池)と呼ばれました。</p><p>　池には恨みを抱いた大蛇の恐ろしい悪霊が棲みつき、その後も笠原藤太の家に祟りをなしていました。毎晩のように藤太の家に現れ、不気味なうめき声を立てるために、藤太のあの<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%8F%AF%E6%84%9B%E3%81%84&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">可愛い</a>一人娘が重病に陥ってしまいました。</p><p>　その頃、泰澄大師が、旅の途中、この家に泊まりました。この事をお聞ききになり、法力を用いて、この悪霊を退散させてしまったので、その後は、無事に暮らせるようになったそうです。<br />　その例をもって、この家では5月8日に、泰澄大師の教えを継がれた石動山の衆徒が、僧正廻りの際には一宿する仕来たりがあり、翌日は深見の親池で加持祈祷を行うのだそうです。</p><p>　このことがあってからは、笠原の家では蟹を大切にして殺さず、家にも潜り戸を用いなかったといいます。<a href="http://www.geocities.jp/tgbqg409/CornerOfSekidousan.htm" title="城郭寺院群・石動山">石動山</a>は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%B9%BF%E5%B3%B6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">鹿島</a>郡にあり、大きな山伏寺がありました。</p><p>　またこの惣領の蛇池は、鵠巣山<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E7%99%BB%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">登山</a><a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">自動車</a>道路をつけた時、埋められてしまったようです。</p><p>　※大蛇の体が、九箇所に飛んだのは、別伝の話では沢山のカラスがそれらを咥えて、各地に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%97&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">落とし</a>たとも書いてあります。 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-24"> 
    <title>道案内した地蔵さん</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-24</link>  
    <description>(参考：｢志雄町の民話と伝承　第一輯｣志雄町教育委員会)　 　昔々、出浜(宝達志水町出浜)の村にひとりの若い漁師が住んでいました。ある日の早朝、若者はいつものように、漁に出かけようとしてさざ波が打ち寄せる浜の波打ち際を歩いていました。すると夜の闇をほんのりとぼかしたような明るさが漂う海の向うから、波にゆられてプカプカと浜へ流されてくるものを見つけました。若者は､‘はて何だろう。何が流されてきたのかな’と思いながら、近寄って見ると、それは、どこから流されてきたのでしょうか、木に彫られた有難い地蔵さんでした。若者は、びっくりして拾い上げ、そっと腕に抱え込んで、大切に家に持って帰りました。　しかし家にそっと置いたつもりでしたが、貧乏人の暇なしで、漁を一生懸命やっていないと食っていけないので、忙しさにまぎれて、いつのまにかその地蔵の事を忘れてしまい、家の隅にほったらかしにしてしまいました。それから幾日も過ぎ、若者が気がついた時には、事情を知らない家の者が、誰かにやってしまったらしく、地蔵さんの姿はなくなっていました。　　さて、その地蔵さんですが、黒く汚れた年季の入ったものであったせいか、家から家へと譲られて、めぐりめぐってある家にたどり着きました。　ある晩、その家の主が寝ていますと、その地蔵さんが、夢枕に立って､「あるじ殿、あるじ殿、申し訳ござらんが、海の近くの家にわしを戻しては下されんか。」と、頼みます。単なる夢かな、と思っていると、同じように地蔵さんが丁寧に頼む夢を何度も、何度も見たのでした。　はじめは、何のことかさっぱり分からなかった家の主も、「この地蔵さんは、最初は、きっとどこかの海の近くの家に居られたのかもしれない。それで‘戻してくれー、戻してくれー’と頼んどるのやろ。」と気付いて、「よし、ほんならいっちょ有難い地蔵さんのため、探してやっかー」と、翌朝から、この地さんを持ってきた人を訪ねたり、あっちこっちの村の人に聞いたりして、地蔵さんのおられた所を探し始めました。　幾月かして、ようやくこの主は、最初にこの地蔵様を拾い上げた若者の家を探しあてました。そうして、地蔵さんは無事に若者のところに戻ることが出来たのでした。若者は、地蔵さんが戻ってきた奇瑞もあるし、そんな有難い地蔵さんを放ったらかしにしたのを悪く思い、家の近くの道端に小さな祠を建てて納め、それからは毎日お供え物をあげて拝み、末永く大切にされたそうです。　..</description>  
    <dc:subject>口能登・宝達志水町の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-24T10:09:44+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>(参考：｢志雄町の民話と伝承　第一輯｣志雄町<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%95%99%E8%82%B2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">教育</a>委員会)　 </p><p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/jizou1a.gif?2009-04-22 17:15:47" alt="" width="50" height="50" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/jizou1a.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />　昔々、出浜(宝達志水町出浜)の村にひとりの若い漁師が住んでいました。ある日の早朝、若者はいつものように、漁に出かけようとしてさざ波が打ち寄せる浜の波打ち際を歩いていました。すると夜の闇をほんのりとぼかしたような明るさが漂う海の向うから、波にゆられてプカプカと浜へ流されてくるものを見つけました。若者は､‘はて何だろう。何が流されてきたのかな’と思いながら、近寄って見ると、それは、どこから流されてきたのでしょうか、木に彫られた有難い地蔵さんでした。若者は、びっくりして拾い上げ、そっと腕に抱え込んで、大切に家に持って帰りました。</p><p>　しかし家にそっと置いたつもりでしたが、貧乏人の暇なしで、漁を一生懸命やっていないと食っていけないので、忙しさにまぎれて、いつのまにかその地蔵の事を忘れてしまい、家の隅にほったらかしにしてしまいました。それから幾日も過ぎ、若者が気がついた時には、事情を知らない家の者が、誰かにやってしまったらしく、地蔵さんの姿はなくなっていました。　</p><p>　さて、その地蔵さんですが、黒く汚れた年季の入ったものであったせいか、家から家へと譲られて、めぐりめぐってある家にたどり着きました。<br />　ある晩、その家の主が寝ていますと、その地蔵さんが、夢枕に立って､「あるじ殿、あるじ殿、申し訳ござらんが、海の近くの家にわしを戻しては下されんか。」と、頼みます。単なる夢かな、と思っていると、同じように地蔵さんが丁寧に頼む夢を何度も、何度も見たのでした。</p><p>　はじめは、何のことか<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E3%81%95%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%82%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">さっぱり</a>分からなかった家の主も、「この地蔵さんは、最初は、きっとどこかの海の近くの家に居られたのかもしれない。それで‘戻してくれー、戻してくれー’と頼んどるのやろ。」と気付いて、「よし、ほんならいっちょ有難い地蔵さんのため、探してやっかー」と、翌朝から、この地さんを持ってきた人を訪ねたり、あっちこっちの村の人に聞いたりして、地蔵さんのおられた所を探し始めました。</p><p>　幾月かして、ようやくこの主は、最初にこの地蔵様を拾い上げた若者の家を探しあてました。そうして、地蔵さんは無事に若者のところに戻ることが出来たのでした。若者は、地蔵さんが戻ってきた奇瑞もあるし、そんな有難い地蔵さんを放ったらかしにしたのを悪く思い、家の近くの道端に小さな祠を建てて納め、それからは毎日<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E3%81%8A%E4%BE%9B%E3%81%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">お供え</a>物をあげて拝み、末永く大切にされたそうです。</p><p>　その頃、旅の人々は、ここが加賀と能登の結節点であり、他に歩きやすい往来道もないので、出浜の浜を通り、能登に行ったり加賀に行ったりするのが普通でした。<br />　ある日のこと、ひとりの旅人が、出浜の浜をとぼとぼと歩いておったが、その日は厚く雲が垂れ込めた日でもあったので、日が沈むとそれこそ釣瓶<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%97&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">落とし</a>のように、すぐにあたりが真っ暗になってしまいました。</p><p>　「あー、道がわからなくなってしまったぞ。どうしたもんかな。道に迷ったのかもしれんな。」<br />と思いながら、あたりを見回してみても何も見えません。足元に気をつけながら、あっちへうろうろこっちへうろうろしていると、向うの方に、ちらちらと灯りが見えました。旅の人は、「おや、あれはなんじゃろー。赤い灯がみえるぞ。」<br />と藁にもすがる<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">思い出</a>、そちらの方へどんどん歩いていきました。</p><p>　歩いていくと、そこには地蔵さんが立っていました。地蔵さんが辺りを、ぽーっと赤く照らしていたのです。旅の人は、「何と有難い地蔵さんなんだろう。あー、有難や、有難やー。」と手を合わせてお参りし、感謝しました。そして、地蔵さんのある近くの家の戸を、トントンと叩き、一夜の宿を頼んだら、そこの家の人は快く泊めてくれました。あくる朝、旅の人は加賀の方へと歩いていったそうです。</p><p>　旅の者が、夜道に迷って困っていると、地蔵さんが、ぽーっと赤く光って、目印になったという不思議な話は、旅の人を泊めた家から村中に広まり、「何と、慈悲深い地蔵さんやろ。これからは絶対粗末にしてはならんぞ。」と、言うて村中皆で大切にし、後々までその話を伝えたということです。 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-23"> 
    <title>大呑六合の長者（熊淵の長者)</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-23</link>  
    <description>　参考：｢石川縣鹿島郡誌｣（昭和3年発刊）、　　　　　（日本の民話21）「加賀・能登の民話」（清酒時男編）、　　　　　｢穂にいでずつっぱらめ｣(坪井純子著・七尾市立図書館友の会刊行） 　　昔々、大呑の（現在の)熊淵の近くの山中に、とても大きな荒熊が棲んでいました。熊は山野を我が物顔に、のしのし歩き回り、田畑を荒らしたり、家畜を襲って食べたりしました。機嫌の悪い時など人間にも襲いかかるなどして、それでその辺りの村の人々はいつもびくびくして暮らしておりました。　冬が近づき、熊も冬眠に備えて食物を腹いっぱい詰め込もうとしだし、それにつれ近隣の村への被害がさらにに増えだしました。村人は、ついに堪りかねて、弓の名人でもある村の長者の所へ何とかしてください、と頼みに来ました。長者も、その時、これといった思案はありませんでしたが、村人の難儀を見ていると、頷(うなづ)く他無ありませんでした。　なかなかいい方法が浮かばず幾日かが過ぎ、長者が、釜の辺とか釜前(かまさき)と呼ばれる浜辺へ出て塩を焼きながら、あれこれと熊退治の思案をめぐらせていると、海の方から、「おーい、おーい」と自分を呼ぶ声がしました。はて誰かなと目を凝らしても、海しか見えません。もう一度呼ぶ声がするのでもう一度じっくり見ると、小さなそれはとても小さな船に乗った人が、浜辺に近づいてきました。  　「わしはスクナヒコナじゃ。お前にはなんぞ、心配事でもあるのか。」と聞いてきました。　「実は、わたしが住む村に熊が現れ害を与えるのです。どうか助けてくださいませ。」そこでスクナヒコナは、良い思案を親切丁寧に教え授けました。長者は、スクナヒコナが水平線の向うに消えるまで見送った後、早速、村へとんで帰り、村人を集めて、急いで熊退治の準備を始めました。近くの川を堰きとめ、まず深い淵を造ったり、できた淵脇の狭くなったあたりの崖の上に隠れるところを作ったり････。せっせとはげみました。　いよいよ熊退治の当日です。スクナヒコナにからかわれいきりたった熊が奥山から出てきました。長者を見つけると、猛然追いかけてきました。長者は淵脇を必死に逃げます。熊に追いつかれる間際に、狭くなった通路の上から、熊めがけて石や丸太が落とされました。熊はたまらず淵に落ちてしまいました。アップアップして必死に岸に這い上がろうとするところを、長者をはじめ、人々は、一斉に弓矢を射り、槍や石を投げつけました。さすがの..</description>  
    <dc:subject>中能登・七尾の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-23T06:09:49+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>　<font size="2">参考：｢石川縣<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%B9%BF%E5%B3%B6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">鹿島</a>郡誌｣（昭和3年発刊）、<br />　　　　　（日本の民話21）「加賀・能登の民話」（清酒時男編）、<br />　　　　　｢穂にいでずつっぱらめ｣(坪井純子著・七尾市立図書館<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%8F%8B%E3%81%AE%E4%BC%9A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">友の会</a>刊行）</font> </p><p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/KurosakiSukunahikonaJinja.jpg" alt="スクナヒコナが上陸したといわれる海岸の近くにある(七尾市黒崎の)宿那彦神像神社の写真" width="200" height="150" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/KurosakiSukunahikonaJinja.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /> 　　昔々、大呑の（現在の)熊淵の近くの山中に、とても大きな荒熊が棲んでいました。熊は山野を我が物顔に、のしのし歩き回り、田畑を荒らしたり、家畜を襲って食べたりしました。機嫌の悪い時など人間にも襲いかかるなどして、それでその辺りの村の人々はいつもびくびくして暮らしておりました。</p><p>　冬が近づき、熊も冬眠に備えて食物を腹いっぱい詰め込もうとしだし、それにつれ近隣の村への被害がさらにに増えだしました。村人は、ついに堪りかねて、弓の名人でもある村の長者の所へ何とかしてください、と頼みに来ました。長者も、その時、これといった思案はありませんでしたが、村人の難儀を見ていると、頷(うなづ)く他無ありませんでした。</p><p>　なかなかいい方法が浮かばず幾日かが過ぎ、長者が、釜の辺とか釜前(かまさき)と呼ばれる浜辺へ出て塩を焼きながら、あれこれと熊退治の思案をめぐらせていると、海の方から、「おーい、おーい」と自分を呼ぶ声がしました。はて誰かなと目を凝らしても、海しか見えません。もう一度呼ぶ声がするのでもう一度じっくり見ると、小さなそれはとても小さな船に乗った人が、浜辺に近づいてきました。  </p><p>　「わしはスクナヒコナじゃ。お前にはなんぞ、心配事でもあるのか。」<br />と聞いてきました。<br />　「実は、わたしが住む村に熊が現れ害を与えるのです。どうか助けてくださいませ。」<br />そこでスクナヒコナは、良い思案を親切丁寧に教え授けました。長者は、スクナヒコナが水平線の向うに<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%B6%88%E3%81%88%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">消える</a>まで見送った後、早速、村へとんで帰り、村人を集めて、急いで熊退治の準備を始めました。近くの川を堰きとめ、まず深い淵を造ったり、できた淵脇の狭くなったあたりの崖の上に隠れるところを作ったり････。せっせとはげみました。</p><p>　いよいよ熊退治の当日です。スクナヒコナにからかわれいきりたった熊が奥山から出てきました。長者を見つけると、猛然追いかけてきました。長者は淵脇を必死に逃げます。熊に追いつかれる間際に、狭くなった通路の上から、熊めがけて石や丸太が落とされました。熊はたまらず淵に落ちてしまいました。アップアップして必死に岸に這い上がろうとするところを、長者をはじめ、人々は、一斉に弓矢を射り、槍や石を投げつけました。さすがの熊も、怪我で弱り、淵の中で溺死してしまいました。</p><p>　その後、この退治劇にちなみ、熊を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%97&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">落とし</a>たあたりを熊淵と呼び、その川の名もを熊淵川と呼ぶようになったようです。また熊が棲んでいてスクナヒコナの神がからかいながら誘(おび)き出したあたりは生出(おいで)と呼ばれるようになりました。（釜前という名も、おそらく塩水を釜で焼いたことと関係があるのでしょう。）<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/KumabuchiRiverOide.jpg" alt="熊淵川の生出(おいで)付近を撮影したもの" width="200" height="150" align="right" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/KumabuchiRiverOide.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /> <br />　村人は、大喜びし、それからは安心して、暮らせるようになったそうです。<br />　<br />　この長者の噂は、四方に広がりました。ある日、熊淵から北へ二里ほどいった<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%B5%B7%E5%B2%B8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">海岸</a>地帯の集落からの使いが、長者を訪ねてきました。<br />　「長者さま、助けてくさんせ。おらちゃの村にゃ、ムカデに似た大蛇くらいの毒虫が一匹おって、危害を加えてどうにもならんのでござんす。」<br />その毒虫の通り過ぎた後は、草木も枯れ、また毒気にあたると、動物や人間もバタバタ倒れてしまうのであった。<br />　使者の頼みを聞いて、長者は捨て置けぬと思い、特にまだ思案はなかったが、<br />　「おらにできるかどうか。まっ、やってみましょう。」と引き受けました。</p><p>　返事はしたものの、名案はなかなか浮かばず、またスクナヒコナに会えぬものかと釜前の浜へ行って見ました。すると運良くまたスクナヒコナの神が現れてました。話を聞くと、スクナヒコナは、<br />　「それなら、倒した熊の胆（きも)(五臓六腑)と、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%A0%AD%E9%99%80%E8%A2%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">頭陀袋</a>二つぶんの唐辛子を用意しなさい。」<br />とまず指示し、そのあとの策を懇切丁寧に授けました。<br />　長者は、それを聞き終えると、またスクナヒコナが見えなくなるまで見送ってから、その足で、使者が来た村へ向かいました。</p><p>　村人に毒虫退治の準備させ、完了すると、翌朝、長者は、腰に鉈をぶら下げ、二袋の唐辛子を背負うと、広場の松の大木に上り、木の茂みに身を隠しました。そして松の木の下には、熊の胆を置き、毒虫をじっと待ちました。<br />　しばらくすると、熊の胆の臭いを嗅ぎつけて、毒虫が現れました。毒虫がじっと近づくのを待ち、胆に喰らいついた瞬間、長者は、木の上から唐辛子を毒虫めがけて雪の如く撒き散らしました。</p><p>　毒虫は、これにはたまらず、涙を流してのたうち回っていると、木の上から長者が飛び降りて、首のあたりや顔に、メッタギリに鉈で斬りつけました。とうとう首を切られ、毒虫は死んでしまいました。<br />　これを傍で隠れて見ていた村人は、広場に出てくると長者を胴上げし大喜びしました。<br />　そしてこの毒虫がでたあたりの集落は、この話にちなんで虫崎(蟲崎)(むっさき）と呼ばれるようになりました。</p><p>　ところが、ほっとする間もなく、今度は虫崎からさらに北へ一里ほど進んだ海岸の集落から、またまた使者が着ました。その使者が言うには、拡げた羽が数丈もありそうな大きい真っ白な悪鳥が、伊掛山から飛んできて、村人に害を与えるといいます。収穫間近の田んぼや畑を食い荒らしたり、赤子を攫(さら)ったり、相手は空を飛ぶので手に負えないとのこと。長者は、やはり名案はすぐには思いつきませんでしたが、これまた何とかしないといけないと思い、またまた退治を引き受けました。</p><p>　長者は、弓には自信があったので、とりあえず矢(箭)を箙（えびら）に入れて背負い、自慢の弓を持ってその村へ向かいました。その白い悪鳥が出てくるのを待っていると、確かに現しました。狙いをさだめて矢を何本か射ってみましたが、相手は大きすぎて効き目がありません。長者は、がっかりして、逃げ戻ってきました。帰り着いてから、あれこれと何か他に退治の方法はないかと考えてみますが、いくら考えても、やっぱり名案が浮かびません。今度もまた釜前へ行ってスクナヒコナの神に、<br />　「どうか、また悪鳥退治の名案を授けてくださいますように。」<br />と祈りました。</p><p>　すると、今度もまたまたスクナヒコナの神は沖から近寄ってきて、長者の願いを聞きました。<br />　「その悪鳥を退治するには、五人引きの弓で、毒矢を放つよりほかあるまい。」<br />そしてまたその方法を長者に詳しく教え授けました。<br />　長者は、大弓と大きな矢を作ると、先に殺した毒虫から毒を抽出し、甕に溜めました。そして、悪鳥が出る集落から少し離れた場所に庵（小さな小屋）を設け、悪鳥を5､6人の屈強の村人と一緒に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%BE%85%E3%81%A1%E5%8F%97%E3%81%91&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">待ち受け</a>ました。</p><p>　次の日の真昼時、悪鳥が、見かけぬ庵を見つけて上空を旋回しだしました。長者は、悪鳥に見つからぬよう気をつかいながら、矢を毒甕に突っ込み矢尻にたっぷりの毒をつけると、村人と一緒に、弓を持つものと矢を引き絞るものに分かれ、空飛ぶ悪鳥めがけて狙いを定めました。悪鳥が少し下りてきて、過たず距離まで近づくと、頃合を見計らって矢を放ちました。</p><p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/Hotokejima.jpg" alt="仏島(ほとけじま)" width="200" height="150" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/Hotokejima.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /> 　　狙い違わず命中し、ギャァーーと悲鳴を上げました。長者たちは、二の矢をさらに射り、三の矢も射ようとするので、悪鳥は、矢が刺さったまま、残る力を振り絞って、逃れようと舞い上がりました。よろよろと海の上を飛びながら、やがて力尽き、有磯の浦の足姫ヶ崎の波打ち際、仏島（石川県と<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%AF%8C%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">富山</a>県の県境になっている沖合い数十ｍにある小さな島・右の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%86%99%E7%9C%9F&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">写真</a>）の辺りへ、ばっさりと落ちて、倒れました。<br />　村人の歓声をあげ、大喜びをしました。</p><p>　この白い大きな悪鳥が現れた村は、この話にちなみ白鳥と呼ばれるようになりました。<br />　大呑の村々の人々は、村々の難儀を取除いたこの長者を熊淵の長者と呼び、大変尊敬しました。その後、長者が亡くなると、沢山の人々が集まって<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%91%AC%E5%84%80&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">葬儀</a>が行われ、長者の亡骸は山崎の霊夢山というところに祀られました。そこが現在の阿良加志比古神社ということです。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/RokugouArakashihikoJinja.jpg" alt="阿良加志比古神社(七尾市山崎町)" width="200" height="150" align="right" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/RokugouArakashihikoJinja.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /> 　<br />（参考）<br />　この大呑六合というのは、集落名でいうと山崎､花園､熊淵､大泊､東浜､黒崎､佐々波､江泊､大野木､上湯川､岡､須能､管沢､麻生､清水平､小栗､柑子山､外林､澤野､殿にあたるといいます。｢鹿島郡誌｣の神社の項では、この大呑六合の長者とは阿良加志比古神で往古、この地がまだ未開の時にこの地に住んでいた老翁であるといいます。<br />　この話にまつわる阿良加志比古神社（左の写真）は、長者がなくなった後、現在の山崎にある霊夢山(りょうむざん)というところに祀られ出来た神社といわれ、北大呑・南大呑地区の43社の中心社となっています。また智恵を授けたスクナヒコナノミコト(少名彦命・宿那彦神）は、その来着したと言い伝えられる地（黒崎）を、いわゆる巌の磐境(いわくら)と斎定して、大石を御霊代として宿那彦神像神社として祀られています。スクナヒコナは、能登で大国主命に協力して、能登国平定に尽くしたといわれています（→平国祭）。 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-22"> 
    <title>乳もらい地蔵　</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-22</link>  
    <description>（参考:『輪島市史』） 　空熊町の乳もらい地蔵）空熊町下地の中舎(なかすな)家所有にある地蔵は、雲光型の光背があり高さ約70cmほど、手に錫杖をもつ延命坐像の姿をしており、室町時代の作と推定されています。俗に｢乳もらい地蔵｣と称されています。伝承によれば、沖の崎の海底から引き揚げられた尊像であるといいます。また別伝で奥山から運んできたら、ここで動かすことができなくなり、そのまま安置したとも言われています。　霊験あらたかで、特に母乳不足の母親にお乳を授けるとのことで、昔から信仰が厚く今なお参拝者が絶えないといいます。　お詣りする人は、煎り菓子と蝋燭・線香を添えて祈ると良いといわれ、乳が出るようになった者は、盆・正月、または年の暮れにお礼詣りをします。その時は珍しい食べ物の他、地蔵様の帽子や前垂を奉納します。　堂守は中舎家で､｢中砂｣即ち｢なかすな｣で乳を授かり充分に赤子に飲ませ、泣かさないようにとの意味を持つ屋号であるとのことです。この家は、中舎庄三郎という人から代々続いています。地蔵様は、一時盗まれたことがあります。しかし、仏のお告げでほどなく犯人がわかりすぐ取り返すことが出来たといいます。昔、この地方の人に家具を貸してくれたという椀貸し伝説と重なって伝えられています。　稲舟のいりこ地蔵）　この空熊町の地蔵の他に、乳を授ける地蔵様が稲舟の国道249号線にそってひっそりと安置されています。いりこ(麦の粉)を供えて祈願するので｢いりこ地蔵｣とも言います。現在小さな祠の中に新旧二体が納められています。旧い方は風化が甚だしいがこれが昔からのものです。霊験あらたかとして、遠近問わず参詣客が後を絶たないということです。　</description>  
    <dc:subject>奥能登・輪島の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-22T17:07:11+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>（参考:『輪島市史』） </p><p>　<strong>空熊町の乳もらい地蔵）<br /></strong><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/jizou1a.gif" alt="" width="50" height="50" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/jizou1a.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />空熊町下地の中舎(なかすな)家所有にある地蔵は、雲光型の光背があり高さ約70cmほど、手に錫杖をもつ延命坐像の姿をしており、室町時代の作と推定されています。俗に｢乳もらい地蔵｣と称されています。伝承によれば、沖の崎の海底から引き揚げられた尊像であるといいます。また別伝で奥山から運んできたら、ここで動かすことができなくなり、そのまま安置したとも言われています。</p><p>　霊験あらたかで、特に母乳不足の母親にお乳を授けるとのことで、昔から信仰が厚く今なお参拝者が絶えないといいます。<br />　お詣りする人は、煎り<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%8F%93%E5%AD%90&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">菓子</a>と蝋燭・線香を添えて祈ると良いといわれ、乳が出るようになった者は、盆・正月、または年の暮れにお礼詣りをします。その時は珍しい食べ物の他、地蔵様の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%B8%BD%E5%AD%90&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">帽子</a>や前垂を奉納します。</p><p>　堂守は中舎家で､｢中砂｣即ち｢なかすな｣で乳を授かり充分に赤子に飲ませ、泣かさないようにとの意味を持つ屋号であるとのことです。この家は、中舎庄三郎という人から代々続いています。地蔵様は、一時盗まれたことがあります。しかし、仏のお告げでほどなく犯人がわかりすぐ取り返すことが出来たといいます。昔、この地方の人に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%AE%B6%E5%85%B7&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">家具</a>を貸してくれたという椀貸し伝説と重なって伝えられています。</p><p>　<strong>稲舟のいりこ地蔵）</strong><br />　この空熊町の地蔵の他に、乳を授ける地蔵様が稲舟の国道249号線にそってひっそりと安置されています。いりこ(麦の粉)を供えて祈願するので｢いりこ地蔵｣とも言います。現在小さな祠の中に新旧二体が納められています。旧い方は風化が甚だしいがこれが昔からのものです。霊験あらたかとして、遠近問わず参詣客が後を絶たないということです。　</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-21"> 
    <title>首切り地蔵</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-21</link>  
    <description>　(参考：『石川県羽咋郡誌』）　昔々、梨谷にイタズラ好きな百姓がおりました。　野良仕事のための移動の途中など、周囲を見ながら毎日のように何か面白いイタズラはできないものかと考えていた。いい考え思いつくと、人に気付かれぬようこっそりとイタズラをして立ち去り、後でそのイタズラで困っている者がいた事など知ると、陰で腹を抱えて笑うのを楽しみとしているのでした。　ある天気のいい日、その百姓は馬をひいて北吉田のとある山中へ草刈に出かけました。　半刻（約一時間）も経つと、もう馬の背に乗せられないほど沢山刈り取ることが出来ました。　さてもうそろそろ帰ろうかの、と思いふと右横を見ると、路傍に丈一尺ほどのとても穏やかな顔をしたお地蔵様が立っていました。その姿がいかにも無邪気に見えるもので、彼はついいつものいたずらっ気が出てしまいした。バチあたりにも、その首に草履を引っ掛けてしまいました。　翌朝、百姓は再びその場所へ草刈の続きのため通りました。すると誰の仕業か、昨日お地蔵様の首にかけておいた草履が見当たりません。この道は、山中の道で、他の集落などとの往来道ではないので、おかしいな、と思ったのです。周囲をあちこち探してみると、かなり遠い所にその草履は捨てられておりました。　不思議だなと思い、お百姓は、地蔵の顔をジロジロ見ますと、今日はどういう訳か、自分に向かって「このだらぶち（アホタレ）」と言わんばかりの顔つきにみえます。それが癪にさわり、いたずら好きな百姓は、今度は、何と有難いお地蔵様の首に鎌をかけてグイッと引っ張りました。　　すると妙な事もあるもので、石なのに、あたかも肉を切るかのようにスーッときれいに切れて、首が落ちてしまいました。百姓は、イタズラとはいえ思いがけぬ結果にゾットとし気味が悪くなりました。　草刈も早々に終え、気味悪い気持ちを引き摺りながら家へ帰ってきました。　ところが、我家へ帰り着いた途端、草を担がせてきた馬が何かに吃驚して一声大きく嘶(いなな)きました。そして躍り上って暴れ、一人で馬屋へ駆け込もうとしました。　百姓は手綱を持って、必死に取り押さえ鎮めようと頑張りますが、興奮して狂ったように暴れる馬にはぜんぜん効き目がありません。我が身も、馬屋の方へずるずる引き摺られていきます。　そこで百姓は、ついに堪りかねて、最後の力を振り絞って、手綱を思いっきり強く引き寄せました。　ところが、その時、馬も満身の力を振り絞って馬屋..</description>  
    <dc:subject>口能登・志賀町の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-21T06:49:30+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>　(参考：『石川県羽咋郡誌』）</p><p>　昔々、梨谷にイタズラ好きな百姓がおりました。<br />　野良仕事のための移動の途中など、周囲を見ながら毎日のように何か面白いイタズラはできないものかと考えていた。いい考え思いつくと、人に気付かれぬようこっそりとイタズラをして立ち去り、後でそのイタズラで困っている者がいた事など知ると、陰で腹を抱えて笑うのを楽しみとしているのでした。</p><p>　ある天気のいい日、その百姓は馬をひいて北吉田のとある山中へ草刈に出かけました。<br />　半刻（約一時間）も経つと、もう馬の背に乗せられないほど沢山刈り取ることが出来ました。</p><p>　さてもうそろそろ帰ろうかの、と思いふと右横を見ると、路傍に丈一尺ほどのとても穏やかな顔をしたお地蔵様が立っていました。その姿がいかにも無邪気に見えるもので、彼はついいつものいたずらっ気が出てしまいした。バチあたりにも、その首に草履を引っ掛けてしまいました。</p><p>　翌朝、百姓は再びその場所へ草刈の続きのため通りました。すると誰の仕業か、昨日お地蔵様の首にかけておいた草履が見当たりません。この道は、山中の道で、他の集落などとの往来道ではないので、おかしいな、と思ったのです。周囲をあちこち探してみると、かなり遠い所にその草履は捨てられておりました。</p><p>　不思議だなと思い、お百姓は、地蔵の顔をジロジロ見ますと、今日はどういう訳か、自分に向かって「このだらぶち（アホタレ）」と言わんばかりの顔つきにみえます。それが癪にさわり、いたずら好きな百姓は、今度は、何と有難いお地蔵様の首に鎌をかけてグイッと引っ張りました。<br />　<br />　すると妙な事もあるもので、石なのに、あたかも肉を切るかのようにスーッときれいに切れて、首が落ちてしまいました。百姓は、イタズラとはいえ思いがけぬ結果にゾットとし気味が悪くなりました。</p><p>　草刈も早々に終え、気味悪い気持ちを引き摺りながら家へ帰ってきました。<br />　ところが、我家へ帰り着いた途端、草を担がせてきた馬が何かに吃驚して一声大きく嘶(いなな)きました。そして躍り上って暴れ、一人で馬屋へ駆け込もうとしました。</p><p>　百姓は手綱を持って、必死に取り押さえ鎮めようと頑張りますが、興奮して狂ったように暴れる馬にはぜんぜん効き目がありません。我が身も、馬屋の方へずるずる引き摺られていきます。</p><p>　そこで百姓は、ついに堪りかねて、最後の力を振り絞って、手綱を思いっきり強く引き寄せました。<br />　ところが、その時、馬も満身の力を振り絞って馬屋へ突っ込んだものですから、百姓は手綱を握ったまま、ひゅーんと宙に舞い上がりました。そして運悪く、カモイに頭をぶち当てて、即死してしまったということです。 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-20"> 
    <title>てんぼ大須古(おおすこ)</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-20</link>  
    <description>参考：石川縣鹿島郡誌（昭和3年発刊）､　　　（日本の民話　21）「加賀・能登の民話」（清酒時男編）　　　「石川の民話」石川県教育文化財団） 　昔、（旧：鹿島町・現：中能登町）久江に大須古という名の大地主がおりました。　ある晴れた日、谷内へ畠仕事に行き、昼食をしようとして弁当を広げたところ、握り飯1個を取り落とし、握り飯は、転がって畠の隅の鼠の穴に入ってしまいました。 　男は、その鼠の穴を掘り返し、握り飯を探し求めたけれども、ついに見つかりませんでした。　仕方なく残りの握り飯を食べて、草の上に転がって午後の一休みしていると、　「大須古さん、大須古さん」と自分を呼ぶ声がします。はてな誰だろうと立ち上がって周りを見回しても誰もいません。　座りなおすと、また同じ声がするので、今度はじっくりとその声の方をみてみると、一匹の鼠が呼んでいるのでした。そして、　「先程は、握り飯を頂きましたが、誠に美味しかったです。何かお礼をしたいと存じますので、何卒、私共のところへお遊びにお出で下され」というではないですか。　大須古は、　「行ける物なら行きたいが、でも鼠の小さな家へどうやって行くのかの。」と返事をしました。すると、　「では私に背中に負んぶしてください、そしてお目をつぶって下さい。私が良いと言うまで決してお目を開けてはいけません。」というので、言われるままに、　「それでは行って見ましょうか。」目を閉じて鼠に負われました。　しばらくすると、やがて「もう着きました」と言う声である。それで目を開いてみれば、日も出ていないのに、あたりは真昼のように明るく、目の前には壮麗なる御殿造りの屋敷が建っていました。　鼠らは、門の前に居並び「ようこそ」と、喜び迎え、上を下への大混雑となりました。　大須古は、そのまま奥座敷へ通されました。　「ただいま、白御飯を差し上げますから、少々お待ちください。」と言い残して、鼠たちは米搗き部屋へ下がりました。一匹の鼠が、米搗(つ)き部屋でとんとんと米を搗いていたが、杵に和して「鼬(いたち)かちかち猫さえおらにゃ鼠この世は極楽さ」と歌い囃しました。周りの鼠もそれにあわせて合唱しだしました。　大須古は、それが妙におかしい調子なので、もともとむらっけの多い男だった事もあり、ちょっとイタズラ心を起こしました。これは1つ驚くかもしれないと　「ニャオオ～ン」と猫の鳴き声を一声真似てみました。　するとどうでしょう。猫まねの声をす..</description>  
    <dc:subject>中能登・中能登町の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-20T06:47:02+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p><font size="2">参考：石川縣<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%B9%BF%E5%B3%B6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">鹿島</a>郡誌（昭和3年発刊）､<br />　　　（日本の民話　21）「加賀・能登の民話」（清酒時男編）<br />　　　「石川の民話」石川県<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%95%99%E8%82%B2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">教育</a>文化財団）</font> </p><p>　昔、（旧：鹿島町・現：中能登町）久江に大須古という名の大<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%9C%B0%E4%B8%BB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地主</a>がおりました。<br />　ある晴れた日、谷内へ畠仕事に行き、昼食をしようとして弁当を広げたところ、握り飯1個を取り落とし、握り飯は、転がって畠の隅の鼠の穴に入ってしまいました。<br /><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/piyo_h_007.gif" alt="" width="40" height="40" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/piyo_h_007.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /> 　男は、その鼠の穴を掘り返し、握り飯を探し求めたけれども、ついに見つかりませんでした。</p><p>　仕方なく残りの握り飯を食べて、草の上に転がって午後の一休みしていると、<br />　「大須古さん、大須古さん」<br />と自分を呼ぶ声がします。はてな誰だろうと立ち上がって周りを見回しても誰もいません。</p><p>　座りなおすと、また同じ声がするので、今度はじっくりとその声の方をみてみると、一匹の鼠が呼んでいるのでした。そして、<br />　「先程は、握り飯を頂きましたが、誠に美味しかったです。何かお礼をしたいと存じますので、何卒、私共のところへお遊びにお出で下され」<br />というではないですか。</p><p>　大須古は、<br />　「行ける物なら行きたいが、でも鼠の小さな家へどうやって行くのかの。」<br />と返事をしました。すると、<br />　「では私に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%83%8C%E4%B8%AD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">背中</a>に負んぶしてください、そしてお目をつぶって下さい。私が良いと言うまで決してお目を開けてはいけません。」<br />というので、言われるままに、<br />　「それでは行って見ましょうか。」<br />目を閉じて鼠に負われました。</p><p>　しばらくすると、やがて「もう着きました」と言う声である。それで目を開いてみれば、日も出ていないのに、あたりは真昼のように明るく、目の前には壮麗なる御殿造りの屋敷が建っていました。<br />　鼠らは、門の前に居並び「ようこそ」と、喜び迎え、上を下への大混雑となりました。<br />　大須古は、そのまま奥座敷へ通されました。</p><p>　「ただいま、白御飯を差し上げますから、少々お待ちください。」<br />と言い残して、鼠たちは米搗き部屋へ下がりました。一匹の鼠が、米搗(つ)き部屋でとんとんと米を搗いていたが、杵に和して「鼬(いたち)かちかち猫さえおらにゃ鼠この世は極楽さ」と歌い囃しました。周りの鼠もそれにあわせて合唱しだしました。</p><p>　大須古は、それが妙におかしい調子なので、もともとむらっけの多い男だった事もあり、ちょっとイタズラ心を起こしました。これは1つ驚くかもしれないと<br />　「ニャオオ～ン」<br />と猫の鳴き声を一声真似てみました。</p><p>　するとどうでしょう。猫まねの声をするやいなや、鼠らは慌てふためくざわめきとともに、ドカドカドッカーン､バッターンと大きな物音がし、あたりは急に真っ暗になってしまいました。<br />　そのため大須古は、ただ１人暗くて冷たい穴にとり残されてしまいました。</p><p>　鼠たちは、どこに隠れ潜んでしまったのか、と思い、大須古は<br />　「どうしたんかい。誰か来てくれー」<br />とあたりを呼びますが、も何の返事もありません。もと来た道も探して求めましたが、道も穴も見つかりませんでした。</p><p>　仕方なく、素手で<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%9C%B0%E4%B8%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地上</a>へと頭上の土を掘り、穴を穿（うが)ってようやく這い出しましたが、爪は勿論、指までする切れてなくなり、とうとう‘<strong>てんぼ</strong>’(手の爪も指もなく、手首だけの様を「てんぼ」という）になってしまった、ということです。</p><p>　師走23日の朝、春祭りの宿に当たる家で、一椀の小豆雑煮を供えますが、この日は必ず雨が降るといわれ、これを大須古の跡隠といいます。古い古謡に「曾冨騰大須古能登の人生れ在所は久江の谷内なり（かつて冨栄えた大須古は能登の人、生まれた在所は久江の谷内であ）」とあります。</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-19"> 
    <title>音無川の薬水の由来　</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-19</link>  
    <description>　(参考：『石川県鳳至郡誌』)　能登町の猪平地区には、音無川という清流が流れています。昔々、羽根を怪我した鷹がこの水で傷を癒しているのを旅の僧が見つけたそうです。この鷹を見た僧はとてもこの水を気に入りゴクゴクと飲んでいたのですが、どうもこの水には傷を治す効果がある様子。さっそく地元の浮腫で悩んでいた老婆にこの水を勧めてみたところ、なんと翌日の朝には腫れがひいていたそうです。それ以来、この清流の沸かした水を飲むと浮腫が治るといわれているそうです。（能登町・猪平地区） 　この話には別伝もあるようで、「のとツーリズム　奥能登観光ガイド」(カテゴリーの｢能登の民話集｣を選びクリックし進むとこの話が載っている)では旅の僧が飲んでいた川の水を、近所の浮腫に悩むお婆さんが飲んでみたところ、翌朝には浮腫が治っていた、という内容になっています。そちらも併せて読み、比べるのも楽しいかと思います。</description>  
    <dc:subject>奥能登・能登町の民話</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-19T06:27:58+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>　(参考：『石川県鳳至郡誌』)</p><p>　能登町の猪平地区には、音無川という清流が流れています。昔々、羽根を怪我した鷹がこの水で傷を癒しているのを旅の僧が見つけたそうです。この鷹を見た僧はとてもこの水を気に入りゴクゴクと飲んでいたのですが、どうもこの水には傷を治す効果がある様子。さっそく地元の浮腫で悩んでいた老婆にこの水を勧めてみたところ、なんと翌日の朝には腫れがひいていたそうです。それ以来、この清流の沸かした水を飲むと浮腫が治るといわれているそうです。（能登町・猪平地区） </p><p>　この話には別伝もあるようで、<a href="http://noto-tourism.com/">「のとツーリズム　奥能登観光ガイド」</a>(カテゴリーの｢能登の民話集｣を選び<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">クリック</a>し進むとこの話が載っている)では旅の僧が飲んでいた川の水を、近所の浮腫に悩むお婆さんが飲んでみたところ、翌朝には浮腫が治っていた、という内容になっています。そちらも併せて読み、比べるのも楽しいかと思います。</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-18"> 
    <title>ミズシ(河童)のねり薬　</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-18</link>  
    <description> (参考：『加賀・能登の伝説(日本の伝説12)』角川書店） 　ミズシとは、志賀（しか)町高浜地区の方言で河童のことです。高浜は志賀町の中心街です。高浜のバス停から北1.5ｋｍ、米町(こんまち)川に架かる渕端橋(志賀町末吉）を渡ると、左にミズシの練り薬“疳薬”（五臓・強壮）を伝える渕端家があります。　なぜミズシの練り薬と呼ばれるか、その話をこれからしましょう。　慶長年間（1596～1615）のある日、米町川（当時は神代（かくみ）川と呼ばれた）の川辺で、渕端家の祖先にあたる武士が馬に水浴させようとしたところ、ミズシ（河童）が馬の尻尾に飛びつき、川へ引きずり込もうとしました。　驚いた馬はミズシをつけたまま屋敷に逃げ帰りました。　最初何が起きたかわからず暴走する馬を必死に追いかけた主人は、尻尾にしがみ付いて半ば気絶していたミズシを見つけて原因を悟り、すかさず捕らえました。途中で気付き逃げ出そうともがきますが、水の中では馬に匹敵する力を出すミズシも陸(おか)の上では力が出ません。能無しです。主人によって楽々と押さえ込まれ、家の前のタブの木に縛り付けられてしまいました。　そして主人はその後、棒や素手などで折檻を始めました。　ミズシは堪らず、秘伝の万病に効く妙薬の調合方法を教えてくれるから助けてくれ、と嘆願しました。主人も殺すまでは考えておらず、心のうちでもうそろそろやめようかと考えていたところなので、聞き届けました。　手が使えるように縄を一部解いてやると、ミズシは、紙をもらうと自分が流した血をミズカキのある手の指先に付け、薬の調合方法を書きました。一種類の薬なので、短い文章で十分だったのです。　それが本当に効くかどうか一度試してみないとわかりません。主人もその時はあまりアテにはしていませんでしたが、これだけ懲らしめてやればもう悪さはしないだろうと思ったのです。調合方法を書いた紙をもらうと、縄を完全に解き、ミズシ（河童）を許して放免したと伝えられています。　その事件の後も、お礼に川魚をツブレ(釣瓶）に入れて、自分が縛られたタブの木にかけおくことがあったといいます。そのタブの老樹は今でも同家の前にそそり立っているということです。　面白いことに、このミズシの墓といわれうものもあり、志賀町堀松のはずれの宗泉寺（曹洞宗）の山門を入ったすぐ左手にあるということです。</description>  
    <dc:subject>口能登・志賀町の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-18T07:55:35+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p> (参考：『加賀・能登の伝説(日本の伝説12)』角川書店） </p><p>　ミズシとは、志賀（しか)町高浜地区の方言で河童のことです。高浜は志賀町の中心街です。高浜のバス停から北1.5ｋｍ、米町(こんまち)川に架かる渕端橋(志賀町末吉）を渡ると、左にミズシの練り薬“疳薬”（五臓・強壮）を伝える渕端家があります。</p><p>　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/00620Kappa.gif" alt="ミズシ(河童)" width="58" height="71" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/00620Kappa.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />なぜミズシの練り薬と呼ばれるか、その話をこれからしましょう。</p><p>　慶長年間（1596～1615）のある日、米町川（当時は神代（かくみ）川と呼ばれた）の川辺で、渕端家の祖先にあたる武士が馬に水浴させようとしたところ、ミズシ（河童）が馬の尻尾に飛びつき、川へ引きずり込もうとしました。<br />　驚いた馬はミズシをつけたまま屋敷に逃げ帰りました。</p><p>　最初何が起きたかわからず暴走する馬を必死に追いかけた主人は、尻尾にしがみ付いて半ば気絶していたミズシを見つけて原因を悟り、すかさず捕らえました。途中で気付き逃げ出そうともがきますが、水の中では馬に匹敵する力を出すミズシも陸(おか)の上では力が出ません。能無しです。主人によって楽々と押さえ込まれ、家の前のタブの木に縛り付けられてしまいました。</p><p>　そして主人はその後、棒や素手などで折檻を始めました。</p><p>　ミズシは堪らず、秘伝の万病に効く妙薬の調合方法を教えてくれるから助けてくれ、と嘆願しました。主人も殺すまでは考えておらず、心のうちでもうそろそろやめようかと考えていたところなので、聞き届けました。</p><p>　手が使えるように縄を一部解いてやると、ミズシは、紙をもらうと自分が流した血をミズカキのある手の指先に付け、薬の調合方法を書きました。一種類の薬なので、短い文章で十分だったのです。</p><p>　それが本当に効くかどうか一度試してみないとわかりません。主人もその時はあまりアテにはしていませんでしたが、これだけ懲らしめてやればもう悪さはしないだろうと思ったのです。調合方法を書いた紙をもらうと、縄を完全に解き、ミズシ（河童）を許して放免したと伝えられています。</p><p>　その事件の後も、お礼に川魚をツブレ(釣瓶）に入れて、自分が縛られたタブの木にかけおくことがあったといいます。そのタブの老樹は今でも同家の前にそそり立っているということです。<br />　面白いことに、このミズシの墓といわれうものもあり、志賀町堀松のはずれの宗泉寺（曹洞宗）の山門を入ったすぐ左手にあるということです。 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-17"> 
    <title>妙観院の鐘</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-17</link>  
    <description>　(出典：『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊)） 　七尾町の西郊の湾に臨む海岸べりに妙観院（七尾市小島町）という古刹があります。巨岩を穿（うが）ちて、その間に洞門を通じ、海よりの岩の上には大悲殿鐘楼が築かれております。風景は絶景にして七尾名所の一つでありました。　伝説では、昔、妙観院の鐘を鋳造して鐘楼に吊るしたが、ある夜、うなり声を立てて鐘は鐘楼を抜け出て、崖下の水の中に深く沈んでしまいました。このようなことが一度ならず何度かあったので、これは釣鐘の吊る部分が龍頭であるので、龍となって海の中に入るものであるといわれました。　その後、新たに鐘を鋳造した際、龍頭（鐘を吊る部分）を龍の頭ではなく、竹と虎のデザインに替えたが、今でも妙観院の鐘の龍頭は竹と虎のデザインとなっている。そして海の水が澄んでいる時は、海の中に沈んだ鐘があるのを確認することができたといいます。又、松百橋（七尾市松百町）でも、妙観院へ奉納しようとした鐘が、運ぶ途中、水の中に沈んでしまったと言い伝えられています。　ここまでは『石川縣鹿島郡誌』（昭和3年発刊）を現代文に書き改めただけで、そのまま紹介しました。この本が書かれた昭和3年に海際にあったこの寺も、今では周囲を埋め立てられ、海から100ｍ以上離れてしまいました。　この伝説に関しては別伝では、鐘が海に引きずり込まれる理由として、約３００年前、願いがかなわず入水した女性が龍に化け吊り鐘を何度も海へひきずり込むのだというものがあります。その話の方がよく知られています。竹と虎の吊り手も、全国にただ1つのものだそうです。　この竹と虎の吊り鐘の話は、地元では“妙観院七不思議”として知られる話の一つで、他の6つは｢底なし池の不思議｣、｢観世音菩薩像の不思議｣、｢弁財天の不思議｣、｢夫婦岩の不思議｣、｢獅子岩と鼓岩の不思議｣、｢そうめん不動尊の不思議 ｣で、また機会があったらここで紹介します。　さらにこの寺の説明を付け加えておきましょう。真言宗高野山派の寺で、井上靖なども北陸の名刹として紹介しています。また快慶が作ったと考えられている仏像や、最近亡くなった地元出身の流行時代小説家・戸部新十郎の墓などもあり、小さな寺ながら訪れる者が多い観光スポットとなっています。</description>  
    <dc:subject>中能登・七尾の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-17T08:22:17+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>　(出典：『石川縣<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%B9%BF%E5%B3%B6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">鹿島</a>郡誌』(昭和3年発刊)）<br /> <br />　七尾町の西郊の湾に臨む<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%B5%B7%E5%B2%B8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">海岸</a>べりに妙観院（七尾市小島町）という古刹があります。巨岩を穿（うが）ちて、その間に洞門を通じ、海よりの岩の上には大悲殿鐘楼が築かれております。風景は絶景にして七尾名所の一つでありました。</p><p>　伝説では、昔、妙観院の鐘を鋳造して鐘楼に吊るしたが、ある夜、うなり声を立てて鐘は鐘楼を抜け出て、崖下の水の中に深く沈んでしまいました。このようなことが一度ならず何度かあったので、これは釣鐘の吊る部分が龍頭であるので、龍となって海の中に入るものであるといわれました。</p><p>　その後、新たに鐘を鋳造した際、龍頭（鐘を吊る部分）を龍の頭ではなく、竹と虎の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">デザイン</a>に替えたが、今でも妙観院の鐘の龍頭は竹と虎のデザインとなっている。そして海の水が澄んでいる時は、海の中に沈んだ鐘があるのを確認することができたといいます。又、松百橋（七尾市松百町）でも、妙観院へ奉納しようとした鐘が、運ぶ途中、水の中に沈んでしまったと言い伝えられています。</p><p>　ここまでは『石川縣鹿島郡誌』（昭和3年発刊）を現代文に書き改めただけで、そのまま紹介しました。この本が書かれた昭和3年に海際にあったこの寺も、今では周囲を埋め立てられ、海から100ｍ以上離れてしまいました。</p><p>　この伝説に関しては別伝では、鐘が海に引きずり込まれる理由として、約３００年前、願いがかなわず入水した女性が龍に化け吊り鐘を何度も海へひきずり込むのだというものがあります。その話の方がよく知られています。竹と虎の吊り手も、全国にただ1つのものだそうです。</p><p>　この竹と虎の吊り鐘の話は、地元では“妙観院七不思議”として知られる話の一つで、他の6つは｢底なし池の不思議｣、｢観世音菩薩像の不思議｣、｢弁財天の不思議｣、｢<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%A4%AB%E5%A9%A6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">夫婦</a>岩の不思議｣、｢獅子岩と鼓岩の不思議｣、｢そうめん不動尊の不思議 ｣で、また機会があったらここで紹介します。</p><p>　さらにこの寺の説明を付け加えておきましょう。真言宗高野山派の寺で、井上靖なども<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%8C%97%E9%99%B8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">北陸</a>の名刹として紹介しています。また快慶が作ったと考えられている仏像や、最近亡くなった地元出身の流行時代<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%B0%8F%E8%AA%AC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">小説</a>家・戸部新十郎の墓などもあり、小さな寺ながら訪れる者が多い<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%A6%B3%E5%85%89&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">観光</a><a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">スポット</a>となっています。 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-16"> 
    <title>ムジナの失敗</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-16</link>  
    <description>　(参考：『鳳至郡誌』他） 　昔、寛政６年(1794)といいますから、今から200年以上も昔の話です。　町野(現輪島市町野)の鈴屋という在所に、男と娘がおりました。二人はいつのまにか仲良くなって、毎晩宮森というところで、逢引していました。そのうち娘は、子を孕(はら)んでしまいました。こっそり会っていたので、親に知れると大変です。　そこで娘が言いました。 　「とうとう、こんなことになってしもうた。死ぬより他に道ぁないわね。」すると男が言いました。　「お前に死なれたら、おらやって、生きとる甲斐が無い。どうして、おまいだけ死なそう(死なせるもんか)。」　「ほんなら、一緒に死んでくれるか。」男は一瞬躊躇(ためら)いをみせ言い淀んだが、じっとこちらを見つめる娘に思わず、頷いてしまいました。　やがて、約束の夜がやってきました。　その晩、やはり男は死ぬのを恐れて、約束の場所へは行かないことにしました。娘も行かなければ死ぬのを諦めるかもしれないと考えたのです。「男は度胸、女は愛嬌」などとと言いますが、実際はいつの時代も女の方が度胸がいいのかもしれません。　娘が宮森のはずれに月明かりを浴びて待っていると、しかしどういう訳か男が姿を見せました。勿論、娘は男が死ぬのを怖がったことなど知りませんから、不思議にも思わず早速心中の用意を始め出します。　松の木の枝に一本の縄を吊るして、二人はその両端に首を結わえました。一、ニの合図で、二人は台石の上から飛び降りました。ところが、不思議なことに、男の体が妙に軽く、そのため娘の足が地面についてしまいました。　娘は変に思って、空高く吊るしあがった男を見れば、これはまた不思議、男のはずが男ではなく、一匹のムジナがぶら下っているのです。頭をぐったり垂れて、すでにこの世のものではありません。　娘は吃驚仰天し、我家へ駆け戻りました。　ことの起こりは、このムジナもやはりこの娘に恋焦がれていたのでした。　ムジナは宮森の主でした。男と娘が約束を交わした夜、宮の縁の下に隠れて二人の話を聞いていたのでした。ムジナは男が死を恐れて来ないのを知ると、男に化けて、娘と自分が心中しようとしたのです。</description>  
    <dc:subject>奥能登・輪島の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-16T07:46:20+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>　(参考：『鳳至郡誌』他） <br />　昔、寛政６年(1794)といいますから、今から200年以上も昔の話です。<br />　町野(現輪島市町野)の鈴屋という在所に、男と娘がおりました。二人はいつのまにか仲良くなって、毎晩宮森というところで、逢引していました。そのうち娘は、子を孕(はら)んでしまいました。こっそり会っていたので、親に知れると大変です。<br />　そこで娘が言いました。</p><p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/tanu1a.gif" alt="" width="32" height="32" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/tanu1a.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /> 　「とうとう、こんなことになってしもうた。死ぬより他に道ぁないわね。」<br />すると男が言いました。<br />　「お前に死なれたら、おらやって、生きとる甲斐が無い。どうして、おまいだけ死なそう(死なせるもんか)。」<br />　「ほんなら、一緒に死んでくれるか。」<br />男は一瞬躊躇(ためら)いをみせ言い淀んだが、じっとこちらを見つめる娘に思わず、頷いてしまいました。</p><p>　やがて、約束の夜がやってきました。<br />　その晩、やはり男は死ぬのを恐れて、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E7%B4%84%E6%9D%9F%E3%81%AE%E5%A0%B4%E6%89%80&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">約束の場所</a>へは行かないことにしました。娘も行かなければ死ぬのを諦めるかもしれないと考えたのです。「男は度胸、女は愛嬌」などとと言いますが、実際はいつの時代も女の方が度胸がいいのかもしれません。</p><p>　娘が宮森のはずれに月明かりを浴びて待っていると、しかしどういう訳か男が姿を見せました。勿論、娘は男が死ぬのを怖がったことなど知りませんから、不思議にも思わず早速心中の用意を始め出します。</p><p>　松の木の枝に一本の縄を吊るして、二人はその両端に首を結わえました。一、ニの合図で、二人は台石の上から飛び降りました。ところが、不思議なことに、男の体が妙に軽く、そのため娘の足が地面についてしまいました。</p><p>　娘は変に思って、空高く吊るしあがった男を見れば、これはまた不思議、男のはずが男ではなく、一匹のムジナがぶら下っているのです。頭をぐったり垂れて、すでにこの世のものではありません。<br />　娘は吃驚仰天し、我家へ駆け戻りました。</p><p>　ことの起こりは、このムジナもやはりこの娘に恋焦がれていたのでした。<br />　ムジナは宮森の主でした。男と娘が約束を交わした夜、宮の縁の下に隠れて二人の話を聞いていたのでした。ムジナは男が死を恐れて来ないのを知ると、男に化けて、娘と自分が心中しようとしたのです。 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-15"> 
    <title>蛾山松</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-15</link>  
    <description>　(参考：『志雄町の民話と伝承　第一輯』志雄町教育委員会）　 　昔、敷浪村と宿（しゅく）村との境に「大久保山」という場所があり、そこに松の大木が茂っていました。それはそれは大変大きなもので、木の傘の下に何十人もの人が座れるぐらいどっしりとした松の木でした。　この辺りは、海が山に迫り、海岸沿いに歩いて行く方法もあるのですが、集落がある街道沿いに行き来する旅人には、海岸道は迂回路となります。それだけにこの道は越中・能登方面と加賀を結ぶ街道の一つをなしていました。　昔々、その松の木から少し離れた所に、‘がさんまつ’と言う名の若くて大変荒っぽい気の強そうな顔の男が、小さな小屋を建てて住んでおりました。彼には、それでも妻がおり、物盗りや追いはぎをしては、旅の人をあやめて暮らしていました。　どうやるのかというと、がさんまつは、毎日毎日その大きな松の木にいとも簡単にスルスル登っては、木の股にどっかりと座り込み、松の木の下の道を歩いていく旅人の様子を眺めて金になりそうなカモを待つのでした。お金をもっていそうな人や、立派な着物を着た人たちを見つけ次第、木をするする降りて、脅かし、お金を巻き上げたり、着ぐるみ剥ぎ取ったりして、旅人を困らせていました。　ある日のこと、いつもの様に、松の木に登って、道の向うから獲物がやって来ないか、と眺めていました。どれだけたった頃でしょうか、がさんまつの目に、それはそれは立派な着物を身につけた娘と、その娘のお供らしい女の二人連れが、急ぎ足でこちらへ歩いてくるのが見えました。娘は身なりからして、相当名のある大店のお嬢さんらしく、顔立ちも大そう美しく、気品もありました。またお供している人は、店の使用人らしくいかにも忠実そうにぴったりとくっ付いて歩いていました。　がさんまつは、「しめしめ、これは相当なカモだぞ。しかも、うまい具合に、二人の前にも後ろにも、人影が見当たらないぞ。」と、思いながら、松の木からするりと降りて、木の陰に隠れて、二人が近づいてくるのを待ち伏せしました。　そして松の木の前まで来ると、二人の前に両手一杯拡げて立ちはだかり、　「おい、こらっ！待ちな！そこの二人、命が惜しかったら、着ている着物身ぐるみ脱いで、着物とお金を、そこに置いていきな！」と、ドスの効いた声で驚かしました。　娘とお供の者は、声も出ないほど吃驚しました。逆らえば何をされるかわからないと思って、言われた通りに大人しく来ていた着..</description>  
    <dc:subject>口能登・宝達志水町の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-15T07:58:17+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>　(参考：『志雄町の民話と伝承　第一輯』志雄町<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%95%99%E8%82%B2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">教育</a>委員会）　<br /> <br />　昔、敷浪村と宿（しゅく）村との境に「大久保山」という場所があり、そこに松の大木が茂っていました。それはそれは大変大きなもので、木の傘の下に何十人もの人が座れるぐらいどっしりとした松の木でした。</p><p>　この辺りは、海が山に迫り、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%B5%B7%E5%B2%B8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">海岸</a>沿いに歩いて行く方法もあるのですが、集落がある街道沿いに行き来する旅人には、海岸道は迂回路となります。それだけにこの道は越中・能登方面と加賀を結ぶ街道の一つをなしていました。</p><p>　昔々、その松の木から少し離れた所に、‘がさんまつ’と言う名の若くて大変荒っぽい気の強そうな顔の男が、小さな小屋を建てて住んでおりました。彼には、それでも妻がおり、物盗りや追いはぎをしては、旅の人をあやめて暮らしていました。</p><p>　どうやるのかというと、がさんまつは、毎日毎日その大きな松の木にいとも簡単にスルスル登っては、木の股にどっかりと座り込み、松の木の下の道を歩いていく旅人の様子を眺めて金になりそうなカモを待つのでした。お金をもっていそうな人や、立派な<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E7%9D%80%E7%89%A9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">着物</a>を着た人たちを見つけ次第、木をするする降りて、脅かし、お金を巻き上げたり、着ぐるみ剥ぎ取ったりして、旅人を困らせていました。</p><p>　ある日のこと、いつもの様に、松の木に登って、道の向うから獲物がやって来ないか、と眺めていました。どれだけたった頃でしょうか、がさんまつの目に、それはそれは立派な着物を身につけた娘と、その娘のお供らしい女の二人連れが、急ぎ足でこちらへ歩いてくるのが見えました。娘は身なりからして、相当名のある大店のお嬢さんらしく、顔立ちも大そう美しく、気品もありました。またお供している人は、店の使用人らしくいかにも忠実そうにぴったりとくっ付いて歩いていました。</p><p>　がさんまつは、「しめしめ、これは相当なカモだぞ。しかも、うまい具合に、二人の前にも後ろにも、人影が見当たらないぞ。」と、思いながら、松の木からするりと降りて、木の陰に隠れて、二人が近づいてくるのを<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%BE%85%E3%81%A1%E4%BC%8F%E3%81%9B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">待ち伏せ</a>しました。</p><p>　そして松の木の前まで来ると、二人の前に両手一杯拡げて立ちはだかり、<br />　「おい、こらっ！待ちな！そこの二人、命が惜しかったら、着ている着物身ぐるみ脱いで、着物とお金を、そこに置いていきな！」<br />と、ドスの効いた声で驚かしました。</p><p>　娘とお供の者は、声も出ないほど吃驚しました。逆らえば何をされるかわからないと思って、言われた通りに大人しく来ていた着物を脱ぎ、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%B2%A1%E5%B8%83&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">財布</a>と一緒に松の木の下にそっと置きました。そしてお供の人は、「命だけはお助け下さいませ。せめてお嬢さんだけでも助けて下さりませ。」と、ヘタヘタと座り込み、震える声で、がさんまつに命乞いをしました。</p><p>　がさんまつは、「おまえ達の命なんぞとっても何の足しにもならぬわ。これだけ貰えればいいのよ。もう用は無いから、行ってもいいぞ。さっさと消えうせな！」と、奪った品を脇に抱え、大きな声で怒鳴りつけました。<br />　身ぐるみはがされた娘とお供の人は、真っ青な顔で打ち震えていましたが、気が変わって殺されないうちにと、お供が娘を抱え起こすとすぐに、途中何度も転びそうになりながらも、一目散に逃げていきました。</p><p>　それから、その娘とお供の人が、すぐに役人に訴えに行ったのか、それとも、どこかのうちへ飛び込み、助けを求めたのか、またそのまま、自分のうちまでやっとのことで逃げ帰って行ったのかどうかは知りません。逃げ足には自信がありましたから、手に負えない追っ手が来たら逃げるだけ。そんなことは、がさんまつにはどうでもよく、彼は、気を良くして、小屋の方へ帰っていきました。</p><p>　小屋に帰ると、がさんまつは、早速、脅し取って持ち帰ってきたものを、自慢げに妻に渡して、今回の追い剥ぎの一部始終を話しました。女房は、がさんまつの話も、うわの空で、奪ってきたものをあれやこれやと手にとってじっくりと品定めしていました。がさんまつの話が終わると、妻は、がさんまつに、こう言いました。</p><p>　「その娘っ子は、この着物から想像するに、さぞや相当大きなお店の娘じゃったろうな。」<br />　「そうや、いかにも大店の娘らしく服も立派じゃが、顔も言葉やしぐさも上品だったぞよ。」と答えると、妻は<br />　「ならば髪の毛の、綺麗じゃったろ。黒光りする立派な髪の毛をしていたのに違いなかろうに。どうだった？お前さん！」と聞いてきます。<br />　がさんまつは、「顔はまれにみる<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E7%BE%8E%E4%BA%BA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">美人</a>じゃったがなー、髪の毛はどうだったかな。うーーむ、そういわれてみると、そうだ、何ともいえぬ綺麗な黒髪をしていたような気がする。」と答えました。</p><p>　それを聞いた妻は、急に顔を真っ赤にして怒鳴り出しました。<br />　「何で、その娘っ子の髪の毛を切って持ってこなかったの。何で髪の毛を切らなかったのや。あーーおらの髪の毛にしたかったのに！」<br />　がさんまつは、その言葉を聞いて、「うちの女房は何と恐ろしいやっちゃ。何を考えておるんやろう。女の命ともいえる髪の毛を切ってこいとはなあー。何と恐ろしい、鬼のような女だわい。」と、つくづく愛想を尽かしました。妻とはそれを機にあっさりと別れることにしました。何も告げずに妻のもとを去りました。</p><p>　それからのがさんまつですが、今までの悪さを悔い改めようと仏門に入ったといいます。そして後々に立派なお坊さんになったと伝える話もあります。それらの話では、このお坊さんこそ、永光寺と総持寺の二寺の住持を兼ね、52ｋｍ離れた二寺を毎日通ったといわれる有名な峨山禅師と伝えるものが多いようです。（また峨山が二寺の間を往復するのに利用した道を峨山道と言われる）<br />　<br />　峨山は曹洞宗の方の記録では、16歳で比叡山に修行に出て、その後、瑩山禅師との問答で禅師に傾倒したとあります。よって、この話は、何の関係もない可能性が高いかと思います。　ただし、峨山は、当時の羽咋郡瓜生（現在の河北郡津幡町瓜生）出身と言われ、比叡山に登る16歳までのことや、比叡山を出た後、瑩山禅師と出会うまで不明な点だらけであり、二寺を毎日通ったという話からも修験者のような事をしていた時期もあるのではと想像され、その頃、もしかしたらこのような事をしていたこともあったのかもしれません。</p><p>　まー何しろ、がさんまつが毎日登っていたという謂れにより、この松が峨山松とよばれるようになりました。がさんまつは、実の名ではなく、松の大木に巣食った悪党のあだ名のようなものだったのでしょう。</p><p>　ところで、その後の「峨山松」ですが、今ではその松の木はありません。幕末の頃、子浦（しお）の専勝寺の再建の時、伐採されて、本堂の欄間に使用されていると言うことです。 </p><a name="more"></a>
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  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-14"> 
    <title>ミミズのたべもの</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-14</link>  
    <description>　（参考：『能登 鳥屋町の昔話伝説集』(鳥屋町(現・中能登町)・平成6年度刊行)　他 ） 　昔々、天竺(インド)でのお話。多くの人々を教え導いていたお釈迦様は、80歳というご高齢になってからも、まだお弟子(阿難)一人を連れて旅を続けていました。　ある日、旅の途中に食べたものがあたって下痢になってしまいました。おそらく今で言う食中毒でしょう。それで急速に衰弱し、死期をお悟りになりました。　お釈迦様も人の子、“できれば生まれ故郷で死にたい”と思い、最後の力を振り絞って故郷を目指し歩きました。しかし途中のクシナガラという地まで来て、もう無理とまたお悟りになりました。お釈迦様は、お弟子さんの手を借りて、２本の沙羅双樹の間に、北枕で右脇を下に向けて西に向かって臥されました。　その後、お弟子さんは、師匠の死が近いと感じ、近くの家に入って大きな声をあげて泣いていました。それを聞きつけ、お釈迦様が亡くなりそうだということで、お釈迦様の枕元に、沢山の者達が集まってきました。　かつての弟子達だけでなく、その高徳を慕う人々、また人間だけでなく、沢山の神々、さらには象、牛、鶏、虎、猿、兎、山羊、馬、鷺･･･など沢山の者らが周囲にやってきました。　お釈迦さまは、それらの者らに、最後の教えをあれこれと言い遺されました。　動物達には、何を食べていくべきかなどを言い渡しました。　その際、大きな動物達の陰にいてミミズが、“お釈迦様に助言を貰えず亡くなられては損してしまう”と思い、動物達の隙間を通って前に這い出し、大声で(といってもやっと人間の話声ほどの小さな声ですが)こう聞きました。　「お釈迦様、おら、これからは何を食べていけば良いかの」　その声を聞き、お釈迦様は、　「おおそうじゃった。お前がいたのう、忘れるところじゃった。大き目の食べ物は、ほぼ指示し尽したし、食べ残しや、こぼれ滓(かす)も小鳥達や虫たちに指示したし、残りは何があったかのう････」　お釈迦様は、この小さなミミズを憐れに思い、色々考えた末にこう言い渡しました。　「お前は、土についた養分を濾して食べられるようにしてやろう。それならば他の者らは手も出さぬし、食うに困ることもなかろう」　　しかしミミズはそれで満足せずさらにこう聞きました。　「お釈迦様、土も一通り食べつくしてしまったら、次に何を食べればいいかの」　お釈迦様はその貪欲さに驚き呆れてこう答えました。　｢もし土も食べつくした..</description>  
    <dc:subject>中能登の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-14T07:34:19+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>　（参考：『能登 鳥屋町の昔話伝説集』(鳥屋町(現・中能登町)・平成6年度刊行)　他 ） </p><img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/TohakuNehanzu.jpg" alt="七尾市出身の長谷川等伯が画いた涅槃図(羽咋市・妙成寺蔵)" width="200" height="280" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/TohakuNehanzu.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /> <p>　昔々、天竺(インド)でのお話。多くの人々を教え導いていたお釈迦様は、80歳というご高齢になってからも、まだお弟子(阿難)一人を連れて旅を続けていました。　ある日、旅の途中に食べたものがあたって下痢になってしまいました。おそらく今で言う食中毒でしょう。それで急速に衰弱し、死期をお悟りになりました。</p><p>　お釈迦様も人の子、“できれば生まれ故郷で死にたい”と思い、最後の力を振り絞って故郷を目指し歩きました。しかし途中のクシナガラという地まで来て、もう無理とまたお悟りになりました。お釈迦様は、お弟子さんの手を借りて、２本の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%B2%99%E7%BE%85%E5%8F%8C%E6%A8%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">沙羅双樹</a>の間に、北枕で右脇を下に向けて西に向かって臥されました。</p><p>　その後、お弟子さんは、師匠の死が近いと感じ、近くの家に入って大きな声をあげて泣いていました。それを聞きつけ、お釈迦様が亡くなりそうだということで、お釈迦様の枕元に、沢山の者達が集まってきました。</p><p>　かつての弟子達だけでなく、その高徳を慕う人々、また人間だけでなく、沢山の神々、さらには象、牛、鶏、虎、猿、兎、山羊、馬、鷺･･･など沢山の者らが周囲にやってきました。</p><p>　お釈迦さまは、それらの者らに、最後の教えをあれこれと言い遺されました。<br />　動物達には、何を食べていくべきかなどを言い渡しました。</p><p>　その際、大きな動物達の陰にいてミミズが、“お釈迦様に助言を貰えず亡くなられては損してしまう”と思い、動物達の隙間を通って前に這い出し、大声で(といってもやっと人間の話声ほどの小さな声ですが)こう聞きました。<br />　「お釈迦様、おら、これからは何を食べていけば良いかの」</p><p>　その声を聞き、お釈迦様は、<br />　「おおそうじゃった。お前がいたのう、忘れるところじゃった。大き目の食べ物は、ほぼ指示し尽したし、食べ残しや、こぼれ滓(かす)も小鳥達や虫たちに指示したし、残りは何があったかのう････」</p><p>　お釈迦様は、この小さなミミズを憐れに思い、色々考えた末にこう言い渡しました。<br />　「お前は、土についた養分を濾して食べられるようにしてやろう。それならば他の者らは手も出さぬし、食うに困ることもなかろう」<br />　<br />　しかしミミズはそれで満足せずさらにこう聞きました。<br />　「お釈迦様、土も一通り食べつくしてしまったら、次に何を食べればいいかの」</p><p>　お釈迦様はその貪欲さに驚き呆れてこう答えました。<br />　｢もし土も食べつくしたら、土から出てきて昼寝でもしていなさい｣と。</p><p>　ミミズは、お釈迦様が亡くなってから、その通りにしました。<br />　欲が深いので、じきに周囲の土を食べつくしました。その日は天気も良かったので、土の上に出て日向ぼっこをしながら昼寝をしていました。</p><p>　そうしたら<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E7%9A%AE%E8%86%9A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">皮膚</a>が薄い上に小さいので、日向ぼっこしているうちに、知らぬ間に干からびて、死んでしまったそうです。<br />　しばらくその地に留まってお釈迦様を弔(とむら)ってい高弟の阿難さんは、それを見て<br />　｢欲をするにも限(きり)がない。ミミズは、お釈迦様にダラ(<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%8C%97%E9%99%B8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">北陸</a>の方言でアホ、馬鹿などの意味)なことを聞いたものである。皆も、欲はほどほどにするようにな」と言い、その地を去ったそうな。　 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-13"> 
    <title>狢(ムジナ)和尚</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-13</link>  
    <description>(参考『能登総持寺物語』(佃和雄著・北國新聞社出版局)他) 　　門前町(平成18年2月1日輪島市と合併)広瀬に、(曹洞宗)総持寺の(※1)峨山禅師の高弟で五哲の人といわれた大徹が開いた覚皇院(かっこういん)というお寺があります。この覚皇院には、今から約四百年くらい前に、狢和尚の描いたと伝える達磨大師の絵が所蔵されています。　地元の言い伝えでは、この絵を描いた和尚というのは、もと狢であったが、覚皇院の住職になりたい一心に、本堂の床下に隠れて、住職の唱えるお経を一生懸命に覚える稽古をしました。　そしてお経を一通り覚えて、諳(そら)んじることが出来るようにまでなったある日、突然隙をみて住職に飛びかかり、殺してしまいました。狢はその後、住職に化けてとりすまし、それから何食わぬ顔で住職の役を勤めていました。　お寺の人たちも、信徒の方たちも、どうも様子が以前とは違い変だな、と思いつつも、どうしてもわかりませんでした。　そんなある日、檀家の法事に招待され、籠に乗って行く途中、鹿島郡金丸村のあたりで、犬に吠(ほ)えられて食いつかれ、とうとうその正体を現わしてしまったといいます。　最後に、達磨図についてだが、現住職の稲垣氏によると、これは狢和尚と呼ばれた住職が鏡を使って自分の顔を描いたもので、達磨の絵だということは聞いたことがないそうである。　※1：総持寺の峨山禅師については、能登では総持寺と永光寺の住持を兼任して毎日往復したという｢峨山道｣の話が有名だが、それについては、また別の機会に紹介したい。能登における曹洞宗との歴史的経緯を含めて｢峨山道｣説明した頁なら、私のHPの｢曹洞宗の広がりと螢山派の発展｣の頁があるので、興味のある方はそちらを参照して下さい。</description>  
    <dc:subject>奥能登･輪島(門前地区)の民話･伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-13T05:22:19+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>(参考『能登総持寺物語』(佃和雄著・北國新聞社<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%87%BA%E7%89%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">出版</a>局)他) <br />　　門前町(平成18年2月1日輪島市と合併)広瀬に、(曹洞宗)総持寺の(※1)峨山禅師の高弟で五哲の人といわれた大徹が開いた覚皇院(かっこういん)というお寺があります。この覚皇院には、今から約四百年くらい前に、狢和尚の描いたと伝える達磨大師の絵が所蔵されています。</p><p>　<img src="https://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5e4/noto-folktales/tanuki.gif" alt="" width="78" height="78" align="left" onclick="location.href = 'http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/tanuki.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" />地元の言い伝えでは、この絵を描いた和尚というのは、もと狢であったが、覚皇院の住職になりたい一心に、本堂の床下に隠れて、住職の唱えるお経を一生懸命に覚える稽古をしました。</p><p>　そしてお経を一通り覚えて、諳(そら)んじることが出来るようにまでなったある日、突然隙をみて住職に飛びかかり、殺してしまいました。狢はその後、住職に化けてとりすまし、それから何食わぬ顔で住職の役を勤めていました。<br />　お寺の人たちも、信徒の方たちも、どうも様子が以前とは違い変だな、と思いつつも、どうしてもわかりませんでした。</p><p>　そんなある日、檀家の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%B3%95%E4%BA%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">法事</a>に招待され、籠に乗って行く途中、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%B9%BF%E5%B3%B6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">鹿島</a>郡金丸村のあたりで、犬に吠(ほ)えられて食いつかれ、とうとうその正体を現わしてしまったといいます。</p><p>　最後に、達磨図についてだが、現住職の稲垣氏によると、これは狢和尚と呼ばれた住職が鏡を使って自分の顔を描いたもので、達磨の絵だということは聞いたことがないそうである。</p><p>　※1：総持寺の<strong>峨山禅師</strong>については、能登では総持寺と永光寺の住持を兼任して毎日往復したという<strong>｢峨山道｣</strong>の話が有名だが、それについては、また別の機会に紹介したい。能登における曹洞宗との歴史的経緯を含めて｢峨山道｣説明した頁なら、<a href="http://www.geocities.jp/une_genzaburo/SotoSectAndKeizanZen.htm" target="_blank">私のHPの｢曹洞宗の広がりと螢山派の発展｣</a>の頁があるので、興味のある方はそちらを参照して下さい。</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-11-1"> 
    <title>羽咋の名の由来</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-11-1</link>  
    <description>　羽咋は、口能登の中心の町です。JR羽咋駅で電車を降り、駅前から真っ直ぐ商店街に進むと、右側に羽咋神社が大きな前方後円墳の南側に鎮座しています。祭神は、石撞別命(いわつくわけのみこと）です。磐衝別命とも書きます。　羽咋の地名の由来については、｢第１１代垂仁天皇の頃、滝崎に悪鳥が棲み、領民を苦しめた。これを聞いた天皇は、皇子磐衝別命(いわつきわけのみこと)を派遣され、皇子は首尾よく悪鳥を射落した。この時、命の３犬が悪鳥の羽を食い破ったことから羽咋の地名が起こった｣とあります。　これは羽咋神社｢社記｣にもとづいてのいい伝えです。　一方｢羽咋郡誌｣には、｢往古、気多大社祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)が、悪者平定のために矢を積み置いていたところ、鼠(ねずみ)が矢の羽を食ったことから、羽咋の地名ができた｣旨の記述があります。能登一の宮である気多大社の祭神は大己貴命は大国主命のことです。気多大社の主要な祭礼である｢平国祭り(別名：おいで祭り)｣をはじめ、能登には今でもあちこちに大国主命の能登平定に纏わる伝説や祭りが数多くあります。　羽咋神社｢社記｣及び｢羽咋郡誌｣、そのどちらにも｢羽｣｢食い｣の言葉が出てきます。現在の羽咋の「咋」の字は、辞書でも容易に見当たらない字ですが、古事記にもすでに｢羽咋君｣が登場しています。その意味はやはり｢食う｣｢噛む｣となっています。　（参考）私のHPの｢羽咋の歴史と史跡｣の頁</description>  
    <dc:subject>口能登・羽咋の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-11T23:36:21+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>　羽咋は、口能登の中心の町です。JR羽咋駅で<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%9B%BB%E8%BB%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">電車</a>を降り、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%A7%85%E5%89%8D&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">駅前</a>から真っ直ぐ商店街に進むと、右側に羽咋神社が大きな前方後円墳の南側に鎮座しています。祭神は、石撞別命(いわつくわけのみこと）です。磐衝別命とも書きます。</p><p>　羽咋の地名の由来については、｢第１１代垂仁天皇の頃、滝崎に悪鳥が棲み、領民を苦しめた。これを聞いた天皇は、皇子磐衝別命(いわつきわけのみこと)を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E6%B4%BE%E9%81%A3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">派遣</a>され、皇子は首尾よく悪鳥を射落した。この時、命の３犬が悪鳥の羽を食い破ったことから羽咋の地名が起こった｣とあります。　これは羽咋神社｢社記｣にもとづいてのいい伝えです。</p><p>　一方｢羽咋郡誌｣には、｢往古、気多大社祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)が、悪者平定のために矢を積み置いていたところ、鼠(ねずみ)が矢の羽を食ったことから、羽咋の地名ができた｣旨の記述があります。能登一の宮である気多大社の祭神は大己貴命は大国主命のことです。気多大社の主要な祭礼である｢平国祭り(別名：おいで祭り)｣をはじめ、能登には今でもあちこちに大国主命の能登平定に纏わる伝説や祭りが数多くあります。</p><p>　羽咋神社｢社記｣及び｢羽咋郡誌｣、そのどちらにも｢羽｣｢食い｣の言葉が出てきます。現在の羽咋の「咋」の字は、辞書でも容易に見当たらない字ですが、古事記にもすでに｢羽咋君｣が登場しています。その意味はやはり｢食う｣｢噛む｣となっています。<br />　（参考）<strong><a href="http://www.geocities.jp/une_genzaburo/HakuiHistory.htm" target="_blank">私のHPの｢羽咋の歴史と史跡｣の頁</a></strong></p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-11"> 
    <title>狐に間違われた住持</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-11</link>  
    <description>　(出典：『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊）) 　(昭和3年から遡って)7,80年前の話である。　最勝講(さいすこ)(中能登町最勝講)の住持が夜遅く七尾からの帰り道、急に大便をもよおし、近くに適当な人家が無かったので、徳前河原(どすがはら)の竹叢(たけやぶで)に分け入り大便をしていた。　そこへ近くに住むある臆病な男が通りかかった。竹薮の暗がりの中で、用をたし終えて立ち上がった住職にビックリして、狐が自分を化かしに出たと思い込み、物狂いのように住持を引っ捕らえた。そして　｢おのれ狐め、オラを化かそうちゅうんかい｣と怒り、持っていた担い棒を振り上げ、叩こうとした。　住持は　｢わしは狐じゃない、最勝講の寺の住持じゃ｣と言い聞かせた。しかしその住持の言い訳を聞いた男は、それを聞いて　｢おのれ古狐め、なおもオラを化かそうとするのか｣とさらに怒りを大きくし、烈火のごとく住持に撃ってかかった。　困り果てた住持は、撃ち叩かれながらもこんな興奮した男に何を言い訳しても通じぬと悟り、一計を案じた。そして言葉静かにこう言った。　｢わしは、確かに汝の言うようにこの徳前川原に棲む古狐じゃ。今後は、心をいれかえ決して人を化かすような事はしませんから命だけは助けてください。助けてくれましたら、お礼にあなた様に福徳を与えます。｣　そして懐の中から七尾の町で子供のために買った土産を取り出して、　｢あなた様が、一文欲しいと思えば&amp;quot;一文&amp;quot;とうた唱(とな)えてから笛を吹きます。二文欲しいと思い&amp;quot;二文&amp;quot;と唱えて笛を吹きます。そうすると財宝は自分の思い通りに現れる｣と言いました。　そして実際に&amp;quot;一文&amp;quot;と唱え、笛でピーヒャララ、&amp;quot;二文&amp;quot;と唱えピイヒャララ、最後に&amp;quot;五文&amp;quot;と言ってさらにまたピイヒャララと鳴らし、その都度財布から文銭をコッソリと出し、闇でよく見えぬ堂に置いた。　どれどれと実際に銭があるのを確認し喜んだ若者は住持を許して開放した。　住持は、嘘がバレタラたらまた何をされるか分からないので、ここぞとばかり逃げ帰った。　昨夜の臆病者は、翌日になってから、妻子も退けて、独り座敷に籠った。そして&amp;quot;一文&amp;quot;と唱えピイヒャララ、&amp;quot;二文&amp;quot;と唱えピイヒャララと吹いてみた。しかし何時まで経っても、銭など全然現れ出る様子が無い。　｢さ..</description>  
    <dc:subject>中能登・中能登町の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-11T06:46:04+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>　(出典：『石川縣<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%B9%BF%E5%B3%B6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">鹿島</a>郡誌』(昭和3年発刊）) </p><p>　(昭和3年から遡って)7,80年前の話である。<br />　最勝講(さいすこ)(中能登町最勝講)の住持が夜遅く七尾からの帰り道、急に大便をもよおし、近くに適当な人家が無かったので、徳前河原(どすがはら)の竹叢(たけやぶで)に分け入り大便をしていた。</p><p>　そこへ近くに住むある臆病な男が通りかかった。竹薮の暗がりの中で、用をたし終えて立ち上がった住職にビックリして、狐が自分を化かしに出たと思い込み、物狂いのように住持を引っ捕らえた。そして<br />　｢おのれ狐め、オラを化かそうちゅうんかい｣と怒り、持っていた担い棒を振り上げ、叩こうとした。</p><p>　住持は<br />　｢わしは狐じゃない、最勝講の寺の住持じゃ｣と言い聞かせた。しかしその住持の言い訳を聞いた男は、それを聞いて<br />　｢おのれ古狐め、なおもオラを化かそうとするのか｣とさらに怒りを大きくし、烈火のごとく住持に撃ってかかった。</p><p>　困り果てた住持は、撃ち叩かれながらもこんな興奮した男に何を言い訳しても通じぬと悟り、一計を案じた。そして言葉静かにこう言った。</p><p>　｢わしは、確かに汝の言うようにこの徳前川原に棲む古狐じゃ。今後は、心をいれかえ決して人を化かすような事はしませんから命だけは助けてください。助けてくれましたら、お礼にあなた様に福徳を与えます。｣</p><p>　そして懐の中から七尾の町で<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%AD%90%E4%BE%9B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">子供</a>のために買った土産を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%8F%96%E3%82%8A%E5%87%BA%E3%81%97&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">取り出し</a>て、<br />　｢あなた様が、一文欲しいと思えば&quot;一文&quot;とうた唱(とな)えてから笛を吹きます。二文欲しいと思い&quot;二文&quot;と唱えて笛を吹きます。そうすると財宝は自分の思い通りに現れる｣と言いました。</p><p>　そして実際に&quot;一文&quot;と唱え、笛でピーヒャララ、&quot;二文&quot;と唱えピイヒャララ、最後に&quot;五文&quot;と言ってさらにまたピイヒャララと鳴らし、その都度<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E8%B2%A1%E5%B8%83&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">財布</a>から文銭をコッソリと出し、闇でよく見えぬ堂に置いた。</p><p>　どれどれと実際に銭があるのを確認し喜んだ若者は住持を許して開放した。<br />　住持は、嘘がバレタラたらまた何をされるか分からないので、ここぞとばかり逃げ帰った。</p><p>　昨夜の臆病者は、翌日になってから、妻子も退けて、独り座敷に籠った。そして&quot;一文&quot;と唱えピイヒャララ、&quot;二文&quot;と唱えピイヒャララと吹いてみた。しかし何時まで経っても、銭など全然現れ出る様子が無い。</p><p>　｢さては、またもや狐に化かされたかな？｣と疑ったりあれころ色々考えてみた。<br />　そしてやっと｢もしや、昨夜の狐と思った相手は本物の住持だったのかも｣と思い至り、恐る恐るその寺を訪ねてみた。</p><p>　住持は臆病者の問いに、じろっと視てから｢その通りでござる｣と答え、そして苦りきった顔で徐(おもむろ)に前夜の一部始終をその臆病者に語り聞かせた。</p><p>　男はまさに自分の思い誤りであったと気付き&quot;御坊に大変申し訳ない仕打ちをしてしまいました&quot;と恐縮しひたすら謝りながら、逃げるように立ち去ったという奇談が今に伝わっています。</p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-10"> 
    <title>中能登に伝わる石伝説をさらに５話</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-10</link>  
    <description>(出典：５話とも『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊)） ◎的場の石　 　（旧：鹿島町・現：中能登町）武部の田んぼの中に、的場という畠地があります。そこには奇怪な形をした石が多数点在していますが、それらの石にはさわると祟りがあると言って、採る者もいなかった。　江戸時代の天明のある年、肝煎の与次郎の倅の某が、庭を構え、的場より石を運んで庭石としたところ、その母が病に罹ってしまった。医療の手を尽くしたがその甲斐もなくあとは死を待つばかりの状態となってしまった。　そんなある日修験者が病人の容態を見、その後、屋敷を一廻りしてこう言った。「この病気は、他所からここに石を運んだ祟りである。その石を元の所へ返せば、病はなおるだろう」と。そこで早速、その庭石を元の場所に戻してみると、母の病はたちどころに癒えたとのでした。 ◎机島の硯石　　（中島町沖に浮かぶ）机島には、島の名の由来である机形の石と並んで、地上に二尺（約60ｃｍ）ほど露出した硯石があります。　中央に凹形のくぼみがあり水を湛(たた)え、盛夏旱天の天候の時でも、また霖雨（ながあめ）の天候の時でも、水の量にいささかの増減もないと言われています。俗に弘法大師の硯石と呼ばれたり、あるいは大伴家持卿の硯石とも呼ばれたりもします。　昔からの言い伝えで、この水を掻き立てるようなことがある時は、どんなに快晴の天気であっても、忽ち大時化（おおしけ）となって、船をこぎ戻すことができないほどになると言われています。　（昭和３年から数えて）数年前の事である。石工の幾人かがこの島に渡り、巨石奇岩を切り出していた。あとは最後の鑿（のみ）を、硯石に加えるだけとなったその前夜、空には一片の雲もなく風は凪の状態で鏡の様に静かな状態であったのに、夜半と思われる頃から、石工の寝ていた小屋が倒れそうになるほどにビリビリと揺れだした。　石工らはビックリしてガバッと跳ね起き、小屋の外へ逃れてみると海は依然として凪いだ状態で、月さえ煌々と照り輝く夜空なので、不思議に思い、再び小屋に入り枕に就けば、またもや物凄い音を立て揺れだすのであった。　その恐怖に彼らは、小屋で寝るのをやめ、松の木陰で戦（おのの）きながら一夜を明かしたのであるが、日が出るとついに、石工たちは、後始末もそこそこに急いで、この島から引き揚げてきたとのことである。 ◎八幡様　 　今（昭和3年）より800年前、（七尾市）石崎の漁師・孫次郎なるものが牡蠣浦に..</description>  
    <dc:subject>中能登の民話・伝説</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-10T05:40:28+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p>(出典：５話とも『石川縣<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E9%B9%BF%E5%B3%B6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">鹿島</a>郡誌』(昭和3年発刊)） </p><p><strong>◎的場の石</strong>　 <br />　（旧：鹿島町・現：中能登町）武部の田んぼの中に、的場という畠地があります。そこには奇怪な形をした石が多数点在していますが、それらの石にはさわると祟りがあると言って、採る者もいなかった。</p><p>　江戸時代の天明のある年、肝煎の与次郎の倅の某が、庭を構え、的場より石を運んで庭石としたところ、その母が病に罹ってしまった。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%8C%BB%E7%99%82&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">医療</a>の手を尽くしたがその甲斐もなくあとは死を待つばかりの状態となってしまった。</p><p>　そんなある日修験者が病人の容態を見、その後、屋敷を一廻りしてこう言った。「この<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E7%97%85%E6%B0%97&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">病気</a>は、他所からここに石を運んだ祟りである。その石を元の所へ返せば、病はなおるだろう」と。そこで早速、その庭石を元の場所に戻してみると、母の病はたちどころに癒えたとのでした。 </p><p><strong>◎机島の硯石</strong>　<br />　（中島町沖に浮かぶ）机島には、島の名の由来である机形の石と並んで、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E5%9C%B0%E4%B8%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地上</a>に二尺（約60ｃｍ）ほど露出した硯石があります。<br />　中央に凹形のくぼみがあり水を湛(たた)え、盛夏旱天の天候の時でも、また霖雨（ながあめ）の天候の時でも、水の量にいささかの増減もないと言われています。俗に弘法大師の硯石と呼ばれたり、あるいは大伴家持卿の硯石とも呼ばれたりもします。</p><p>　昔からの言い伝えで、この水を掻き立てるようなことがある時は、どんなに快晴の天気であっても、忽ち大時化（おおしけ）となって、船をこぎ戻すことができないほどになると言われています。</p><p>　（昭和３年から数えて）数年前の事である。石工の幾人かがこの島に渡り、巨石奇岩を切り出していた。あとは最後の鑿（のみ）を、硯石に加えるだけとなったその前夜、空には一片の雲もなく風は凪の状態で鏡の様に静かな状態であったのに、夜半と思われる頃から、石工の寝ていた小屋が倒れそうになるほどにビリビリと揺れだした。</p><p>　石工らはビックリしてガバッと跳ね起き、小屋の外へ逃れてみると海は依然として凪いだ状態で、月さえ煌々と照り輝く夜空なので、不思議に思い、再び小屋に入り枕に就けば、またもや物凄い音を立て揺れだすのであった。</p><p>　その恐怖に彼らは、小屋で寝るのをやめ、松の木陰で戦（おのの）きながら一夜を明かしたのであるが、日が出るとついに、石工たちは、後始末もそこそこに急いで、この島から引き揚げてきたとのことである。 </p><p><strong>◎八幡様</strong>　 <br />　今（昭和3年）より800年前、（七尾市）石崎の漁師・孫次郎なるものが牡蠣浦に出漁したところ、石塊が一つ網にかかった。<br />　その漁師は何気なくその石を取り除いて海の中に投げ捨てたが、その後も、海に網を入れると、その場所に下ろす時は、必ずその石が網にひっかかって、引き揚げると入っているのであった。</p><p>　孫次郎も、はて不思議な石だなー、と思っていた。ある夜、その石が夢に現れ「吾は神なり」と告げたので、孫次郎は驚いて牡蠣浦に赴き、網をおろしてその石を得て、それを我家に今度は我家に持ち帰って、祀った。そして後には、祠を建てて氏神としてこの石を祀った。今ある八幡社がすなわちその祠であります。</p><p>　このような訳で、人々は孫次郎の家を神様のお里と称して、神輿を出す時は、常に孫次郎の家の東から渡御するのを仕来りとした。その後、この地域の東西双方の勢力争いより、神輿を出す時は、交互に東西から渡御し始める事に変更した。しかし、東を後に、西を先にする時は、神輿が大磐石でもあるかのように重くて、とてもとても担いで動かすなどとはできるような状態ではなかった。この奇跡により、西方も遂に（我を通すのをやめ）折れて、元のように東から渡御し始めることになった。</p><p>　この御神体が、海からあがったと言われる牡蠣浦は、今では埋め立てられて浜岡新開となっているが、八幡平と称して榊を植えてその記念としています。 </p><p><strong>◎日の輪石</strong>　 <br />　（旧：鹿島町）水白(みじろ)の一本松地蔵のあたり、県道を横切る川に架けた大石を、日の輪石と言った。日の輪石は、日の出日の入り及び正午頃、空が晴れ渡る日、直径が一尺（約30ｃｍ）あまりの日輪のような影がこの石に映ることから名づけられたものである。昔、これを盗みとろうとした者がいたが、大雨が沛然として降り、遂にその目的を達成できなかったという。日の輪石を、橋として架けたのは、旧藩時代であるが、この地方の人々は勿論、武士でさえもこの石を踏むのを畏れたといいます。 </p><p><strong>◎雨乞石</strong>　 <br />　雨乞石は（七尾市）麻生と（七尾市）清水平の間にあり、昔、山婆が持ち帰った石と言われ、旱魃の際、雨乞を行えば必ず雨を降らせるといいます。 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-09"> 
    <title>田舎の黒烏</title>  
    <link>http://noto-folktales.blog.so-net.ne.jp/2009-04-09</link>  
    <description> (参考：『鳳至郡誌』） 　昔、鵜川(うかわ)(現鳳至郡能登町鵜川)の三田(さんでん)に四郎右衛門という者がおりました。　都へのぼって、某中将とか申す貴族の屋敷に仕えて、庭掃きの仕事をしていました。　四郎右衛門はまことに愉快な男で、また歌といったら、三度の飯より好きな男でしたから、暇さえあれば、箒を逆さに、大きな声で歌を歌いながら、踊っていました。　ある日、某中将の姫君がこれを聞きつけました。御簾(みす)をかかげてその様子を見ると、その男の格好といい、踊りといい、まるでキチガイ沙汰でしたから、つい罵(のの)しって揶揄(やゆ)しました。　「お前の声は、田舎の黒烏そっくりぞよ。早う、仕事でもおし。」すると四郎右衛門は、直ぐに歌で以って答えました。　「羽打ち揃えて立つときは、中将姫も下に見る。」　ところが悪いことに、二人の様子を、姫の母君が窺がっていました。そして母君が言いました。　「姫、そなたの仕草は、われら貴族にあるまじきこと。このままには置かされませぬ。ささ、今すぐにも、この屋敷を出てもらいましょう。」姫君は、しきりに許しを乞いますが、受け入れられません。それで、今となっては仕方なく、自分の屋敷を出ました。　けれども、どこへも行く宛が無いので、ただ泣きながら、門の外を彷徨(さまよ)うばかりでした。　四郎右衛門は、これを大層憐れに思って、　「もし良かったら、おらの里へ行きませんか。」と言いました。それではというわけで、姫君は四郎右衛門と連れ立って能登の諸橋(現鳳至郡穴水町諸橋)に着きました。　その時は、船路をとったので、はじめについた所を、今でも姫崎と呼んでいます。　二人は、そこから山田川を遡(さかのぼ)り、程よい場所に住居を構えました。二人は楽しく暮らしました。　ほどなく、息子が生まれましたが、村人はそれに因んで、ここを「産田(さんでん)」と言う様になりました。今の三田(さんでん)がそうです。</description>  
    <dc:subject>奥能登・能登町の民話</dc:subject>  
    <dc:creator>une_genzaburo</dc:creator>  
    <dc:date>2009-04-09T16:25:01+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<p> (参考：『鳳至郡誌』） </p><p>　昔、鵜川(うかわ)(現鳳至郡能登町鵜川)の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=noto-folktales:10000002174942&k=%E4%B8%89%E7%94%B0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">三田</a>(さんでん)に四郎右衛門という者がおりました。<br />　都へのぼって、某中将とか申す貴族の屋敷に仕えて、庭掃きの仕事をしていました。<br />　四郎右衛門はまことに愉快な男で、また歌といったら、三度の飯より好きな男でしたから、暇さえあれば、箒を逆さに、大きな声で歌を歌いながら、踊っていました。</p><p>　ある日、某中将の姫君がこれを聞きつけました。御簾(みす)をかかげてその様子を見ると、その男の格好といい、踊りといい、まるでキチガイ沙汰でしたから、つい罵(のの)しって揶揄(やゆ)しました。<br />　「お前の声は、田舎の黒烏そっくりぞよ。早う、仕事でもおし。」<br />すると四郎右衛門は、直ぐに歌で以って答えました。<br />　「羽打ち揃えて立つときは、中将姫も下に見る。」</p><p>　ところが悪いことに、二人の様子を、姫の母君が窺がっていました。そして母君が言いました。<br />　「姫、そなたの仕草は、われら貴族にあるまじきこと。このままには置かされませぬ。ささ、今すぐにも、この屋敷を出てもらいましょう。」<br />姫君は、しきりに許しを乞いますが、受け入れられません。それで、今となっては仕方なく、自分の屋敷を出ました。</p><p>　けれども、どこへも行く宛が無いので、ただ泣きながら、門の外を彷徨(さまよ)うばかりでした。<br />　四郎右衛門は、これを大層憐れに思って、<br />　「もし良かったら、おらの里へ行きませんか。」<br />と言いました。それではというわけで、姫君は四郎右衛門と連れ立って能登の諸橋(現鳳至郡穴水町諸橋)に着きました。</p><p>　その時は、船路をとったので、はじめについた所を、今でも姫崎と呼んでいます。<br />　二人は、そこから山田川を遡(さかのぼ)り、程よい場所に住居を構えました。二人は楽しく暮らしました。<br />　ほどなく、息子が生まれましたが、村人はそれに因んで、ここを「産田(さんでん)」と言う様になりました。今の三田(さんでん)がそうです。 </p><a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item> 
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