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    <title>病謀向物違（唐／猛郊）　　渡邊一夫『老耄回顧』より</title>  
    <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/</link>  
    <language>ja</language>  
    <pubDate>Sat, 12 Nov 2011 23:32:48 +0900</pubDate>  
    <description><![CDATA[　　　]]></description>  
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      <title>「高田馬場」の佐伯祐三</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2011-11-12</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Sat, 12 Nov 2011 23:32:48 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2011-11-12</guid>  
      <description><![CDATA[<p>別館GM作業室です。<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E6988EE6B2BBE69CAB.jpg" width="520" height="392" border="0" align="" alt="明治末.jpg" /><br />
<br />
本日は、佐伯祐三が谷中真島町（<a href="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2011-11-10" target="_blank">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2011-11-10</a>）の次に住んだところとして知られる、「高田馬場」の下宿について考察したいと思います。後に妻になる米子によると、それはこんな所でした。<br />
<br />
　　その後、高田馬場に部屋を見つけて移転しました。その頃の高田馬場は、今から思えば想像も<br />
　つかないほど閑静なところで、一里も続いているような雑木林が、ゆるやかな起伏のある丘とと<br />
　もにひろがり、春夏秋冬それぞれ林の眺望は変化に富んでいました。そうした美しい林の入り口<br />
　の家をたずねて集まったお友達は、江藤純平さん、山田新一さん、亡くなった佐々木慶太郎さん、<br />
　深沢省三さん、その他の方々でした。（「佐伯祐三のこと」1957）<br />
　　戸塚の一角、現在は白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたりは、その頃、戸<br />
　山ヶ原と言いました。ゆるやかな起伏ある勾配に、雑木林が限りなく続き、昔の物語が秘められ<br />
　ている静かな風情は、とても都内とは思われませんでした。この林のほとりの家の一室を借りて<br />
　勉強し、ここから美校に通っていた頃を知っております。（「佐伯祐三のこと」1963）<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/1921.jpg" width="528" height="284" border="0" align="" alt="1921.jpg" /><br />
<br />
米子の述べる高田馬場の家は、上の左の地図の下方の細長い水色の形の中にあったと考えられます。高田馬場の南方には、山手線の内側にも外側にも、ゆるやかな起伏の「戸山ヶ原」の林のほとりと呼べる場所がありましたが、「戸塚の一角」で、戦後「白いアパート群が重なりあって建ち並んでいるあたり」の人家で、風情が良さそうなところがというと、水色のあたりが該当するからです。<br />
<br />
「戸山ヶ原」の概念は、もとは、はるか東にあった尾張徳川家の戸山御屋敷（現・戸山１～３丁目）に由来する筈です。しかし戸山が陸軍用地となって後、陸軍の施設の拡大に追われて、明治期末頃には西大久保（現・大久保３丁目。旧・諏訪町の南）、更に大正期以降になると山手線を越えた大久保百人町（現・百人町３～４丁目。旧・戸塚町と大久保町）の雑木林の一帯をも指すように変遷しています。少し前のエリアを戸山ヶ原と認識しつづける人もあれば、米子のように、現・百人町4丁目を戸塚の戸山ヶ原と呼ぶ人もありで、現在は再び戸山の名前をつける範囲が戸山御屋敷に回帰しているだけに、昔の記述がどこを指しているかの判別が、ちょっとやっかいになっています。<br />
<br />
さて、佐伯と出会って直に恋に落ちたという米子は、谷中真島町の下宿も、戸山ヶ原の「四季」も知っていました。19世紀生まれで東京女学館卒の良家の子女系だからか、米子は恋愛時代のことを多くは語りませんが、つまり、おそらく佐伯は第２学年の頃（1919年夏から192０年の初夏頃。当時の美校は９月から新学年が始まる）に１年間ほど、戸山ヶ原のほとりに住んでいたということになりそうです。下限としては、1920年の夏休みの帰阪前に、既に、佐伯は本郷弥生町の大谷家に下宿先を移していることが山田新一の証言によって知られています。<br />
<br />
上にある地図の左のものは1921年測図の一万分一地形図です。右は1916年の測図のものです。この辺りの山手線の西側一帯で、1910年代後半になって急激に郊外住宅の開発が進んでいることが分かります。画家たちも、それと軌を一にして居住していく様子が伺えます。佐伯の美校の同級生としては1920年までに、二瓶等が下落合にアトリエを建てており、山田新一は地図を僅かに北に外れた池袋に暮し、深沢省三も1920年秋以降に目白と池袋の間位に越してきています。佐伯たちより4級上で1919年3月に卒業となる里見勝蔵らの学年の美校生も何人か、1910年代の後半に池袋に住むようになっています。山田の場合は、その里見に誘われ池袋に転居したのでした。<br />
<br />
佐伯が、なぜ高田馬場／戸山ヶ原に転居したのかについては、先の米子の文章がその事情を物語っています。谷中時代に佐伯と米子は、どちらも局留めにした手紙を交わしあう熱愛状態にあり、学校生活にも慣れ、ブームになりつつあったといえる郊外転居は、実はなにより雑木林を米子と二人で心おきなく散策するためでもあったと思われるのです。米子は、下宿を訪ねてきた級友たちのことも、よく知っているのでした。<br />
佐伯には戸山ヶ原の風景を描いたという作品もありますが、人物も静物も盛んに描いていたようです。日々キャンバスを抱えて外に飛び出す佐伯が誕生するには至っていない高田馬場時代でしたが、北へ北へと歩けば下落合に至る場所に暮した高田馬場時代なのでした。<br />
<br />
<br />
補：「戸塚の一角、現在は白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたり」考<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E688B8E5B1B1E4BD8FE5AE85.jpg" width="579" height="175" border="0" align="" alt="戸山住宅.jpg" /><br />
米子の「戸塚の一角、現在は白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたり」と述べた場所について、もう少し詳しく考えてみました。白いアパートが建った場所を1963年の空中写真であてはめてみると、上の図の様になります。山手線の東側のアパートは射撃場の中に建っており、諏訪通りを北に越えた辺りの家の事を、林のほとりと言えなくはないかもしれませんが、やや苦しい気がします。<br />
山手線の西については、米子さんは、「戸塚」について正しく表記していました。よく確認したら、現・ 百人町４丁目は、もともと大久保村ではなく戸塚村に属しています。現・4丁目は「百人町」とつくのに、もともとは大久保ではないのでした。ブルーのエリアは、1975年に現在の町名が施行される以前は、長く戸塚３丁目ないし戸塚４丁目であり、戸塚の戸山ヶ原という認識をもつ地域の人々がいて、当然の場所だったのです。大きな曲線状に整備された諏訪通りができ、林のほとりの家は消滅し、町名も大きな道路による分断に適応して変化したのでした。私としては、「戸塚の一角」が、ブルーのエリアのどこかであるとの心証が確実になってきました。また本文の表現の一部を、米子さんに謝しつつ訂正致しました。(2011.11.14)<br />
<br />
<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item>
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      <description><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/uy.J1VpWQamO/LFNJfr_rxA3Y?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/uy.J1VpWQamO/LFNJfr_rxA3Y?type=3&ent=f933af44782f0b2cd454744267cf3d2c"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > Ｇａｂａマンツーマン英会話なら、レベルや目的に合わせてカスタマイズが 可能です。 </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></description>
      <pubDate>Sat, 12 Nov 2011 23:32:48 +0900</pubDate>
    </item>
    <item> 
      <title>短報：佐伯祐三／佐々木慶太郎／大久保作次郎</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2011-11-10</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Thu, 10 Nov 2011 10:56:50 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2011-11-10</guid>  
      <description><![CDATA[<p>別館GM作業室です。<br />
 佐伯祐三の描いた下落合の風景の中でも、最後の作品と比定しうる「八島さん」シリーズの再発見には（<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-11-06" target="_blank">http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-11-06</a>）、実見しなければ解らない絵画というものを、思い知らされます。家々や草叢、樹、道、電柱など、手早く的確なタッチを重ね厚塗りの混ざる、お馴染みの佐伯の表現の中で、一際目を惹くのは画面の半分以上を占める空の表現です。凛とした、天頂ほど昏さを含む藍色の空は、筆致を残さない薄塗りで、早朝の澄んだ大気をまざまざと感じさせます。画像等では、南の方からの光が当たっているように漠然と思い込みがちでしたが、佐伯には、いわゆる昼間ではない時間に描いた作例も幾つもあります。そしてC.P.さま特定の描画ポイントに北寄りから朝日が射すのはというと夏至にかなり近い頃となり、描画時期を1926年に想定する事は難しく、1927年6月の初頭までの第２次渡仏直前の作という事になる、と私も思います。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E685B6E5A4AAE9838E1930.jpg" width="279" height="279" border="0" align="" alt="慶太郎1930.jpg" /><br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　佐々木慶太郎<br />
さて、いきなり話がズレてしまいましたが、本日は『短報：佐伯祐三／佐々木慶太郎／大久保作次郎』ということで、佐伯と大久保を繋ぐ細い糸をレポートをしたいと思います。<br />
佐々木慶太郎という名は、佐伯のファンには聞き覚えがあると思います。共に大阪出身。東京美術学校に入るまえの川端画学校時代（1917年秋）からの友人で、美校の１年生の時（1918年秋）には上総の御宿に仲間と4人で、風景画を描きに旅行しています（山田新一による）。そして谷中真島町の下宿に二人で、おそらく１年程一緒に暮らしています。美校を卒業した時には、7人の同級生と共に作った同人会「薔薇門社」の仲間でもあり、とても親しい友達だったと思われます。それなのに、佐々木慶太郎による佐伯の思い出話などが残っていないのは、彼が佐伯に遅れること2年で、早世してしまったからでしょう。<br />
その事情を教えてくれたのは、大久保作次郎でした。近頃、本館ですっかりお馴染みの、『早春（目白駅）』（<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-10-10" target="_blank">http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-10-10</a>）を描いた大久保作次郎（1890-1973）が、1930年第４号の『美術新論』に「佐々木慶太郎君の死を悼む」という一文を寄せています。大久保、佐々木、佐伯は、共に大阪出身ですが、なかでも大久保と佐々木は、三四丁しか家が離れていなかったのでした。中学を卒業後、美校受験を志した佐々木は大久保を訪ね、交際が始まっています。大久保は、病を得ての33歳の死を、真率に哀惜する文章を書いています。雑誌に追悼の辞を書くという事は、同郷の先輩として庇護者的な立場に立っていたのでしょう。<br />
同誌には林崎祝も「佐々木の慶チャンが死んだ」という文章を書いています。それによると、佐々木は稚気満々の世話好き、竹を割ったような真正直で明るい努力家にして、「人並はずれた變り者」「奔放飄逸の性行」「數々の奇想奇行の足跡」のある人。当時、絵描きは奇人をもってよしとする気風があるとはいえ、佐伯と佐々木の共同生活って一体 …、と思わず引きますね。佐々木の画壇へのデビューは佐伯よりも早く、美校在学中に帝展、平和博に入選し、卒業後は帝展の他、中央美術、槐樹社の展覧会にも出品。しかし、美校卒業と同時に就職をする必要があり、やがて家族に見守られて亡くなっています。<br />
佐々木と佐伯の共同生活の頃（1918秋-1919 夏? )に戻ると、二人の谷中真島町での暮しは、なにかとエピソードの多いものだったようです。自炊した食器を洗わないばかりでなく茶碗など十以上買ってきて片っ端から汚していた、などというのは単なる無精者のハナシだと思いますが、佐々木は佐伯をモデルにしたスケッチを沢山描き、「その表情、姿態たるや、思ひ切り奇抜で一つとして並の形はなかつたやうである」というものもあり（江藤純平・田代謙助「學校時代の佐伯君」1929）、これになると見たことがないのが残念でなりません。<br />
ところで大久保作次郎は、その頃、二人の暮す真島町のすぐ近所の谷中初音町に住んでいました。でも大久保は、1919年に下落合にアトリエを建てて引っ越してしまうわけです。この引っ越しの際には、佐々木は手伝いをして然るべき間柄であったでしょう。佐伯も、三四郎が広田先生の引っ越しの手伝いをする以上に手伝ってもいいくらいではないか、となると勝手な想像ですが、ただ、その2年後に下落合にアトリエを建てることになった佐伯にとっても、大久保作次郎は、佐々木慶太郎を通じて、なんらかの繋がりはある人だったと考えられそうです。<br />
<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>新橋のガードを描く佐伯祐三。</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2010-05-01</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Sat, 01 May 2010 13:53:27 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2010-05-01</guid>  
      <description><![CDATA[<p>別館GM作業室です。<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E4BD90E4BCAFEFBC8FE98A80E5BAA7E9A2A8E699AFEFBC8F255*160.jpg" width="255" height="160" border="0" align="" alt="佐伯／銀座風景／255*160.jpg" /><br />
「銀座風景」<br />
<br />
現在（2010年3月27日から5月9日まで）、新宿歴史博物館の『佐伯祐三展　―下落合の風景―』に展示されている佐伯祐三の「銀座風景」の描画ポイントが、本館の『池田象牙店から銀座8丁目を眺める。』（<a href="http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2010-04-25" target="_blank">http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2010-04-25</a>）によって検討されました。俯瞰の構図のスケッチは、なんらかの高所から描いたものであり、当時、佐伯祐三の妻・米子の実家、池田象牙店のあった芝区二葉町4番地の階上から土橋方面を望むと、まさに、このような光景が広がっていたことでしょう。この展覧会には、また佐伯が1927年に、ここに住む池田家の親族に出した手紙も展示されており、細やかな心遣いのある交流があったことを示しています。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E4BD90E4BCAFEFBC8FE696B0E6A98BE9A2A8E699AFEFBC8F255*209.jpg" width="255" height="209" border="0" align="" alt="佐伯／新橋風景／255*209.jpg" />　<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E4BD90E4BCAFEFBC8FE696B0E6A98BE382ACE383BCE38389EFBC8F246*209.jpg" width="246" height="209" border="0" align="" alt="佐伯／新橋ガード／246*209.jpg" /><br />
「新橋風景」　　　　　　　　　　　　　　　「新橋ガード」<br />
<br />
さて、佐伯には更に2点、新橋、つまり池田象牙店の近所で描かれたとされる作品が、現存しています。その作品には鉄道のガードが描かれていますが、今から100年程前に、当時の山手線と東海道線のための高架鉄道が、浜松町／東京駅間に造られていたのでした。特徴的な赤煉瓦のアーチと石組みのコーナーの意匠を持つ高架橋は、なにかに覆われていない箇所で、私たちも普段目にしています。そして高架橋には、ガードが幾つも幾つもあります。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E696B0E6A98BE382ACE383BCE38389.jpg" width="208" height="602" border="0" align="right" alt="新橋ガード.jpg" />新橋を描いた佐伯の作品は、「新橋風景」「新橋ガード」等と呼ばれています。新橋周辺のガードといえば、池田象牙店の西北西直ぐの場所に「幸橋ガード（架道橋）」があります。巾が20m以上ある広いガードです。池田象牙店の南南西には、「二葉橋ガード」がありますが、これは更に広く30m近い巾のあるガードです。新橋駅の南には、もう一つ30m近い巾のある「源助橋ガード」があります。<br />
<br />
「新橋風景」に描かれているのは、広いガードの一部　ですが、遠方にガードをくぐる向きの路面電車が走り、且つ、道と線路が大体直角に交叉しているようであるため、これは「二葉橋ガード」だと思われます。池田象牙店から徒歩1分未満の「二葉橋ガード」の入り口附近、描いたのが朝であれば東側、午後であれば西側に佐伯はイーゼルを据えていることになりそうです。<br />
<br />
一方、「新橋ガード」と呼ばれている作品に描かれたガードは、狭いものです。新橋駅の南側に並ぶ「烏森橋ガード」「日陰橋ガード」「芝口橋ガード」は、いずれも狭めですが、佐伯の描くガードの道と線路の交叉角度は、左が鋭角で、右が鈍角になっており、これに該当するのは「日陰橋ガード」となります。その上、このガードは西側では「芝口橋ガード」と交叉するため左側の鋭角の角が無く、佐伯は明らかに「日陰橋ガード」を東側から描いていると思われます。<br />
<br />
しかし現場を見ると、なんと、それが判りにくくなっていることでしょう。佐伯が立った時、高架線は写真で緑にした線路が4本の煉瓦造りのものだけでしたが、<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E697A5E999B0E6A98BEFBC8FE69DB1E3818BE38289.JPG" width="320" height="240" border="0" align="" alt="日陰橋／東から.JPG" /><br />
東側から見た「日陰橋ガード」<br />
<br />
その後、現・東海道線と新幹線用の計4本の高架鉄道が東側に増設され、それが、このガードの位置ではピッタリくっついて空を覆っています。線路を支える鉄骨にも覆いがなされ、煉瓦は白くペイントされています。東側に増設された高架線の下は、後から設置された構造物で埋まり、元の煉瓦の壁が見通せません。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E697A5E999B0E6A98BE382ACE383BCE38389EFBC8FE3839AE382A4E383B3E38388E4B8AD.jpg" width="550" height="276" border="0" align="" alt="日陰橋ガード／ペイント中.jpg" /><br />
Googleのストリートビューが捉えていたペイント中の日陰橋ガード<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E697A5E999B0E6A98BE382ACE383BCE38389EFBC8FE3839AE382A4E383B3E38388E4B8ADEFBC8FE58886E69E90.jpg" width="550" height="276" border="0" align="" alt="日陰橋ガード／ペイント中／分析.jpg" /><br />
佐伯の「新橋ガード」と対照して考えてみる<br />
<br />
とはいえ注意してみると、作品にあるガードの特徴的な要素が、確実に存在しています。また、作品の雰囲気自体は、現在ですと、このガードを西側から見つつ、左の角が欠けている点を補って想像すると、掴みやすいかもしれません。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E697A5E999B0E6A98BEFBC8FE8A5BFE3818BE38289E38080.jpg" width="255" height="191" border="0" align="" alt="日陰橋／西から　.jpg" />　<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E697A5E999B0E6A98BEFBC8FE8A5BFE3818BE38289EFBC8FE8A39CE58AA9E7B79A.jpg" width="255" height="191" border="0" align="" alt="日陰橋／西から／補助線.jpg" /><br />
西側から見た「日陰橋ガード」　　　　　　  「新橋ガード」を想像してみる<br />
<br />
佐伯が、これらの新橋のガードを描いていた時、すぐ脇にあったのが新橋駅です。1909年に開業した煉瓦の朱色も鮮やかな駅舎。関東大震災の時の炎に巻かれ、屋根は落ちたけれど復興されています。佐伯は、真新しい頃の駅舎も知っていたし、震災直後に米子の実家に向かい焼跡に建つ姿も目撃した上で、1926年の帰国時に新橋で作品を描いたのです。<br />
しかし、2枚の現存作品からでは心もとない想像ながら、新橋のガードを描く佐伯は、量感のあるピトレスクとも言えそうな駅舎は相手にせず、ガードが構築する闇と光に惹かれているように感じられます。「銀座風景」にしても、画角を少し左に振れば、高架鉄道の煉瓦のアーチの連なりやライトの設計した帝国ホテルが見えた筈でした。<br />
佐伯は、それらも描いたのに作品が伝存していないのか、それとも、そういったモチーフは選ばなかったのか。私の心証としては、日本でも、都心部に殊にいくらでもあった煉瓦造りやコンクリートで出来た巨大な建造物について、佐伯はテーマとして深める意志を持たなかったように思えます。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E7838FE6A3AEE9A785E382ABE383A9E383BCEFBC8F255*156.jpg" width="255" height="156" border="0" align="" alt="烏森駅カラー／255*156.jpg" />　<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E99C87E781BDE696B0E6A98BE9A785247*156.jpg" width="247" height="156" border="0" align="" alt="震災新橋駅247*156.jpg" /><br />
開業当初の烏森駅だった頃の新橋駅　　　　　関東大震災直後の新橋駅<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>諏訪谷1925／曾宮一念「冬日」「荒園」に見る諏訪谷</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2009-10-27</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Tue, 27 Oct 2009 12:01:37 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2009-10-27</guid>  
      <description><![CDATA[<p>別館GM作業室です。今回は、佐伯の1926年の諏訪谷（<a href="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2009-10-23" target="_blank">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2009-10-23</a>）の1年前にあたる、曾宮一念の1925年の諏訪谷を見ていきたいと思います。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E586ACE697A5h250.jpg" width="248" height="250" border="0" align="" alt="冬日h250.jpg" /><br />
<br />
この作品「冬日」について、曾宮は「大正十四年一月、下落合の庭で大根洗場を見下したもの、まだ武蔵野の面影があった」（『曽宮一念作品集』1966）と述べています。曾宮の1920年代の半ばは、造形的なデフォルメのある画風への転換期にあたるとはいえ、「冬日」には、当時の諏訪谷が結構ありのままに、描かれているようです。まず、谷の東西の尾根筋の高度の違いがあり、西の方の丘（画面の右側、1930年代に入って聖母坂が拓かれる丘）が低くなっていますます。それは、一万分の一地形図（1909年）を重ねてみると等高線一つ、2.5m前後の違いにあたる高度差でしょう。丘の一部に森が残っており、その手前に見えるのは、古くからの諏訪谷の斜面と思われます。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E8AB8FE8A8AAE8B0B71925EFBC8FE58886E69E90-74f73.jpg" width="500" height="335" border="0" align="" alt="諏訪谷1925／分析.jpg" /><br />
<br />
大根洗場の先の谷の曲がる所は、「冬日」では洗場上辺とフラットになっているように見えます。しかし、昔の地形図では洗場より低くなっています。これは、既に谷の埋立てが始まっていた事を示しているのかもしれません。洗場の向うの東の丘の裾の（画面の左側）土が剥き出しになっているのも、埋立てと関連している可能性がありそうです。<br />
上の分析図で、赤い線で示したあたりを、「冬日」の画角と考えます。画面右下の家を、赤い四角の場所と想定しました。曾宮の庭より、3m近く低いGLにあたるでしょうか。この敷地を造るためには、斜面を削る事と盛り土をする事、両方が必要だったのではと思います。<br />
先の「セメントの坪があったころ」の考察の中では、事情明細図と対応させた土手を漠然と想定しましたが、上の分析図では、1925年の時点での新しい造成によるであろう斜面をイエローオーカーで、昔からの斜面と思われるところをグリーンで描いてみました。<br />
<br />
曾宮の「荒園」は、1925年の作といっても、桐の花が咲いているので、「冬日」より4ヶ月位後の制作になると思われます。その「荒園」の、Chinchiko Papa様に御教示いただいた「絶壁状の雍壁が存在しない地面がむき出しの斜面」（下の右の図に表示）を、分析図で考えると、まさに独特なカーブをもつ斜面が見出されました（グリーンの三角のところ）。このイエローオーカーの斜面では、等高線に直角な大きな切拓きが行われたと思われます。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E88D92E59C92h250.jpg" width="248" height="250" border="0" align="" alt="荒園h250.jpg" /><img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E88D92E59C92h250EFBC8FE59C9FE6898B.jpg" width="248" height="250" border="0" align="" alt="荒園h250／土手.jpg" /><br />
<br />
「荒園」の画角は、緑の線のあたりに想定しました。曾宮の庭の中程にある桐の樹が手前に掛かり、佐伯の「セメントの坪」にある特徴的な家々（淡いマゼンダの中の家々）は見えず、画面右手の家の方が左の家より高いGLにある等の特徴を考慮してあります。<br />
「冬日」と「荒園」に見える、諏訪谷の南東側の北向き斜面には、整合性がないようです。「冬日」の画面左の自然な斜面を延長しても、「荒園」で切拓かれている土手は想定しにくいのです（イエローオーカーのラインの断絶を参照）。おそらく、「冬日」と「荒園」の間にある1925年の春先に、ここにかなり切り立った土手が形成され、諏訪谷の中の宅地が造られたと思われます。谷の中の低かった場所には盛り土がなされ、東から西へ緩やかに下るひな壇状の整地も順次進んだことでしょう。曾宮一念の、この1925年の2作品は、諏訪谷の開発を巡るそのような証言にもなっていると考えられます。<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>セメントの坪があった頃</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2009-10-23</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Fri, 23 Oct 2009 22:38:38 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2009-10-23</guid>  
      <description><![CDATA[<p>別館GM作業室です。本館の最近の曾宮一念の作品や写真のご紹介によって、諏訪谷の姿や変化について、考察が深められるようになってきました。そこで、制作83年目の佐伯祐三の「セメントの坪」（1926年10月23日制作）と当時の諏訪谷について、別館でも改めて見直してみようと思います。まず、現在知られている資料の幾つかを時系列順に見ていくと、次のようになります。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E4B880E4B887E58886E381AEE4B8801923002.jpg" width="88" height="88" border="0" align="" alt="一万分の一1923002.jpg" />1921年？　僅かしか諏訪谷には家が無い。622番地の曾宮アトリエ南の道の道筋は現在と異なり、西へ向かって登り、731番地のお宅の北に滑らかに抜けている。<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E5A495E697A5E381AEE8B7AF1923.jpg" width="88" height="88" border="0" align="" alt="E5A495E697A5E381AEE8B7AF1923.jpg" />1923年　曾宮一念「夕日の路」　浅川塀を正面に見る曾宮アトリエ南の折れ曲がる道は、荒々しいものの 現在とほぼ同じ道筋になったと思われる。道の右手の諏訪谷は急に落ち込んではいないらしい。<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E586ACE697A51925-da3ca.jpg" width="88" height="90" border="0" align="" alt="E586ACE697A51925-da3ca.jpg" />1925年1月　曾宮一念「冬日」　諏訪谷の中の洗い場は、まだ埋立てられていない。しかし、庭から見下ろして描いたという曾宮の視線より低い位置に（右手前）、既に家があることが注目される。<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/GoogleE8AB8FE8A8AAE8B0B7EFBC8FupE794A8.jpg" width="250" height="224" border="0" align="" alt="Google諏訪谷／up用.jpg" />現在の諏訪谷　道筋は1938年の火保図・1947年の空中写真とほとんど変わらない。<br />
<br />
<br />
さて、初めに諏訪谷近辺にある問題として、先日の『諏訪谷に面した曾宮一念邸を拝見。』『佐伯祐三の「浅川ヘイ」を考える。（<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-10-08" target="_blank">http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-10-08</a>）　』で触れられた、1926年には第六天の東側の道筋が、現在とは異なり少し東に寄っていた、という御指摘に賛同したいと思います。一万分の一も、それを示唆するようですが、1947年の空中写真でも確認出来る、高嶺邸と内藤邸に挟まれた家（仮にM邸とする）の向きが、1947年の道に沿っていない事も、その証左になるように感じます。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/1947E8AB8FE8A8AAE8B0B7EFBC8FME982B8.jpg" width="500" height="402" border="0" align="" alt="1947諏訪谷／M邸.jpg" /><br />
<br />
この今とほぼ変わらない、第六天の境内（緑色の部分）のどこに鳥居を立てても、「セメントの坪」にあるように、曾宮邸敷地にある電柱の左手に鳥居が来る描画ポイントはなく、といって現存高嶺邸をはじめとする多角的な状況証拠が重なる、この絵の光景がこの場所以外であることは、ありえないでしょう。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E382BBE383A1E383B3E38388E381AEE59DAAEFBC8FRE982B8.jpg" width="500" height="408" border="0" align="" alt="セメントの坪／R邸.jpg" /><br />
<br />
現在、諏訪谷の周囲は、ほぼ切り立った擁壁で囲まれ、曾宮邸南の道に面して入り口を持つ家々も、谷の下から建ち上がる構造になっています。しかし、「セメントの坪」の右端に覗く家（仮にR邸とする）は、違っています。緩斜面上であるとしても、道とフラットな地面の上にあると思われます。ここは、曾宮一念の「夕日の路」の右手の叢と繋がってくる場所でもあります。<br />
先程の1947年の空中写真や聖母病院も写るスナップ写真（<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-09-03" target="_blank">http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-09-03</a>）を見ると、戦後すぐの諏訪谷の周囲は殆どが急な土手であり（上の空中写真のオリーブ色の部分）、第六天の西側だけが大谷石かコンクリの絶壁であったようです。しかし、1926年の時点では、どうだったのか、R邸の事を考えると違ったのではないか、というのが次の問題です。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/E4BA8BE68385E6988EE7B4B0E59BB3EFBC8FE59C9FE6898B.jpg" width="500" height="462" border="0" align="" alt="事情明細図／土手.jpg" /><br />
<br />
事情明細図は、1926年半ばの現状かと考えられるのに、佐伯の絵にある、家々が密集した雰囲気とは、随分異なります。しかし、事情明細図は、そこに誰かが暮らしている事が判明している所でも空欄にしている場合があり、書き込みが無い事が空地である事を意味する訳ではありません。しっかり表札が出ている家は採取してある、という事なのでしょうか。そう考えて諏訪谷の様子を見ると、洗い場は既に移動され、第六天脇から谷に下りクランクする道等も出来、宅地化の基本整備は済んでおり、既に建った家と共に、まさに建設中の家々があった、という状態であったと考える事が可能です。そして、そのような事情明細図の「諏訪谷の中」に土手と土地の段差を示すらしい表現がある事（草色の部分）が、注目されます。この土手や段差を空中写真に移すと、どうなるか思案してみました。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/1926E8AB8FE8A8AAE8B0B7EFBC8FE59C9FE6898B.jpg" width="500" height="402" border="0" align="" alt="1926諏訪谷／土手.jpg" /><br />
<br />
事情明細図でアールのある土手として描かれ、曾宮アトリエ南の道が大きく曲がる所、R邸のあたりでは、土手が「曾宮邸南の道沿い」ではなく「R邸の南」にあったと考える事が，可能ではないかと思われるのです（緑の部分）。谷の中での小さな段差については、現在もそうであるように、実際にはもっとあったものが、事情明細図では省略されていると思われます。<br />
また、諏訪谷の開発地の周囲は当初みな土手、即ち、大六天の西と谷底の造成地の間も土手であったのではないかと、私は考えています。これも事情明細図には描かれていませんが、描き込むスペースが狭すぎるからか、整地の途上だったからか、単に略したのか…。そう考える大きな理由として「巨木の移動」問題（<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-05-08" target="_blank">http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-05-08</a>）がありますが、今は「セメント坪」には巨木は描かれていない、という事だけ押さえておこうと思います。<br />
さて、このように土手による初期の造成がなされていたならば、谷へ下りる道の入口で、両側の斜面に落っこちないために、「坪」が必要となります。谷へ下りる道は、大六天西土手が絶壁でない分、少し西にある筈でもあり、道の入口は「坪」の折れ曲がる所にあった、と想定してみました。諏訪谷へ下りる道の入口が現在のままの位置であったとしたら、佐伯の絵の坪の屈曲部の左手に、それが描かれてしかるべきなのに、その気配がないのは、おかしなことでした。しかし、このような土手で囲まれた諏訪谷造成地と「坪」を想定するとき、諸々の謎が解けるように思えるのです。<br />
佐伯が描いた「セメント坪」の当初の姿は、恐らく長くは存在しなかったことでしょう。大六天東の道筋や交差点付近の変更、大六天西の土手の擁壁化（＝大六天敷地のミニマル化・諏訪谷の底の宅地の拡大・巨木の移動）は、1930年代前半までには完了していたと考えられるからです。佐伯は、それを知ることはなかったけれど、1926年秋の変化していく諏訪谷を、正に捉えた作品を描いたと考えられます。<br />
<br />
<br />
<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>眺めが良かった佐伯邸</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2009-03-02</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Tue, 03 Mar 2009 02:23:00 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2009-03-02</guid>  
      <description><![CDATA[<p>久しぶりの、別館GM作業室です。本館の『鶏舎の臭いがたまりませんの。（<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-03-01" target="_blank">http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-03-01</a>）』に、そうでしたの米子はん！と呟きつつも、私見を述べたいと思います。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/Saeki1917-42b53.jpg" width="300" height="436" border="0" align="" alt="Saeki1917.jpg" /><br />
<br />
これは、佐伯が下落合にアトリエを建てる少し前の、1910年代後半の状況を反映している一万分の一地形図です。中央やや上部にある碧緑の丸（佐伯アトリエの現存する場所）から周囲を眺めると、東南に「青柳が原」の家々（この中に、先住民としての鶏たちの小屋が、あったかもしれません…）があり、その北部にも人家が続くものの、南の斜面の「不動谷(<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-02-23" target="_blank">http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-02-23</a>）」の森が広々と見渡せる事が、分かります。本日は、この眺めの良さに留意しつつ、佐伯アトリエの敷地と青柳さんのお宅の敷地の関係がどうなっているのか、各種の地図で具体的に、あたってみたいと思います。<br />
<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/Saeki19243F.jpg" width="300" height="207" border="0" align="" alt="Saeki1924?.jpg" /><br />
Fig.1「出前地図」1925年1月（以下、各々の図版の発行などの年を記す）<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/Saeki1926.jpg" width="300" height="215" border="0" align="" alt="Saeki1926.jpg" /><br />
Fig.2「事情明細図」1926年10月<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/Saeki1938.jpg" width="300" height="274" border="0" align="" alt="Saeki1938.jpg" /><br />
Fig.3「火保図」1938年3月<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/Saeki2007-b49ce.jpg" width="300" height="251" border="0" align="" alt="Saeki2007.jpg" /><br />
Fig.4　ゼンリン 2007年<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/Saeki2009-bebef.jpg" width="500" height="404" border="0" align="" alt="Saeki2009.jpg" /><br />
Fig.5　Google Map 2009年<br />
<br />
「出前地図」と「事情明細図」に比べて、「火保図」は測量に基づく正確な図のような印象を受けますが、ChinchikoPapa 様御指摘のように、よく調べると一寸した間違いも多く、家の形や位置などは見当が付く位の精度でもあり、注意を要します。そして、「出前地図」と「事情明細図」に、かなりのデフォルメを超越した意外なリアリティが、あったりもします。<br />
さて、今回のテーマの、佐伯アトリエの敷地と青柳さんのお宅の敷地の関係、ですが、Fig.2（佐伯アトリエは「酒井億尋」の敷地の南半分位を占める）・4・5 が、同じ状況（赤いライン）を表現していると思われます。Fig.1 も、「矢島」さんの家が随分南下し、青柳邸が佐伯の東隣になっている等ヘンですが、佐伯アトリエの敷地が、南西の隣地に食い込んでいる感じは、FIg.2・4・5 同様に掴んでいると思います。問題は、Fig.3 の「火保図」で、これだけ、佐伯アトリエから青柳さんの敷地（Fig.3 では、杉山さんと、その南の家。Fig.4・Fig.5でも2軒の家）にかけてが（水色のライン）、納邸とフラットに隣接してしまっています。これを総合的に検討し、私は「火保図」の作図が誤っており、佐伯アトリエが出来た当初から、現在のような赤いライン（Fig.5）があったと考えます。<br />
そして、場所も変わっていない佐伯アトリエを、Fig.5 の現在の空中写真によって見てみると、アトリエの切妻が、ぴったり青柳邸にかからずに不動谷方面の樹々を望む向きを向いている事が，分かります。アトリエから更に南に伸びた母屋も、同様に、きれいに不動谷に向かうことになります。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/Saeki20060907.JPG" width="320" height="240" border="0" align="" alt="Saeki20060907.JPG" /><br />
<br />
少し前に、Fig.5 のアプリコットという字がかかっている場所の建物が建替えのため、除けられていた時期がありました。その折に、黄色の丸印のあたりから見た佐伯アトリエです。久しぶりに、不動谷の方から佐伯アトリエが見通せた訳です。佐伯は逆に、この住まいから不動谷を眺めるのが好きで、敷地に対して曲がったアトリエや母屋を、目一杯西に寄せて建てたと、私としては、あっさり思うのですね。<br />
しかし、第１次渡仏中に第３文化村の分譲が始まり、1926年秋には、恐らく南西ドナリの納さん（？）の整地・建築も始まった筈で、周辺の状況が一変していきます。佐伯は、納さんが広い敷地の、どこにどんな建物を建てるか、気が気ではなかったのではないでしょうか。違法重層長屋など建つ訳ではないけれど、うちの南の方には何も建てんといてや、と作業員さんと懇意になりつつ見守っていたため、多くの八島さんの前通りシリーズが誕生したかも知れません。（笑）<br />
<br />
<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>ホワイトの謎</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2008-05-15</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Thu, 15 May 2008 09:52:20 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2008-05-15</guid>  
      <description><![CDATA[<p>別館GM作業室です。<br />
本館の『佐伯祐三の「下落合風景」も悩ましい。』（<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-05-14" target="_blank">http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-05-14</a>）を受けて、この『風景』という佐伯の作品の、1927年と現在の画面を、詳しく比較してみたいと思います。<br />
<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/10726475.jpg" width="250" height="200" border="0" align="" alt="10726475.jpg" /><br />
雪景色でもないのに屋根が、妙に白く輝いています。<br />
この作品の現在のカラー写真を、モノクロに変換すると、こうなります。<br />
（次の『アトリエ』の写真にあわせて、トリミングしてあります。）<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/kara-dattahuukei001.jpg" width="454" height="342" border="0" align="" alt="kara-dattahuukei001.jpg" /><br />
<br />
一方、1927年8月号の『アトリエ』に掲載された、1930年協会第二回展に佐伯が出した「風景」の図版は、このようなものです。<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/1930nen2kaiten001.jpg" width="500" height="410" border="0" align="" alt="1930nen2kaiten001.jpg" /><br />
全体としてコントラストが弱い写真、ないしグレースケールの諧調にゆがみがある写真に見えます。それでも、私には、「物置のトタン屋根（？）」には、現在とほぼ同様の調子があるように見えます。（むしろ絵の具層が少なく見えるけれど、ホントは、あるのでしょう。誰も加筆していないと思います。笑）<br />
母屋の屋根は、一階の庇に、やや明るさのムラがある感じはするけれど、明瞭なホワイトの露出は、確認出来ません。「物置のトタン屋根」から類推すると、もう少しコントラストがあるかもしれませんが、現在の写真と同一ではない可能性があるようです。<br />
さらに、別の箇所について検討すると、<br />
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/_images/blog/_3f1/art_art_art/1930nen2kaitenEFBC8FE5958FE9A18C.jpg" width="500" height="410" border="0" align="" alt="1930nen2kaiten／問題.jpg" /><br />
左上の丸の中の、樹の小さな強いタッチが、現在の絵には見えませんね。冒頭のカラー写真では、茶色っぽい、ぼんやりした梢になっています。また右下の土の所の色合いも、明るくなっているように思えます。<br />
<br />
…、とすると、昨日のコメントとは打って変わり、「洗浄」はあった、派に転向したいと思います。m( _ _ )m 　　この作品の履歴をみると、1930年協会展に1927年に出品された後、1968年の講談社の『全画集』に採録されるまで、世に出ていません。空白の40年の間に、なにかあったようです。<br />
<br />
さて、屋根から何が消えてしまったかですが、私は、ごく彩度の低い、わずかにミドリがかったグレーの薄塗りを想定してみました。まるで汚れのように見える色です。その層を取り除き、茶色やブルーの色味が出てきて作業を止める。しっかりしたホワイトの下塗りの上に、バーントシェンナの暖かい色味を掃き、さらにグレーで軽く押さえたならば、重い日本瓦ではなく、薄くて固いスレート屋根が見えてくるかもしれません。この想像が、「悩ましさ」からの逃避行動でなければ、よいのですが。<br />
<br />
<br />
<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>池田邸の「高楼」問題</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2008-02-22</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Fri, 22 Feb 2008 23:52:34 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2008-02-22</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11630563.jpg" /></p>

<p class="auto">
赤い屋根に鴟尾か鯱、さらに高楼がのる、かなり独特な形の家のある佐伯の下落合風景の描画ポイントとして、C.P.様の御考察により地形的に適格性のあることが認められる池田邸ですが、1950年代くらいまで、それがあったならば、その記憶が真上のお宅に暮らす御家族にあってもよいのかもしれません。しかし、現存する資料から考えて、1930年代半ば以前に「高楼」のあった家は無くなり、池田邸は記憶の彼方に消えた、という可能性もあると思います。<br class="auto"/>
では、『旧・池田邸をカラー写真で観察する。』（<a href="http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2008-02-17" target="_blank" class="auto">http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2008-02-17</a>）のコメント欄で、言葉で説明できなかった、1936−1970頃の、空中写真やスナップ写真で見られる「旧・池田邸」の同一性について述べたいと思います。<br class="auto"/>
まず、比較的明瞭な1964年の空中写真を基に、屋根の形を描き起こしてみました。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11630686.jpg" /><img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11630694.jpg" /></p>

<p class="auto">
この形を拾っています。<br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11630744.jpg" /></p>

<p class="auto">
それを、1947年にあてはめると、</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11630796.jpg" /><img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11630814.jpg" /></p>

<p class="auto">
1944年では、</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11630836.jpg" /><img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11630857.jpg" /></p>

<p class="auto">
1936年だと、</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11630895.jpg" /><img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11630901.jpg" /></p>

<p class="auto">
となります。<br class="auto"/>
西日の強く、ぼんやりした写りの1944・1936年の写真は分かりにくいものの、屋根のあり方自体は変わっていないと、私には見えます。「突起」と見えるのは、このあたりの事ではないでしょうか。<br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11631234.jpg" /></p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11631374.jpg" /><br class="auto"/>
西館の影の落ち方と、屋根の下にある庇のようなものに、日があたったり、あたらなかったりする事で、あるいは角度が変わる事で、写真の印象が大分変わるようです。でも、この東館は、少なくとも1936年以降、そんなに変わる事はなく、それ以前に、西館が「高楼」付きの平屋であったか、むしろ全体が、異なった建物であったか、という風に私は推測します。<br class="auto"/>
>住宅を建て替えるとき、住民は敷地のかたちに合わせて同じような位置に、同じような形状の建物を建てるのが一般的に見られる傾向であり、<br class="auto"/>
という御指摘はもっともで、池田邸の敷地にたいしては似た風情で、異なったデザインの家があったのでは、と考えるのです。そして、佐伯の描く、鴟尾か鯱がのる赤い屋根の家と、戦後の写真で見ることの出来る、緩やかな寄棟の印象のつよい家では、ずいぶん異なった好みですから、1930年代に、ここに住む事を選んだ方の場合、惜しげもなく建替えてしまったのかなあ、と思ったりします。また、佐伯が描いた時、大きな樹が南側に茂っているけれど「高楼」をチョイと造って眺めを楽しんで暮らしていた方があったのかな、とも思ったり。佐伯は、「高楼」を見つけて、なにを考えたのでしょう。<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
補：1947年の空中写真にみえる「突起」問題について</p>

<p class="auto">
臙脂色の矢印の指す影のうち、左の方のものを、C.P.さまは「突起」とされているのかと思います。<br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11647810.jpg" /><br class="auto"/>
しかし、それは、右の矢印の指す影と、よく似た性質のものでもあります。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11648069.jpg" /><br class="auto"/>
屋根の描き起こしを、もう一度試みました。<br class="auto"/>
本文中のものに、少し変更を加えました。それは、一部のラインを山吹色にした事です。これは庇か、地面に打ったコンクリートの部分ではないかと思います。どちらであっても、臙脂で示した屋根とは段差があります。また、1947年には、屋敷の周りの樹が、かなり茂って、家の輪郭を辿りにくくしています。それは、グリーンで示しました。<br class="auto"/>
「突起」のように見える影は、屋根の斜面の途中にある出っ張りではなく、屋根の影が、庇ないし地面に落ちているのではないか、と私は見ているのです。西から光がきている1947年の写真では、その影が目立ちますが、南からの光の1964年の写真では、異なった見え方となるのでしょう。<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
補　その２：</p>

<p class="auto">
目を入替えて、「煙突」を認めてみました。<br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11668895.jpg" /></p>

<p class="auto">
しかし、太陽光に対し、似たような傾きを持つ他の面（臙脂色の影を付けた所）との、有意の差は、あるや否や？<br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11668992.jpg" /><br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11669021.jpg" /><br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
補　その３：佐伯の作品と、空中写真にある家との不一致感について</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11673019.jpg" /><br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/11673036.jpg" /></p>

<p class="auto">
東の鴟尾（？）と北の鴟尾の間隔が、絵のようにある為には、Aのブルーのゾーンあたりから見る必要があるように思います。北の破風が絵のように稍斜めから見えるのは、Bのゾーンあたりかと思います。「高楼」と北の破風のある赤屋根が、絵のような関係に見える為には、Cのゾーンあたりが、想定されます。この３つのゾーンが重なることは、難しそうです。<br class="auto"/>
また、絵では、高楼の左手まで白い屋根の稜線が続いていますが、空中写真の家では、東の鴟尾から続く「d」の稜線が高楼の左に来ることになりそうです。<br class="auto"/>
絵のような家になる為には、eの稜線がd位まで伸び、その稜線は東の鴟尾の載る稜線より有意に高く、eの南の屋根には南東に走る稜線は無く、「高楼」は、eの字の左上あたりで長辺を稜線に平行にして存在していれば、いいのではと思います。そして、絵でいえば白っぽい屋根になっている部分が、そのようなかたちであったとすると、写真に見られる後年の形になる為には、軽い改造ではなく改築がなされたと考えているのです。d-e間の稜線、南東に走る稜線、屋根全体の高さに関わる改変を、改築と感じている、ということでしょうか。赤い鴟尾の載る東と北のウイングについては、瓦の葺替えといった改装で、印象が一変するかもしれませんね。白い屋根の方の改築だけでも、大丈夫そうです。<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>本館新発掘の「下落合風景」２作を、まっすぐにして見る。</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2007-05-21</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Mon, 21 May 2007 22:53:06 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2007-05-21</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
本館の「未知の『下落合風景』の発見」（<a href="http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-05-20" target="_blank" class="auto">http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2007-05-20</a>）に、別館もワクワクしてしまいました。ただ、もう少し見易くしたくなったので、画像を直してみました。（Fのキャンバスと推定）</p>

<p class="auto">
奥の作品<br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/7739699.jpg" /><br class="auto"/>
左手の縁石と共に、右手の整地された土地（？）か畑（？）の広さが印象的です。<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
手前の作品<br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/7740685.jpg" /><br class="auto"/>
諏訪谷なのでしょうか。右端に大きな樹はあるけれど、家々の様子に、今までの作例と異なる感じも受けます。<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
小さな写真が、いろいろな事を考えさせます。近日中にupされるという、「もうひとつ」の発見が待たれます。<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
手前作品の補筆Ver.<br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/7760587.jpg" /></p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>番外編『亀之輔さんは、「鉛管踊り」』</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-10-25</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Thu, 26 Oct 2006 00:00:19 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-10-25</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
別館G.M.作業室です。本日は、佐伯の描画ポイント問題を、より深く捉えるという高邁な心構えの下で（爆！）、佐伯の下落合風景の一つ、「森たさんのトナリ」で描かれた里見勝蔵の家のトナリに居た森田亀之助の（佐伯が下落合風景を描いた時期には渡欧中でしたが…）美校生時代のエピソードを拾ってみました。（<a href="http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-10-24" target="_blank" class="auto">http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-10-24</a>）<br class="auto"/>
　　森田亀之輔、1883年1月東京生れ。<br class="auto"/>
　　1906年、東京美術学校西洋画科を卒業後、助手になる。<br class="auto"/>
　　1909年から1914年にかけてはバーナード・リーチのもとで、英文学・美術を学ぶ。<br class="auto"/>
　　海外の芸術の情報の紹介に努め、<br class="auto"/>
　　1925年から1927年に渡欧（この時、佐伯の世話になったという）。　以下、略。<br class="auto"/>
さて、その森田亀之輔が、西洋画科第２学年だった1903年11月3日のこと。東京美術学校設立15年を記念した美術祭が行われています。岡倉天心追放の動揺を静めた後の、全校挙げての祭に、来校者は3万人。式典では諸々の神の降神があったとか（因みに祭神はというと、日本画科が狩野芳崖、西洋画科がラファエル、彫刻科が野見宿禰、鋳金科が石凝姥命、漆工科が本阿弥光悦、などなど）。展示は、各科の祭神の関連資料と、河口慧海（1903年5月帰国）招来のチベットの物品。<br class="auto"/>
そして、余興の部があり、演目数にして26の仮装行列が行われています。その午後の部の一番目に登場するのが、西洋画科会員有志（辻永、森田亀之輔、山下新太郎、和田三造ら計7名）による「鉛管踊」です。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/5225669.jpg" /></p>

<p class="auto">
…「鉛管（絵具のチューブ）」に扮して踊った、のだそうです。ニコレットの白い小父さんのような怪しさ。森田亀之輔は、あの「鉛管」の中で「踊った」のですよね。<br class="auto"/>
金山平三が美校に入学するのは、翌1904年ですから、残念ながら「鉛管踊」を見そこなった、というか、フラフラ踊りを見ずに済んだ、というべきか。しかし、他の演目の、埃及行列、巴里美術学生行列、小督、参内行列などのタイトルから予想されるリアルな力作よりも、私は、この絵具チューブのどうしようもない感じが、ちょっと好きです。謹厳な風貌の、竹澤基による『森田亀之助像』ですが、森田先生も、多方面にご活躍されていたのかもしれません。</p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>今は昔の「二ノ坂」の検分</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-09-08</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Sat, 09 Sep 2006 11:04:21 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-09-08</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
別館G.M.作業室です。<br class="auto"/>
本館の『「遠望の岡？』は二ノ坂だった。』を受けて、二ノ坂について検分をしたいと思います。<br class="auto"/>
現在の「獅子吼会西・金山アトリエ北」の「くの字の道」は、1926年発行の事情明細図に載っていない新道ではないか、という私の仮説には、C.P.さまもマイケルさんも同意見というお考えですが、「遠望の岡？」描画ポイントは、お二人共「二ノ坂」である、とおっしゃられます。<br class="auto"/>
『（「遠望の岡」の巻）』で私の立てた仮説、その後廃道となった「くの字の道」と、そこから現・獅子吼会吹き抜けマンションの南南東方向を望む「遠望の岡」描画ポイントに関して、まだ決定的な否定要素は出てきていないとは思っています。でも、かといって、目下（というよりも、きっと、いつまでも）その存在を証明する材料が無いのも事実です。<br class="auto"/>
そこで、本館がupされた「二ノ坂」描画ポイントに関して、よく考えてみる事にいたしました。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4671309.jpg" /></p>

<p class="auto">
佐伯の「遠望の岡？」の絵です。<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4671315.jpg" /></p>

<p class="auto">
現在の「二ノ坂」を、この絵の道の方向に留意して、写してみました。道の右端に、かなり寄った位置から描いています。イーゼルは、平地のような按配には立てにくそうな坂道です。道の右側にある「側溝」と「新東西道」の入口は、今では二ノ坂の道の幅の中に含まれていると考えました。絵の中の新東西道の入口には、ちょっと邪魔な線状のでっぱりがありますが、二ノ坂の斜面と新東西道の繋ぎ目のところは、今も無理して繋いだ感じになっています（でも、変なでっぱりです）。絵で、道の正面の突き当たりのようにも見えるところ（あるいは道全体）が、側溝方向に下がっているのが、現状との一番の違いでしょうか。しかし、そのころの地形を考えると側溝のあたりが低くなっていそうでもあり、その後修正があったと見ることができるように思います。<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4671352.jpg" /></p>

<p class="auto">
絵に、現在の道を埋め込んでみました。正面の建物の隙間から新宿方面を望むと、ほぼ、水平線の高さが一致しそうです。新宿東口の「ほてい屋」デパートも、絵の中央に来そうです。描画ポイントから道の突き当たりまでの距離の取り方は、佐伯の他の絵と比べると、意外に短いように感じます。左の竹垣の家、一軒分程度でしょうか。この門のある家が、1926年の事情明細図にあるものではないかという事は、「（くの字の塀の巻）」の付図に記しました。<br class="auto"/>
道の向うの小さな家々は、1927年に中井駅が開設される方面にあり、事情明細図でも、かなり人家が密集していた事が伺えます。この道との高度差も、適当な感じでしょうか。<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4674510.jpg" /><br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
これらの状況を総合して考えると、ここを「遠望の岡？」描画ポイントとする必要条件は、ほぼ揃っているといえます。それでも、まだ引っ掛かるのは、道にあれだけ強いパースペクティヴ（遠近感）があるのに、「側溝」が、ほとんど等幅のまま伸びている事でしょうか。その幅も左の竹垣と比べて広すぎるような…そもそも、絵ではあるのですけれど。また、同様の条件の場所が他にないといえるか、という点です。<br class="auto"/>
仮に佐伯が1926年秋にこの絵を描いたとして、丁度その頃発行された事情明細図に書き込まれている諸「事情」との一致点があったり無かったりする問題は、判断の難しい所ですが、竹垣の家が事情明細図に記載されている家であったとしたら、やはり面白いです。この頃、改変があったであろう二ノ坂は、旧道の時この家の北東をとおり、新道になると家の南西をとおるようになる筈なのですが（「くの字の塀」の巻の「二ノ坂・新旧の道」の画像等をご参照下さい）、何故そのような大掛かりな変化が必要とされたのでしょうか。<br class="auto"/>
二ノ坂から、三ノ坂にかけての宅地化を控えたこの時期、斜面の雛壇化がなされましたが、同時に上下水の計画もなされた筈です。そして、水の流れのために下水の水路は、このような急な斜面において家々より低く設置される、と考えてみました。新しい二ノ坂が造られる必然性は、このあたりに見出せないでしょうか。そうすると、斜面上の宅地開発に伴う下水工事という、とても目新しい出来事を、佐伯は、まさに描いている事になります。<br class="auto"/>
下水工事の問題は、三ノ坂が、この頃、旧道を廃止し新たに地面を掘り下げて造られたのではないかと、敢えて推測する事にも繋がってきます。つまり、「くの字の道」の巻に記した私の描画ポイント案では、道の右手にある茶色い部分が、ずっと低い位置にある現在の三ノ坂にあたるもので、茶色の右に沿ってある白い細長いものが、側溝ということになります。そして、先にある電信柱のあたりで、三ノ坂の傾斜が急に変わるので、あたかも道が途切れたように見える事になります。私には、どうも、そう見えてしまうのです。遠景に関しても、こちらのポイントでも大きな問題は無い様に思います。しかし、竹垣の家には実は弱っています。この位置に、事情明細図にない、このような家が既にあったと考える事にも、その後の開発の先駆けとしてあったと考える事にも、なんだか無理が感じられるのです…。うーん。というのが、今日の私の考察です。<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4701366.jpg" /></p>

<p class="auto">
 1933淀橋区全図</p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>仮説『くの字の道』（「くの字の塀」の巻）</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-08-29</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Tue, 29 Aug 2006 16:22:12 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-08-29</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
別館G.M.作業室です。<br class="auto"/>
8月22日に本館がupされた記事からはじまった、佐伯祐三の絵の描画ポイントをめぐる検討は、「二ノ坂」と「くの字カーブの道」をめぐる面白い展開となってきましたが、参照図版が多くなりすぎてきたので、本日は新たに、仮説『くの字の道』（「くの字の塀」の巻）、の頁をつくることにいたしました。<br class="auto"/>
「くの字の塀」？また間違い？と思われるかもしれませんが（笑）、あらら、これ塀ではありませんか？というのが、今日の私の発見なのです。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4561687.jpg" /></p>

<p class="auto">
仮称「くの字の塀」</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4561702.jpg" /></p>

<p class="auto">
別館の解釈</p>

<p class="auto">
コンディションの悪いモノクロ写真です。C.P.さまは、「崖淵の上を走るカギ状に折れた道」と表現され、私も、昨日までは、そのように考えていました。しかし、改めて詳細に見てみると、この「く」の字の曲がった所に、丸い飾りがついた一対の門柱があるではありませんか。そうなると、これは「塀」ということになり、絵全体のスケール感覚も、少し変わってきます。<br class="auto"/>
周囲の様子は判然としないけれど、正面の大きな家の手前で落ち込む地形にはなっているようです。また、正面の家から、その左の家へ向って下り坂になっているのも確実でしょう。また、塀の右側が道になっているようにも見えるものの、くの字の曲がり方から考えると、塀の左側が道で、右側は右手にある家の庭の一部と見るべきでしょうか。それにしては、塀のすぐ外、通行の邪魔になる所に、なにか大きなものがあったりします。また、佐伯は塀の中にいることになります。まるで、もう使われていない道と、廃屋となって自由に侵入してイーゼルを立てられる庭であるかのように。（爆！）</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4562188.jpg" /></p>

<p class="auto">
1936年の空中写真を使って、別館の描画ポイントの試案を書いてみました。ご検討下さると幸いです。<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
追記。<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4588467.jpg" /></p>

<p class="auto">
二ノ坂の階段は…<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4583334.jpg" /></p>

<p class="auto">
1921二の坂・旧道<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4583346.jpg" /></p>

<p class="auto">
1929二の坂・新道<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4583355.jpg" /></p>

<p class="auto">
二の坂・新旧の道<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4591202.jpg" /></p>

<p class="auto">
推定・事情明細図の斜面上の家＝A（門を赤丸で囲む）<br class="auto"/>
　　（Bは「二ノ坂・遠望の岡」の左手の竹垣の家？）<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4591204.jpg" /></p>

<p class="auto">
推定・「くの字の塀」描画ポイント（黄色ないし薄黄色の丸）<br class="auto"/>
　　（C=画面中央の家の方向。D=それより下にある左手の家の方向）<br class="auto"/>
　　（緑の曲線は、同所の1929年地形図の等高線）<br class="auto"/>
<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4598196.jpg" /></p>

<p class="auto">
推定・画面に含まれている雛壇（描画ポイントのある斜面から透視）<br class="auto"/>
　　（左のオレンジの下辺のラインはDの雛壇。<br class="auto"/>
　　　中央の海老茶の下辺のラインはCの雛壇。<br class="auto"/>
　　　右の緑の面は、画角の右外に金山邸のある雛壇の横壁。<br class="auto"/>
　　　黄色は二ノ坂の下に立つ電信柱？）</p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>仮説『くの字の道』（「遠望の岡」の巻）／付・1936年空中写真の金山邸</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-08-27-1</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Mon, 28 Aug 2006 11:48:54 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-08-27-1</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
別館、G.M.作業室です。<br class="auto"/>
本館の『この「く」の字カーブには見覚えが…。』等の御考察とマイケルさんのコメントを念頭におきながら、「くの字の道」に関する仮説、ならびに佐伯の「遠望の岡（？）」の描画ポイントについての私の考えを記したいと思います。<br class="auto"/>
私の立場は、事情明細図の謎の道はあった、しかし三ノ坂ではない、金山邸はあった、です。旧C.P.説とも、マイケルさん説とも違いそうですが、どうなることでしょう…！</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4542644.jpg" /></p>

<p class="auto">
では、まず「遠望の岡」「くの字カーブの道」「二ノ坂」に関わる場所の概観を見たいと思います。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4542989.jpg" /></p>

<p class="auto">
佐伯が下落合風景を描いたのは、1926・1927年、現・西武新宿線が開通したのは1927年春ですが、この1921年発行の一万分の一地形図に、二ノ坂（赤い四角の付いている道）と四ノ坂（左端の道）はありますが、三ノ坂は見当たりません。中の道（下方の道）のすぐ上（北）の等高線は標高25mで、そこから2.5m毎の等高線が５本つづき、30m程の間に12.5m高度が上がる急坂となっています。その上は高度差2.5m以内の比較的なだらかな丘となり、北方の道に至る手前で、やや下りになっています。あまりの急坂のためか、南の傾斜地に樹木が植えられていることしか確認できない、宅地化されていない一帯のようです。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4543995.jpg" /></p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4544071.jpg" /></p>

<p class="auto">
それが、1929年発行の地形図では、こうなります。1936年の空中写真、現在の道筋とも殆ど変わらない道が整っていることが分かります。<br class="auto"/>
この急激な道路整備、宅地化の行われた期間の中に、佐伯の描画期が含まれています。<br class="auto"/>
さて、本館の「遠望の岡」「くの字カーブ」で取りあげた道を、緑の線で示しました。（ピンクの線は、後述しますが、コンクリート等による塀です。）<br class="auto"/>
この緑の道について、1926年発行の事情明細図で考えると、どうなるでしょうか。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4544201.jpg" /></p>

<p class="auto">
私は、画面中央の「字」の字があるブロックの中に緑の破線で示した位置にあるのではないかと、考えています。その理由の一つは、先程から赤い四角を置いてある、二ノ坂の左（西）側へふくらんだ曲がり方のクセと、東西方向に走る道との関係にあります。事情明細図は、製図としては不正確でも、地域の「事情」を知るためには役立つように出来ている地図といえます。道の表現にも問題があるものの、このクセに関しては、他の諸地図・写真と比べ、注目出来るという仮説を立てています。<br class="auto"/>
二ノ坂など、現在と同一視出来る道もありますが、三ノ坂の一部と音井・小沢邸南の道については、現在は無い、と見ています。べつの地図でも、同所を見てみます。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4544918.jpg" /></p>

<p class="auto">
紫の道が、現在とは異なった所のある道と思われます。この地図では、三ノ坂である筈の道に明らかなクランクがあります。事情明細図の一年前の発行ですが、一致するところ、異なるところ、2080番地も含め、色々あります。<br class="auto"/>
この地図と、先程載せた1929年の地形図を、ちょっと遊んで重ねてみました。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4545205.jpg" /></p>

<p class="auto">
二ノ坂・四ノ坂と南北にある道の交点を重ねてあります（茶色の点）。「くの字」の道の両端が、緑の点。二ノ坂と三ノ坂の間のコンクリートの塀の両端が、ピンクの点です。<br class="auto"/>
1925年の地図には、地形図のような形の正確さはないので、乱暴と言えば乱暴ですが、緑の点の先程の推定との一致は、全体の状況から見て、注目してよいのではと思います。また、ピンクのコンクリートの塀が、1925年の地図では道であったところと一致している点にも、注目したいと思います。<br class="auto"/>
さて、このピンクのコンクリートの塀は（塀というより護壁と言った方が適当か？）、現在もある、金山邸や、獅子吼会の吹き抜けマンションの南面下にあるものとなります。地形図ではやや緩い斜面に見えますが、南の急斜面の余波があった可能性もあります。しかし、兎に角、以前はなだらかに周囲につづいていたであろう丘に、コンクリートで階段状の整地がなされた訳です。1929年の落合全体を見ても、まだ類例の少ない開発です。中井駅に近く、かつ急な斜面があったからでしょうか。<br class="auto"/>
階段状の整地がなされる前は、中の道に落ち込んで行く様な地形の手前に、等高線にほぼ沿った道があった、そこから斜面を直降する道も、二ノ坂と四ノ坂の距離を考えればあっても不思議ではない（所有者の違いなどの理由があれば、なおのこと、できるかもしれない）、と考えています。また、コンクリーの護壁は三ノ坂の方まで入り込んでいます。三ノ坂の東と西では恐らく東の方が高くなっており、この護壁を作って整地した際、現在の中井２丁目13番地より低い位置をとおる三ノ坂が出来たのです。<br class="auto"/>
次に、一応、三ノ坂のようにも見える、謎の道の護壁の上の部分はどうなっているのだ、という問題が出てきます。私は、それを以下のように考えます。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4545564.jpg" /></p>

<p class="auto">
1936年の空中写真を見ると、護壁と推定されるピンクの線と、金山邸などのあるブロックに黄色い線で示した辺との間に、樹々とその影のような、ものが写っています。これは、恐らく、傾斜地ないし、盛り土をした地盤の弱い土地ではないでしょうか。（それから、西日で南北方向に流れる屋根は、はっきりは見えませんが、私にはこの写真に金山邸が写っているように感じられます。）整地前の謎の道は、この斜面より、わずかに高くて平坦に近い位置で、「くの字の道」の西側を北上していたと思われます。事情明細図や1925年の地図では、少し直角より開いて曲がる道に見えます。その先の、事情明細図と1925年の地図で、意見の分かれている（？）あたりについては、私には、どういうことやら、さっぱり分かりません。<br class="auto"/>
「くの字の道」は、このコンクリートによる護壁工事と、ほぼ同時に造られたのではないでしょうか。丘の上にも開発ブームがあったでしょうし、また、上記の無くなってしまった道の代わりの道も必要だったと思います。<br class="auto"/>
但し、この考え方の場合、事情明細図と1925年の地図で、「2015」番地とされている場所が、1929年以降では、「2080」番地になってしまいます。しかし、1929年以降「2015」番地になった所は、それまで、「2016・2017・2018」番地だったのです。この件については、「2080」「2096」番地と一緒に、C.P.さまが調べて下さいますね！<br class="auto"/>
さて、この辺で、冒頭の絵の描画ポイントの問題に入ります。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4547084.jpg" /></p>

<p class="auto">
描画ポイントと視線の中心線は、およそブルーの線上にあります。謎の道は、薄いブルーの中にあると考えられますが、更に佐伯の絵から考えると、この視線の中心線のすぐ東となります。薄いピンクの場所は、金山邸のブロックから一段下がった雛壇状に整形された宅地用地です。謎の道は、雛壇になる前の、急に勾配が変わる、この坂を直降していたと思われます。佐伯がこの絵を描いたのは、まさに、雛壇状の整形工事が進行している折です。<br class="auto"/>
画角は、両側の細めのブルーの線で示してあります。片側では、護壁の下に出来る三ノ坂と、その西側に整形される宅地が、少し見えます。もう一方では、金山邸が入ってしまう筈ですが、描画ポイントのすぐそば、空中写真の「く」の字のあたりにある家の竹の（？）垣根に遮られて見えません。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4547512.jpg" /></p>

<p class="auto">
絵のブルーの部分が、謎の道だった所です。つきあたりは、もともと急激に傾斜が変わっていたか、雛壇状の整地工事の掘削がはじまったためか、突然先がなくなるように見えます（左へ曲がる感じはあるけれど）。むこうには、新宿東口方面を遠望するパノラマが広がります。手前には、傾斜地の下の家の屋根がのぞきます。画面で謎の道の右手になる部分はおそらく斜面です。謎の道と一体化して見えるため、とても幅の広い道に見えます。しかし、竹垣との大きさの関係を考えると、ここにあったであろう道の幅としては、それでは広すぎるように感じます。謎の道の先端にいる人物の大きさは、明らかにデフォルメがあると判断しますが、佐伯は遠景の人物は小さめに描くけれど、下落合風景の道や家の関係については、かなり実景に忠実だった、と今までのC.P.さまの御考察からも想定されます。その下は三ノ坂になる所と、三ノ坂の西側の宅地用地の小さな雛壇と思われます。<br class="auto"/>
私がC.P.さまの「遠望の岡」描画ポイント（本日からは旧・特定ポイント、とすべきなようですが）に微妙な違和感をもったのは、謎の道の先が無い感じを、一番の理由としています。そこで、かなりの推論を重ねました。そして、こんな風に思っているのですが、この仮説に何やら大きな不具合あるのでしょうか？皆様のお考えを伺えると有難いです。</p>

<p class="auto">
付・1936空中写真の金山邸（文化村上空）<br class="auto"/>
別館が、空中写真の金山邸の部分について、どう読んだかを、記し添えます。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4548990.jpg" /><br class="auto"/>
もとになる写真</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4549033.jpg" /><br class="auto"/>
別館の解釈</p>

<p class="auto">
破風が東西方向を向いている金山邸の母屋のシルエットと稜線を、小豆色で示します。（北向きの屋根の方が広い感じもでていると思います。）<br class="auto"/>
その南の方の不定形の形は、植物と考えます（みどり色）。<br class="auto"/>
家の北側にかかる少し濃いグレーの斑は（水色の部分）、本館の「上落合上空」の写真を参照すると判然としなくなるので、実体を伴わない不明の着色と考えます。</p>

<p class="auto">
マイケルさんは、どう読まれたのでしょう？</p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>『「道」の「道」』考</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-07-27</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Thu, 27 Jul 2006 23:01:55 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-07-27</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
別館G.M.作業室へ、ようこそ。<br class="auto"/>
さて、本館の『佐伯祐三は第二文化村周辺がお好き。』（<a href="http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-02-26" target="_blank" class="auto">http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-02-26</a>）と『「道」の下に「富永醫院」の看板があった。』（<a href="http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-07-27" target="_blank" class="auto">http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-07-27</a>）とをふまえ、<br class="auto"/>
問題の「道」の絵の、左に入る「道」について検討いたします。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4193709.jpg" /></p>

<p class="auto">
本館C.P.さまの描画ポイントは、1947年の空中写真で考えると、おおよそ下記の様になるかと思います。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4193735.jpg" /></p>

<p class="auto">
（…もう少し下がって、右の画角が広がるか…）<br class="auto"/>
でも、この場合、「富永醫院」の△看板がある筈の、左手前の鈍角の角が、絵では鋭角に見えてしまっているようです。また、中央の道のカーブが、空中写真では右カーブというより、気持ちS字になっているようです。</p>

<p class="auto">
私は、この「道」の絵の、左に入る「道」は、下の写真の指印が指す道ではないか、と考えます。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4193758.jpg" /></p>

<p class="auto">
この場合、描画ポイントを考えると、以下のようになります。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4193775.jpg" /></p>

<p class="auto">
佐伯の絵の、左へ入る「道」が左手前に来る様子と、こちらであれば良く一致すると思います。道のカーブも、すっきり右になります。つまり、またもや、描画ポイントを一寸動かしましょうよ、という提案となったのです。<br class="auto"/>
</p>

<p class="auto">
余分な話ですが、この道のすぐ先にある、正方形の何かの敷地跡が、火の見櫓ではないでしょうか。佐伯の絵の画角の左外すぐにあることになります。<br class="auto"/>
地形図（1921年／1929年でも等高線に大きな変化無し）で、これを見ると、</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4194276.jpg" /></p>

<p class="auto">
火の見櫓を緑の丸印とすると、こうなります。別の位置でも良いですが、佐伯の絵に入らず、かつ1947年の焼け跡写真で何かがあったらしく見えるところで、一番高度が高い場所は、ここです。佐伯は、「下落合でも有数の火の見櫓」の目の前に立ち、敢えてそれを僅かに外して描いたのでは、と感じるのです。</p>

<p class="auto">
追加資料（060729）<br class="auto"/>
1944年撮影の空中写真と、そこに見える（？）建物</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4214673.jpg" /></p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4214691.jpg" /></p>

<p class="auto">
左の正方形のようなシルエットが、火の見櫓か。<br class="auto"/>
その右の長方形のシルエットはある程度高さがあり、ほぼ等高線に沿って建つ大きめの建物か（1936年には無いもの）。<br class="auto"/>
？の所には、白く光る屋根の建物。絵の中の赤い屋根の家か。</p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>『商店が途切れる目白通りはどこ？』補遺</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-07-18</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Wed, 19 Jul 2006 13:58:52 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-07-18</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
別館G.M.作業室です。ご無沙汰お許し下さい。（p.c.とスキャナが繋がらないなどという、オバカな理由で、アライアンスが遅滞していました。）<br class="auto"/>
さて今日は、『目白通り…』について、まだ検討していなかった資料をupして、考察をすすめたいと思います。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4106606.jpg" /></p>

<p class="auto">
この地図は、「一万分一地形図　大正十年第二回修正測図同十四年部分修正」です。1926年7月30日に発行されています。つまり、内容としては1925年、発行日から見ると、佐伯祐三の下落合風景（1926年の春以降、1927年の夏以前の滞日期に描かれている）を考察する資料として良い感じのものなのです。（実は、目白文化村や第三府営住宅が全く書き入れられていなかったり等、1926年の状況を反映しているとは考えられない事は目につきますが。）</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4106300.jpg" /></p>

<p class="auto">
では、この佐伯の絵の、やや右の方に描かれている家と描画ポイントをマークしながら、問題点を整理していきます。<br class="auto"/>
本館C.P.さまは、地形図の赤紫の丸の辺に、この家があるとされています。一方、別館の私は、藍色の丸の方ではないかといたしました。指印は、それぞれの描画ポイントです。<br class="auto"/>
（<a href="http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-06-08" target="_blank" class="auto">http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-06-08</a>　<a href="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-06-08" target="_blank" class="auto">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-06-08</a>）<br class="auto"/>
（前回の議論の過程で、東西逆転問題が生じましたが、ひとまず凍結いたします。道のカーブの具合も考慮すると、簡単に光の向きだけを重視することもできない、とも思い…。）<br class="auto"/>
事情明細図でも、おさらいすると、以下の通りとなります。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4106448.jpg" /></p>

<p class="auto">
事情明細図によって、二つの描画ポイントから見た目白通りの商店街の様子を比べた時は、若干、西寄りの私のポイントの方が商店が少ない感じ、商店名の記入が少ない感じで、絵に近い様でした。とはいえ、実際にどのような店舗があったのかは不明である、との本館の御指摘も、事情明細図のあり方から見て尤もで、決め手を欠いていました。<br class="auto"/>
しかし、地形図によって、描画ポイントから見た目白通りの様子を捉えると、両者は随分異なってきます。<br class="auto"/>
本館の描画ポイント（赤紫の指）から見ると、目白通りには、既に家屋が建ち並んでいます。地形図にこのように書き込まれているということは、1925年以前に、既に、しっかりした家屋ないし店があった、ということではないでしょうか。地形図への家の書き込みが遅れる、ということはあっても、無いものを書くとは、通常考えられません。<br class="auto"/>
一方、私の描画ポイント（藍色の指）から見ると、目白通りに家はありません。佐伯が絵を描いた時点とのタイム・ラグを考慮しても、注目すべき状態と考えます。<br class="auto"/>
更に、もう一つの事に、私は注目したいのです。それは、藍色の指の指す辺の道に付いている符号です。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/4106758.jpg" /></p>

<p class="auto">
緑の丸印は、「並木」です。赤いポツポツのついた線は、恐らく「行樹」です。恐らく、と歯切れが悪いのは、よく似た符号に、「牆（土ベイ）」があるからです。しかし、1910年発行の地形図で、この辺に「並木」があることなどから、「行樹」とすべきではないかと、私は考えます。（ところで、「並木」と「行樹」の違いは一体なんなんでしょう？）<br class="auto"/>
佐伯の絵に戻ります。道の右手に描かれているのは、まさに「並木」か「行樹」です。この一致は重要だと考えます。すると、地形図の藍色の丸のある所の家のシルエットも、絵の家を、簡略化して書き込んだ様にも思えます。謎の「落合医院」なのでしょうか。家の周りにある緑の丸っこい線は「叢樹」の符号です。これも絵と一致します。地形図をよく見ると等高線も分かりますが、画面中央の人の辺が一番高くなるごくゆるやかな坂のようで、これも合っていそうです。<br class="auto"/>
1926年発行の地形図の検討をしてみて、藍色ポイントからなら、これだけ状況の一致が認められる、とG.M.は主張するのでした。</p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>字には気ままな、佐伯祐三</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-06-18</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Sun, 18 Jun 2006 08:05:03 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-06-18</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
別館、G.M.作業室です。本館『佐伯「制作メモ」を画像処理すると…。』から、ようこそ。<br class="auto"/>
さて、佐伯の字は、結構気ままです。よく見ると、馴染んでくるクセは、ありそうですが。では「佐」の字のツクリにも注目しながら、御覧下さい。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3793665.jpg" />　1920年（？）山田新一宛</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3793865.jpg" />　1924年、佐伯祐正宛</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3793706.jpg" />　1927年、神吉逸治宛</p>

<p class="auto">
おまけに、学生時代に御親友の山田新一に出した呆れる手紙も載せてしまいます。大阪に居て、自分で展覧会に出品できない作品についての指示書きです。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3794307.jpg" />　　<br class="auto"/>
拝啓　山田君額ブチヤニコノ名詞ヲモッテ行ッテ下サイ）<br class="auto"/>
只今は御葉書を有難う　実にさうでしたね<br class="auto"/>
　静物　　二百五十圓<br class="auto"/>
　自画像　非売品<br class="auto"/>
　風景　　二百圓<br class="auto"/>
「題」は右のままにて結構　サインは君がして下さい　すみませんけれど小サク「祐」と云ふ字をかいて下さい　色はバーミリオン<br class="auto"/>
サテ十二号の額椽代（多分　三圓五十銭）を額ブチヤにはらって下さい<br class="auto"/>
そして残りで枠をかつて下さい　残ったらもう使つてしまつて下さい　たらなかつたらたしておいて下さい　先日の残金の事甚恐れ入りました　もうそんな事はよしませう　オバサン画ノ具は私がかへつてからしはらいます（…つづく）</p>

<p class="auto">
　　　　　（山田新一『素顔の佐伯祐三』　中央公論美術出版より）</p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>『商店が途切れる目白通りはどこ？』考</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-06-08</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Fri, 09 Jun 2006 09:07:47 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-06-08</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
別館、G.M.作業室です。<br class="auto"/>
では、まず本館特定の、描画ポイントのどこに違和感があるかを、図を使って御説明します。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3713768.jpg" />　　　      <img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3711051.jpg" /></p>

<p class="auto">
この画角の特定のポイントは、1926年の事情明細図にある商店が視野に入らない事です。すなわち、「八百？」は右手外にあり、左手は目白通りの北辺ギリギリ、中央線より右側に洋館が入る…。一見、条件をクリアしているように見えます。<br class="auto"/>
しかし、洋館（空中写真で特定されたのは、事情明細図の四番地の方？）の北の目白通り沿いの店が、この角度では見えてしまうと思うのです（薄茶色が店）。また、道が水色の丸のあたりから右カーブしている事が、絵に反映されていません。<br class="auto"/>
私の想定した洋館は、「落合医院」です。1936年の空中写真では、既に建替えられているようで、シルエットを確認できないのが痛いですが、絵のような洋館であった可能性が、府営住宅よりは高いと考えます。落合医院の東北にも目白通り沿いに店がありますが、この角度ならば、なんとか樹々の中に入ってしまいそうです。画角が狭い事による奥行き感がでていることも、重要な特徴です。また、この描画ポイントから望む目白通りは、遥か向うで右折し、絵と一致します。立ち位置は、長崎側の四一四二番地の空地（この事情明細図は1926年の落合町と長崎町を合成したもの）。家の北面と西面がほぼ等分に見えている事も、落合医院の方が、やや分が良いといえるでしょう。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3711074.jpg" />　　　　<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3711159.jpg" /><br class="auto"/>
その上、こちらの地点が、正に、下落合の「商店が途切れる目白通り」であり、ここに到れば、落合町の北西隅（下落合字大上を除く）に立つ事になるわけです。佐伯の、隅を押さえる傾向は、C.P.さまに教えて頂いたと思うのですが…。<br class="auto"/>
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</p>

<p class="auto">
C.P.さま、早速のコメントありがとうございます。御指摘に沿う様に描画ポイントを以下の様に直してみました。如何でしょうか。<br class="auto"/>
画角に入る店の有無は、一旦棚上げにしても構いませんが、道のカーブについては、駄目です。1936年の空中写真を見れば、カーブがある事は、明らかではありませんか？現状より、1926年に近いのです。描画ポイントから引いたラインから離れて、右カーブしていきます。<br class="auto"/>
さて、それもさておき、もっと詳しく画面を見ましょう。絵の道の右手にある南の敷地に入る段のようなもの（赤い線）は、C.P.さまのポイント（赤紫の線の入った事情明細図）から見える細い道（うす赤く表示）にいい感じで対応する様に見えます。一方、緑の矢印を付けた道幅の変化は、私のポイントの方と関係がある様に見えます。また、そのあたりから南へ入るラインの向うに（緑の点線）家があり、ラインと家がぶつかりそうな（但し先程の赤いラインを前提とする）C.P.さまのポイントより、私の方が良さそうに思います。それから、道の左手は、殆ど分からないとはいえ、あまり店がある様には感じられません。事情明細図を見ると、より西で商店の途切れた方との関連が強そうです。こんな事を考えてみました。</p>

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<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3713569.jpg" />　　　<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3713671.jpg" />　　　　　</p>

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<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3714025.jpg" /></p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>『これでもか「八島さん」ちの前通り。』考</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-05-31</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Wed, 31 May 2006 16:38:14 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-05-31</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
別館、G.M.作業室です。<br class="auto"/>
Chinchiko Papaさまの「八島さんち」シリーズの御考察によって、この通りの様子が大分判明してまいりました。佐伯の、道の片側の家は殆ど描かない、といった特徴による解りにくさにも拘らず。</p>

<p class="auto">
さて、『これでもか「八島さん」ちの前通り。』の描画ポイントの特定を、別館も勿論支持するのですが、画角に佐伯のアトリエが含まれるか否か、という微妙だけれど、佐伯の心理を考える上で面白い問題については、少し詳しく画角を示した図をupして、G.M.の考えを述べたいと思います。<br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3618192.jpg" /></p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>『当時も妙正寺川は溢れていたのか。』考、その2</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-05-30</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Tue, 30 May 2006 22:32:27 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-05-30</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
別館、G.M.作業室です。 <br class="auto"/>
本館の写真のupにあわせ、「『曇日』の地点よりは少し中井駅寄り」と「中井御霊神社のあたり」として、地形図の「え」と「あ」の地点を選び、シルエットを起こしてみました。…恐いほどの急坂です。<br class="auto"/>
　　*仮に、標高25m（紺の線）と標高37.5m（オレンジの線）の間を、バッケと考えています。<br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3611558.jpg" /><br class="auto"/>
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3610292.jpg" /></p>

<p class="auto">
しかし、『曇日』のあたりの「い」「う」では、私の考える描画地点方面から見ると、こんな感じです。<br class="auto"/>
そして、画角内に（２本の黄色い線の間）、「い」と「う」を大体の比率をあわせて入れると、下の図のようになるかと思います。家々の大体の位置も入れてみました。<br class="auto"/>
バッケは青い家と赤い家の間から立ち上がり、緑の家の上をGの所を緩く通っていると考えられそうです。</p>

<p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3611580.jpg" /></p>

<p class="auto">
バッケは、当然、画面入るのです。しかし、低湿地の霧のためか、その日はGで僅かにのぞくだけだった、というのが『曇日』の仕掛けだと私は考えています。</p>

<p class="auto">
追記。現在の「い」のあたりの坂の印象は、この図よりキツイ感じがします。しかし、それが等高線の間隔の誤りに、つながるのか。その後の整地は、どうなっているのか…。</p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>『当時も妙正寺川は溢れていたのか。』考</title>  
      <link>http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-05-29</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Mon, 29 May 2006 19:16:59 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-05-29</guid>  
      <description><![CDATA[<p><p class="auto">
<img src="http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/blog/_images/blog/_3f1/art_art_art/3601191.jpg" /><br class="auto"/>
別館、G.M.作業室です。<br class="auto"/>
『曇日』描画地点から、バッケは、どう見えるのか？<br class="auto"/>
（赤い線より低い所が、家々のある、南へ傾斜した原です。）<br class="auto"/>
私は描画地点からは、Gラインが、崖線として浮かぶのではないかと考えました。そして、これは『曇日』で見えている（？）部分では、ほとんど頂上になり（Gより北の方）、案外なだらかな気がします。家々の間の、バッケが見えていない、明るい霧につつまれた所で、急に落ち込んでいる…。天候の都合で、意外にもバッケの落ち込みが見えない時を捉えたのです。また、遠方から見ているので、引きがあるのかもしれません。現場を知っている程、見慣れぬ風景に見えてしまう曇りの日…。いかがでしょうか。</p>

<a name="more"></a></p>]]></description>  
      <author>ものたがひ</author> 
    </item> 
  </channel> 
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