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    <title>広場で待っている間に</title>  
    <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/</link>  
    <language>ja</language>  
    <pubDate>Wed, 12 Oct 2011 09:02:46 +0900</pubDate>  
    <description><![CDATA[考えたことや思いついたこと、感化され、刺激を受けたことを、自由に書いています。]]></description>  
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      <title>’11．10.12．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書１０章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-12</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Wed, 12 Oct 2011 09:02:46 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[「わたしは彼らを贖い　口笛を吹いて集める。　彼らはかつてのように再び多くなる」（８）。「羊飼いがいないので苦しむ」（２）人々が再び集められ、「今ではないかつて」が預言されました。かつてのように再び多くなることを「希望」にするのでよいでしょうか。羊飼いのない人々はよく知っていたはずです。ただ多いだけではだめなのだと。痛感。かつてのようにではないことに希望をもつということはなんと難しいでしょうか。「資料もない」「経験もない」ようは「やったことのないこと」ほど恐ろしいものはありません。しかし、再び多くなることが前と同じならば、また同じように、捕えられ、囚われ、失うのではないでしょうか。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．10.11．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書9章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-11</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Tue, 11 Oct 2011 09:26:28 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者　高ぶることなく、ろばに乗ってくる　雌ろばの子であるろばに乗って」（９）。その・・・・・王が、新しい束縛ではないことを祈ってやまないです。次なる「支配」が前の支配と頭がすり替わっただけだったら、おんなじです。雌ろばの子であるろば、って、「まだ小さい子ろば」って解釈されて「だれものせたことのないろば」と読みかえられていますが、本当は「どのろばでもよい」という意味じゃあないかと。どのろばでもよいはずなのに～、またわたしたちは、「誰ならよいか」を話し合ってしまう。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．10.8．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書7章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-08</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Sat, 08 Oct 2011 09:31:54 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[「こうして七十年にもなるが　果たして、真にわたしのために断食してきたか。」（５）。9年前の今日、神戸は雨がふっていました。昼過ぎから帝王切開術。一人は仮死、もう一人はおなかの中を逃げ回るのを医師が捕まえました。最初に生まれた方が天良、逃げていた方は協佑。今朝は朝から自転車で教会のまわりを爆走中。生まれた時からいっつもくっつかされているので、カナウが悪いことをしたら、なぜかタカラが謝ります（逆パターンは稀）。そんなに誰かのために自分を責めることもないのにと逆に心配です。ことを早く解決したいらしいです。七十年の喪の期間を振り返り、また、「その悲しみ方は本当か」と聞かれるとは・・・・。厳しいものです。「互いにいたわり合い、憐み深くあり」（９）との言葉が胸に残ります。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．10.7．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書6章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-07</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Fri, 07 Oct 2011 08:50:40 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[<p>「見よ、これが『若枝』という名の人である。その足元から若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を立て直す」（１２）。『若枝』nzrはナザレとの関連でイエスをナザレのイエスと呼ぶことの意味が重ねられたものといろんなところで話をしたので、自分でもそうだ、そうだと思い込むふしあり。<br />
<br />
　子どものころから、道端に生えている雑草を引きちぎったり、木の若い芽（若枝）を手折りながら歩くのが何となく癖で（今でも曽根駅から教会までの坂沿いの雑草が餌食）、よく叱られました。しかし、容易に折れてしまう感覚というか、もしかしたら弱いものへの攻撃性なのかもしれません。神殿を立て直す勇壮な若枝という人物ではなく、獰猛な私のようなものの手にかかってすぐに手折られる若枝、という意味なのかと今朝思いました。<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>雇ってくれ！</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-06-1</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Thu, 06 Oct 2011 16:48:04 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[ぶどう園の労働者のたとえを生徒たちと読みました。生徒たちはセルフイメージを用いてねつ造する「履歴書」をしるし、私のような悪戯な主人によってやとわれようと競いました。なかなか上出来なねつ造ぶりのものもあり、皆で吹き出しながら、順番に人が選ばれ、本人たちにとっては何の意味もないと思われるような労働に、一人3つの飴ちゃんもらえるという約束でやとわれていきました。今年の労働は、折り紙をひたすらおり続けるでした（去年は、大豆を拾って瓶につめるだったからちょっとは創造的かも）。<br />
　こんな仕事でしかも３飴とわかっていても手をあげて「やとってくれ～」「わたしの履歴書みて」とせめぎ合いが始まります。「雇ってほしい人」と声をかけると立ち上がって何名かは「はいはい」とやる気を見せます。自己アピールもあり「折り紙歴15年です」とか（笑）。<br />
　最初に雇うのは、履歴書にびっしりと自己アピールした者・・・・しかし5人目は、意欲なく、履歴書にも名前と生年月日だけを書いているようないわゆる脱力系。5人目が仕事場に到着し、一折した時点で、「終了」と合図され、5人目から順番に3飴をもらって席へ戻ります。見ている生徒たちから「おまえ、ずるいぞ」そして一人目からは「え～？」<br />
　聖書の通り。しかしこの人々は話し合います。「いいです。かまいません。約束だったから、それに働けてうれしかった。選ばれてうれしかった」と。最後は、見ていた生徒から「なんであいつを雇って俺を雇ってくれなかったんだ」という意見が出るころには、残り時間あと5分。生の声が私の心にも響きます。なんで雇ってくれないんだ。先生がえこひいきしているからだ、と。<br />
　報酬の過多少の問題から、やとわれなかった人もいるのだ、というように聖書の世界が現実の問題に転換される瞬間です。たぶん私は生徒たちには、このワークショップの本当の意味までは十分に「まだ」説明できていないけれども、まずは私がその声を持って帰りました。聖書を読むために今年であった最高の子どもたちと思う瞬間です。<br />
　また来週ね。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．10.6．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書5章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-06</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Thu, 06 Oct 2011 16:09:16 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-06</guid>  
      <description><![CDATA[<p>「御使いがわたしに、『何を見ているのか』と尋ねたので、わたしは答えた。『巻物が飛んでいるのが見えます』」（２より）。え～～～～！なにこれ？しかも後半では、エファ升に女が入っているとあるのですが、エファ升って、23リットルぐらいだとありますから、どんな小さいところに押し込まれて・・・・といろいろ想像する余地ありです。この中からなにか良いことをお話しすることが期待されていますが、率直に。このやり取りを冷静に読むと、「何を見ているのか」に答えるとそのあと、ちゃんとその御使いが説明をします。だったらなんで聞くの？と思いました。何を見ているのか、本当は見えているものはすでに知られているのに、聞かれています。あなたは何を見ているのか？と。今日、聞かれましたか？「何をみているのか？」と。<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．10.5．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書4章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-05</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Wed, 05 Oct 2011 09:37:02 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-05</guid>  
      <description><![CDATA[「彼がわたしに、『これが何かわからないのか』と言ったので、わたしは『主よ、わかりません』とこたえると・・・」（１３）え？ここ？と思ってしまうような箇所を引用してしまいました。この章に二度出てくる「主よ、わかりません」。わからないのに、わかったふりするよりよほどいいかと直球を打ち返す、すがすがしさが満ちます。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．10.4.　聖書ダイアリー　ゼカリヤ書3章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-04</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Tue, 04 Oct 2011 09:02:00 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[<p>「御使いは自分に仕えている者たちに言った。『彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。』また、御使いはヨシュアに言った。『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着をきせてもらいなさい』」（４）　「あなたたちは互いに呼びかけて　ぶどうといちじくの木陰に招き合う」（１０）。とりあえずは、着替えよう。また汚れたといわれたら、先日買った洗濯機の中にいれてしまったらいいかと思っています。ぶどうといちじくの木陰です。聖書の中に脈打つ果樹園のイメージが心にひろがります。どうして手を伸ばし、取って、食べた人をけがれているというのでしょうか。果樹の木陰は、平安の象徴のはずなのに。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．10.1．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書1章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-01</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Sat, 01 Oct 2011 14:34:26 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[「・・・・・あなたの怒りは70年も続いています。わたしに語りかけた御使いに、主は優しい言葉、慰めの言葉をもってこたえられた」（１３－１４）。70年は、おそらく一人の人の人生よりも長い時間だったことでしょう。具体的には捕囚でしょうが、いろいろなことがらを想像して読んでいます。そんなに長い間続くと、「優しい言葉」も「慰めの言葉」も、なかなか信じがたいと思いませんか？よいことよりも悪いことのほうが記憶に鮮明であることが多いものですし。目先の利潤や即効性を目的にした、虚偽の慰めにはご用心。すぐに人を喜ばせることができていそうで、それはただ、頭から濃い色のペンキをひっくり返して塗り替えられただけにすぎません。本当の優しい、慰めの言葉などは、たぶん、淡い色のはずですから。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．9.30．聖書ダイアリー　ハガイ2章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-30</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Fri, 30 Sep 2011 08:45:21 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[<p>「『もし、死体に触れて汚れた人が、これらのものの何かに触れたとする。これらのものは汚れるだろうか』祭司たちは答えて、『汚れる』といった」（１３）。聖別された肉を入れた衣の裾がパンや煮物や葡萄酒に触れても、パンも煮物も、葡萄酒も聖別されなくて、「汚れ」は、「汚れる」んだと書かれてあります。そう？私は、髪の毛でイエスをぬぐった人を知っているんだけどなあ。後ろから衣にでも触れば、に至っては、遠まわしな積極さすら感じてしまいます。触られてしまったから十字架にかけられたんだ、お前のせいだって？もういい加減、大切なふれあいをこうやってけがれているとかいいあって、人をよけて暮らすのをやめようやい、って思います。ごみの日の朝に、息子がいまだに分別できずにぽいぽいおんなじところにごみを捨てているのに腹をたてながら、本当に問題なのは、「ぜ～んぶごみ」って考えてしまう単純さじゃあないかとすら思います。もっと繊細に一つ一つ考えろっていう言葉に聞こえます。<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．9.29．聖書ダイアリー　ハガイ1章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-29</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Thu, 29 Sep 2011 15:43:18 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[<p>「お前たちは多くの収穫を期待したが　それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るとき　わたしは、それを吹き飛ばした。　それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃虚のままであるのに　おまえたちが、それぞれ自分の家のために　走り回っているからだ」（９）。う～ん。ちょっと落ち込む。自分の子どもたちの誕生日の夜に会議の予定が放り込まれてしまい、数時間考えたあげくにやっぱり「ごめんなさい、その日は子どもの誕生日なので夕食作りたい」と欠席を申し出てしまった。自分の家のために走り回っているかもしれない。しばらく説教を聞く日曜日が続いたので、ちょっとでも心が養われると自分の子育てのことなどを考えてしまい「こうやって考えればよいのか」と、「家へ持ち帰る」ことばかり。神殿を建てるには程遠いわたしの生活。ハガイは、山に登って木を切り倒して神殿を建てよと語ったけれども、山の木立ちの間に隠れて、イエスがもだえながら祈っているような気もするのです。悩んだ末でも「いや～やっぱりうちの子が大事だし」といったり「自分の子育て」の枠にはまりこむ私の苦しみについても、どうもあの人が祈っているように思えて。ちょっといつもと違った聖書の読み方をしています。<br />
<br />
<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．9.28　聖書ダイアリー　ゼファニヤ書3章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-28</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Wed, 28 Sep 2011 08:49:11 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-28</guid>  
      <description><![CDATA[<p>「わたしはお前の中に　苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避けどころとする」（１２）。私の中にも、イスラエルの残りの者のごとくに神にしがみつき続ける部分が残されているでしょうか。その日を求める力がまだあるでしょうか。ゼファニヤは養われて憩う部分があるでしょうと、そこに光をあてました。だから私も今日一日のある場面ではわずかに残されたその部分に光を当てたいと思っています。<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．9.27．聖書ダイアリー　ゼファニヤ書2章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-27</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Tue, 27 Sep 2011 09:11:06 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[<p>「これが、かつてにぎやかであった都だろうか・・・・・ここの通りを過ぎるものは皆　驚きのあまり、口笛を吹き、手を横に振る」（１５）。かつての姿とは一変した町を語る預言者の言葉。喜んでいるのではありません。口笛は、ため息でもあり、言葉のない歌。手は否むしぐさと、別れをつげる態度でしょうか（ただし欧米では手は縦に振られますが）。惨状が広がります。荒れ野。手も足もでない・・・・。何もなくなったところに、恵みを期待できるのは誰でしょうか。それでもなお、あきらめないと口にするための勇気が今日、与えられますように。<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>'11.9.22.聖書ダイアリー　ハバクク書1章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-22</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Thu, 22 Sep 2011 09:50:37 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-22</guid>  
      <description><![CDATA[<p>「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら　捨てておかれることはない。　それなのになぜ、欺くものに目を留めながら　黙っておられるのですか　神に逆らう者が、自分より正しい者を　呑み込んでいるのに」（１３）<br />
<br />
　預言者ハバククが悲嘆を述べています。風のように襲い掛かるイスラエルへの暴虐のただなかで、「黙っていないでください」と嘆願しています。往生際のわるい人間の姿と笑う人もいるかもしれません。しかし、どんなに恐ろしいことを前にし、屈するようにと押し付けられても、「捨てておかれることはない」というところに立ち返りたいと思っています。今日から全国信徒会。被害の深刻さを思うと、どんな言葉がふさわしいのかわかりません。どうぞ、主は黙っておられませんように。<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>'11.9.20.聖書ダイアリー　ナホム書2章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-20</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Tue, 20 Sep 2011 08:26:41 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-20</guid>  
      <description><![CDATA[<p>「ニネベは建てられたときから水を集める池のようであった。しかし、水は流れだして『止まれ、止まれ』といっても誰も振りかえられない」（９）。紀元前612年のニネベ陥落直前に宮廷預言者であったナホムが勝利を告げる者として語ります。勝利を宣言する者が、山の上に立ち、約束は実現したと語ったというのがこの預言書のテーマです。預言者は、長いアッシリアの支配が終わることをもはや止めることができない水のようだと歌います。今、私は、「止まれ、止まれ」と祈っています。空に暗雲がたちこめ、近隣地の深い山の集落がダムの決壊におびえ、災害の予告を受けながらあえいでいます。止まらないでほしいのは、こんな絶体絶命の危機にもそれこそ雨のごとくにふりそそぐ神の救いです。どうか。<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>十五夜によせて</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-12</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Mon, 12 Sep 2011 22:41:21 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-12</guid>  
      <description><![CDATA[<p>9月12日が今年の十五夜、まだ残暑が厳しい日中とはうってかわって、夜になると、虫の羽音が涼しげです。澄み渡る空に満月が輝いています。夜、豊島公園を小学生になった次男とウォーキングに出かけて天を仰ぎます。「月は頑張っているねえ」と子どもがいうので、理由を聞くと、自分では光を放っていないのに、あんなに輝いているのはかなり「頑張っている」と。たしかに、自ら光を発しているかのごとくに照り輝く満月です。暗闇を照らし、歩く足元にうっすらと影ができるほど。わたしはずっと勘違いしていたと気付きました。母親が太陽のように、明るく、元気の源で、いつも栄養たっぷりの言葉や食事を用意することが大切だと思っていたのです。その太陽の光を反射して子どもたちが輝くのだと思っていました。ところが、人間はいつでも太陽のように文字通り「サンサン」と輝き続けることはとっても難しいものです。むしろ、すぐに怒るし、大きい声を出すし、いらいらするし、壊すし、光どころか暗闇に近いこともしばしば。だから、子どもがダメになるんじゃあないかと心配で、永遠の悪循環ループにはまってしまうことだってあります。本当は母親が太陽なのではなくて、子どもが太陽でした。子どもには、命がみなぎっています。汗をいっぱいかきながら、熱中してあそんだり、泣いたりするこどものエネルギーはまさに、底知れぬ太陽の力のようです。そんな子どもたちの光に照らされて私たちも光を放っている、そう考えると、怒ったり、いらだったりしても、きっとまた日が差して私たちの暗闇を追い払ってくれるでしょう。身長100センチにも満たない小さい太陽が、わたしたちを暗闇から連れ出してくれています。「頑張っている月」との次男の言葉に、「おかあさんも僕たちの光を受けて歩いてね」という優しい言葉を読み取ります。輝かしい子どもたちが、私たちを応援しています。ひかりは、私たちがどんなときにもそばで輝いてくれるでしょう。そのこどものひかりが心を温め、行いをあたためてくれるのです。時には子どもたちと夜空に輝く「がんばっている月」をごらんください。神様の平安が子どもたちと、子育てをするすべての人にありますように。<br />
（こひつじ通信74号より　曽根キリスト教会　牧師　渡邊さゆり）<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>'11.9.7.聖書ダイアリー　ヨナ書２章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-07</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Wed, 07 Sep 2011 09:59:55 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-07</guid>  
      <description><![CDATA[<p>「大水がわたしを襲ってのどに達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。わたしは山々の基まで、地の底まで沈み　地は私の上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ　あなたは命を　滅びの穴から引きあげてくださった」（６．７）。<br />
<br />
　神の命令に背いた報いを受けたのではありません。神の意に沿わないことがおこっている犠牲になったのでもありません。神の働きとは、閉ざされている扉を開け、滅びからひきあげることです。時にそうとは思えず、立ちすくみ、水が恐ろしく、虚無で、なすすべがないことが嫌で、自分には死ぬことすらできると考えるかもしれません。そう選ばざるを得ない人々もいることを知っています。しかし、わたしたちは、同じおもいになるような危機に立つときには、手も足もでない姿のまま引き上げられる可能性を記憶のなかから呼び戻しましょう。水にまかれても、それは滅びや敗北ではないことを信じます。神の働きとは、死ぬ人が生きることに及ぶのです。<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．9.3．聖書ダイアリー　アモス書9章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-03</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Sat, 03 Sep 2011 10:58:26 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[「その日には　わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し　その破れを修復し、廃虚を復興して　昔の日のように建て直す」（１１）。<br />
<br />
　はい、何回「復興」って言ったでしょうか？　一日テレビをつけていたら、何回「復興」ということばを聞くでしょうか。みなが望んでいることです。でも仮庵が戻るって本当はブドウの収穫をする人々がそこで寝泊まりしたりするってことです。破れが修復されるって、なおった皮袋に獲れたぶどう酒を入れて祝宴に運ぶってことです。廃虚が復興されるって、そこで人が住みまた笑ったり怒ったりするってことです。家族が大事ってテレビが一日に何度もいうようになった。なんか、よさげだけれど・・・・・。助けたり、助けられたりした人、無念に涙を流したり、わめいたりで、自分の家族というカテゴリーが外れてしまって、その時にでもあの人のため、この人のために手がのばされたり、涙が流されたりしたことはどうして言わないんだろう。自分の家だけ建てられないってわかったの、17年前。また小さな単位でひとくくりにする力が強い。どこへ向かっているのかな。本当の絆って、その単位壊れても結べるって話だったんじゃあなかったかな。まず自分、そのつぎうち、そして人。まっとうだけど、仮庵の季節には隣近所関係なく一緒に働くんだよ。昔の日のように建て直すのは、建物かもしれないけれど、人の「復興」は、きっと以前とちがう形になるはずでは？あれだけの痛みのあとで、前と一緒って、はずがない。もう一度、だけど、もう二度と、だから。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>’11．9.2．聖書ダイアリー　アモス書8章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-02</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Fri, 02 Sep 2011 09:46:56 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-02</guid>  
      <description><![CDATA[「見よ、一籠の夏の果物（カイツ）があった。主は言われた。『アモスよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『一籠の夏の果物です。』主はわたしに言われた。『わが民イスラエルに最後（ケーツ）』が来た。もはや、見過ごしにすることはできない」（１，２より）<br />
<br />
　アモスに及ぶ幻はヤハウエのゆるぎない決断です。アモスに、「最後が見えるだろう」と。これをただやみくもに恐ろしい言葉が降りかかっていると読むのでは聖書は脅威の書物です。ところが、アモスの目の前にはちゃんと神の意志が現れるものがおかれているという点を大切に読めば、そこに預言書が告げる福音があります。わたしたちの見ているものに、すでに神の決意が込められているということです。しかも、夏の果物という本当は潤沢さや豊富さを表すものが、「最後」を表すというようにわたしたちの基準ではない決意が。夏の果物の逆も信じましょう。たとえ私たちが今見ているものが、破れ、流され、押しつぶされた情景であったり、傷あとと、喪失と、落胆であっても、神は決意をもって、そこに「希望」を置かれていることもあるはずです。<br />
<br />
　一籠の夏の果物が、私がすきな無花果だったら・・・・・などと考えながら読みました。ひどい荒れ模様の空。お気をつけて。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>'11.9.1.聖書ダイアリー　アモス書7章</title>  
      <link>http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-01</link>  
      <category>日記</category>  
      <pubDate>Thu, 01 Sep 2011 15:16:46 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-09-01</guid>  
      <description><![CDATA[<p>「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた」（１４，１５）。<br />
<br />
　私が何者かについて。人々があれこれというようなものではないと述べられています。アモスは家畜を飼う者、栽培するもの、と述べました。ところが、そんな者が預言せよと「取られた」というところにこの言葉のユニークさがあります。預言者ではないが、預言せよと言われた、と。つまりは、私はかねてからそのように準備していたからこうなっているのではなくて、大きく予定変更してこうなっていることを引き受けているということです。自分が「～たいからやっている」ということを乗り越えることはたやすくはありません。しかし、取られ、言われることに向き合うことを信仰とよぶのではないでしょうか。受け入れがたく、引き受けられないようなことを、ほかのひとは「預言するな」と言って、その通り、自分でもそんなものではないとわかっているけれども、そうなっていることを御心と呼ぶのです。やみくもに、困難さを御心と呼ぶこととの違いを理解したいところです。<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>sayurin</author> 
    </item> 
  </channel> 
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