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    <title>新しい日本の歴史</title>  
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    <description>中国は、「日本人は、日本史の勉強をしなさい」と忠告してくれました。日本は、感謝して忠告を聞き、お返しをすべきです。</description>  
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    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-05-15T08:49:59+09:00</dc:date>  
    <dc:language>ja</dc:language>  
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  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-15"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（112）魏志倭人伝（63）　邪馬壹国は、何所に（59）邪馬壹国(18)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-15</link>  
    <description><![CDATA[<p>タイトルと内容が離れています。邪馬壹国は、九州にあったというのが、九州の方の考えです。これは確定的ですが、どこも狭いのが欠点です。どうして、九州かと云いますと、根拠は、魏志倭人伝に書いてあるからだと思います。書いてある通りに、各国を比定していきますと、どう無理を通しても、上手くいきません。　魏志倭人伝には、各国の戸数が書いてあります。歴史各論　三角縁神獣鏡（98）　魏志倭人伝（49）　邪馬壹国は、何所に（45）邪馬壹国(4)http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30　邪馬壹国は、７万戸です。４代の人が一緒に住んでいたと考えていますが、もっと、少なくて、5人家族としても、35万人です。そのような大きな集落の跡は、見付かっていません。吉野ヶ里遺跡は、１万人も住んでいたでしょうか。次に有力な候補地は、奈良盆地にあったという説です。遠すぎます。三角縁神獣鏡は、一杯出土したのに、何一つ解明されておらず、豪族が、朝廷から貰ったものと云うことになっています。どこに書いたか忘れましたが、解明のヒントは、三角縁神獣鏡の同氾鏡が、離れたところから見つかっています。　こした謎を解決するヒントは、すべて、魏志倭人伝に書いてあるような意見が多い様に思われます。　魏志倭人伝には、卑弥呼が女王だったと書いてありますから、100％正しいことになっています。卑弥呼は、実在していましたが、女王ではありません。亡くなる前は、岡山と福知山を行き来していましたが、晩年は、魏の国の人に、囚われていて、248年に殺されたか、自殺をするように命じられたと推察しています。年齢は、100歳近かったと思います。　卑弥呼が囚われていた福知山の事は、次回から、http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2686294/　に書くつもりです。福知山天座で亡くなられた天照大御神の死後、ここでお祀りをしていたのが、卑弥呼(ヒミコは巫女さんでした)です。魏志倭人伝を書いた人は、邪馬台国(岡山県西大寺)と伊都国(兵庫県・福知山あたり)の間を行き来していた高官のことを邪馬台国の女王と理解していたのでしょう。　　卑弥呼の年令は、100歳近かったと書きましたのは、100歳前後の人は、一杯いたことを立証しようと現在書いています。卑弥呼の兄である崇神天皇は、日本書紀に拠りますと、168歳になりますが、これでは、古事記が..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-05-15T08:49:59+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>と内容が離れています。邪馬壹国は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>にあったというのが、九州の方の考えです。これは確定的ですが、どこも狭いのが欠点です。<br />
<br />
どうして、九州かと云いますと、根拠は、魏志倭人伝に書いてあるからだと思います。書いてある通りに、各国を比定していきますと、どう無理を通しても、上手くいきません。<br />
　魏志倭人伝には、各国の戸数が書いてあります。<br />
<br />
<strong>歴史各論　三角縁神獣鏡（98）　魏志倭人伝（49）　邪馬壹国は、何所に（45）邪馬壹国(4)</strong><br />
<a href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30
" target="_blank">http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30</a><br />
　邪馬壹国は、７万戸です。４代の人が一緒に住んでいたと考えていますが、もっと、少なくて、5人家族としても、35万人です。そのような大きな集落の跡は、見付かっていません。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%90%89%E9%87%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">吉野</a>ヶ里遺跡は、１万人も住んでいたでしょうか。<br />
<br />
次に有力な候補地は、奈良盆地にあったという説です。遠すぎます。三角縁神獣鏡は、一杯出土したのに、何一つ解明されておらず、豪族が、朝廷から貰ったものと云うことになっています。<br />
どこに書いたか忘れましたが、解明のヒントは、三角縁神獣鏡の同氾鏡が、離れたところから見つかっています。<br />
　こした謎を解決するヒントは、すべて、魏志倭人伝に書いてあるような意見が多い様に思われます。<br />
　魏志倭人伝には、卑弥呼が女王だったと書いてありますから、100％正しいことになっています。卑弥呼は、実在していましたが、女王ではありません。亡くなる前は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B2%A1%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">岡山</a>と<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">福知山</a>を行き来していましたが、晩年は、魏の国の人に、囚われていて、248年に殺されたか、自殺をするように命じられたと推察しています。年齢は、100歳近かったと思います。<br />
<br />
　卑弥呼が囚われていた福知山の事は、次回から、<br />
<a href="http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2686294/" target="_blank">http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2686294/</a>　に書くつもりです。福知山天座で亡くなられた天照大御神の死後、ここでお祀りをしていたのが、卑弥呼(ヒミコは巫女さんでした)です。魏志倭人伝を書いた人は、邪馬台国(岡山県<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%AF%BA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">西大寺</a>)と伊都国(兵庫県・福知山あたり)の間を行き来していた高官のことを邪馬台国の女王と理解していたのでしょう。<br />
　<br />
　卑弥呼の年令は、100歳近かったと書きましたのは、100歳前後の人は、一杯いたことを立証しようと現在書いています。卑弥呼の兄である崇神天皇は、日本書紀に拠りますと、168歳になりますが、これでは、古事記が残している諸々の事とは、一致しません。168歳<br />
から60歳をひきますと、108歳になります。この数字が、崇神天皇の亡くなられた年になります。卑弥呼が亡くなられて、近い頃に亡くなられたはずです。殆どの方は、4~5世紀とされていますが、3~4世紀の間です。この頃から、大型の前方後円墳が、全国に作られる様になったと考えています。<br />
<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%A9%B1%E9%A1%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">話題</a>は、前回の記事を読んで頂きますと、ハニ族の棚田の水は、どの様にして確保されていたのか、書くつもりになっていましたが、あまりにも、タイトルと離れましたので、、言い訳を書きました。<br />
<br />
　ハニ族の村は、棚田より上にあります。村の上には、山が頂上まであるだけです。ＮＨＫで放映された【天空の棚田に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">生きる</a>】では、村より上に、川や貯水池がある様には、放映されていませんでした。<br />
<br />
　これは、重要なことですので、又もや、次回に書きますが、どうして、水を確保したのか、想像してください。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-13"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（111）魏志倭人伝（62）　邪馬壹国は、何所に（58）邪馬壹国(17)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-13</link>  
    <description><![CDATA[<p>ＮＨＫで放映された【天空の棚田に生きる】を見ていて、不思議に思うことは、田に張られた水です。　日本ですと、私の知っている棚田は、池が造られています。普通に低い所に作られた水田には、近くの川から引き込んであります。ただ、大きな川から水を引き込みますと、大雨が降った時に、田が壊れますから、1キロほどの上流に堰を設けて、そこから、川に沿って水路を設け、その水路から、必要に応じて、自分の田に水を引き込むことになります。水量が少ないときには、上流で水を多く使いますと、下流の農家は水が足りません。そこで、水争いが起ります。日本の古文書には、水争いと、山の木を切る争いが多いです。争いが多いということは、村人は、仲が悪いということになります。小字は現在は無くなってしまいましたが、以前は随分大切であったと考えています。小字名を見ますと、その村の成り立ちが推理することが出来ます。　随分以前に、同じ箕面市にある稲作をしておられる村の田の水源を調べたことがあります。　日曜日の昼に、畑で農作業しておられる方に、「この辺りの小字はなんといいますか」とお聞きしたら、叱られました。85歳は過ぎておられたと思いますが、私はこの村に嫁いでから、日曜日も休んだことがありません。小字名など、どうでもいいことです。知りませんと。　どうでも、良い分けがありません。その畑の真ん中に、小字の境界線があったからです。　それ以上お聞きしないで、その辺りの田を歩き回りました。田への水路が違うことを発見しました。隣りどうしの田ですが、一つは、どんどん山の上に登って行きました。その水は冷たかったです。もう一つの水は、横を流れる大きな川からの水でした。但し、川に沿って、相当上流から引き込んであることが判りました。　どちらの水の方が、お米が沢山取れるのか知りません。どちらの水の方が、美味しいお米が出来るのか、知りません。その村では、この様に水路を違えることによって、水争いを避けてこられたのだと思います。　80年の人生の間に、水の苦労をされたのだと思います。やはり、小字名など、口にしたくなかったのだと思いました。　一方、ハニ族の棚田はと云いますと、日本の田と違って、水は流れていました。その水は、どこから来るのかと云えば、上の田から流れてきます。上の田はどこから流れてくるかと云いますと、その上の田からです。　どんどん上に上がっていきますと、山の頂上になるのですが、山から染み出て..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-05-13T04:55:12+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
ＮＨＫで放映された【天空の棚田に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">生きる</a>】を見ていて、不思議に思うことは、田に張られた水です。<br />
　日本ですと、私の知っている棚田は、池が造られています。普通に低い所に作られた水田には、近くの川から引き込んであります。ただ、大きな川から水を引き込みますと、大雨が降った時に、田が壊れますから、1キロほどの上流に堰を設けて、そこから、川に沿って水路を設け、その水路から、必要に応じて、自分の田に水を引き込むことになります。<br />
水量が少ないときには、上流で水を多く使いますと、下流の農家は水が足りません。そこで、水争いが起ります。日本の古文書には、水争いと、山の木を切る争いが多いです。争いが多いということは、村人は、仲が悪いということになります。<br />
小字は現在は無くなってしまいましたが、以前は随分大切であったと考えています。小字名を見ますと、その村の成り立ちが推理することが出来ます。<br />
<br />
　随分以前に、同じ箕面市にある稲作をしておられる村の田の水源を調べたことがあります。<br />
　日曜日の昼に、畑で農作業しておられる方に、「この辺りの小字はなんといいますか」とお聞きしたら、叱られました。85歳は過ぎておられたと思いますが、私はこの村に嫁いでから、日曜日も休んだことがありません。小字名など、どうでもいいことです。知りませんと。　どうでも、良い分けがありません。その畑の真ん中に、小字の境界線があったからです。<br />
　それ以上お聞きしないで、その辺りの田を歩き回りました。田への水路が違うことを発見しました。隣りどうしの田ですが、一つは、どんどん山の上に登って行きました。その水は冷たかったです。もう一つの水は、横を流れる大きな川からの水でした。但し、川に沿って、相当上流から引き込んであることが判りました。<br />
　どちらの水の方が、お米が沢山取れるのか知りません。どちらの水の方が、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%BE%8E%E5%91%B3%E3%81%97%E3%81%84&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">美味しい</a>お米が出来るのか、知りません。その村では、この様に水路を違えることによって、水争いを避けてこられたのだと思います。<br />
　80年の人生の間に、水の苦労をされたのだと思います。やはり、小字名など、口にしたくなかったのだと思いました。<br />
<br />
　一方、ハニ族の棚田はと云いますと、日本の田と違って、水は流れていました。その水は、どこから来るのかと云えば、上の田から流れてきます。上の田はどこから流れてくるかと云いますと、その上の田からです。　どんどん上に上がっていきますと、山の頂上になるのですが、山から染み出てくる水を鍬一本を使って、溝を掘り、有る所にきますと、流れを二手に流れるように調整していました。大した量ではありませんが、水はチョロチョロと流れていました。流れるつれて、水量は増えていました。<br />
　田から田への水の調節は、鍬一本で、畦を壊して、少し大きくしたり、畦を修理したりして調節をしていました。この作業をする人は、他の農作業はしないで、20000枚ある全てに水が、平等に行き渡るように、専門にする人が居られました。<br />
<br />
　お分かりいただけたでしょうか。村人、全員が協力しませんと、ハニ族の棚田は成り立たないことになっています。<br />
<br />
　従いまして、他の民族が、村人を皆殺しにして村を奪っても、この棚田で、米を作ることは出来ないことになります。<br />
<br />
　この調子で書いていますと、切がありません。しかし、私が始めに書きました村の水争いのことを知らないと、どれほど、田に水が必要であることは理解出来ないと思います。<br />
<br />
　もうお分かりと思いますが、【天空の棚田に生きる】の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ビデオ</a>は、見て頂きませんと、理解出来ないことになります。<br />
<br />
見て頂きますと、判る様で分らないことがあります。すべての田には、稲苅の時以外は、田に水が満たされています。麓の村であれば、山全体に降った雨は、谷の部分に集まって、川となったり、泉となって、水は湧き出しますから、その水を利用すればいいことになります。しかし、ハニ族の村は、棚田の一番上にあります。その位置から、頂上までは、それ程も高さはありません。潅漑用の池はあったと思いますが、番組では放映されませんでした。<br />
　次回は、この水のことを記します。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://rss.rssad.jp/rss/ad/.VYAy4Kx0EQp/gYQLhz4biXae?type=2&amp;ent=08372275d25a1e1687a1fa5c70aa92e7">
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    <dc:date>2012-05-13T04:55:12+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-10"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（110）魏志倭人伝（61）　邪馬壹国は、何所に（57）邪馬壹国(16)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-10</link>  
    <description><![CDATA[<p>タイトルと関係ないことを書いています。　前回にも書きましたが、夜麻登登母母曽姫は、変な名前だと思われるでしょうが、変なことは有りません。夜麻登で生まれたか、住んでおられた登母母曽姫です。　古事記では、夜麻登-登母母曾毘売命と記されています。卑弥呼は、崇神天皇の妹です。崇神天皇と夜麻登-登母母曾毘売命の関係は、次の系図でご覧ください。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%AA%9B%E5%91%BD(系図は拡大してみてください)崇神天皇と夜麻登-登母母曾毘売命は、70年の差は有りそうです。この頃ら様子を次の所に書いていますから、興味がございましたら、読んでください。【開化天皇と夜麻登登母母曾毘売命の死亡】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1022.html　夜麻登-登母母曾毘売命は、大和朝廷の仮の事務所の取締役だったと考えています。　崇神天皇は、もっと、安全な所に住んでいました。　　この辺りに登場された天皇は、4代ほど、住んで居られたのではないかと推理していまするご自分で、計算してください。ヒントは、崇神紀5年は、多くの人が死んだときです。192年の出来事です。　夜麻登登母母曽姫のほかにも、二人の天皇が、同じ時に亡くなられたと考えています。　前回の続きです。　ＮＨＫで放映された【天空の棚田に生きる】を見ていて教えられたことは、ハニ族の人は、文字を持たなかったこともありますが、只管、毎年同じことをして来たと云われました。「毎年、同じことを繰り返しすることが、我々の生活の全てだ」。これは、長生きをしていたことの証ではないかと思っています。　現在の私たちの家族は、一時、３代が生活していましたが、父も母も93才でなくなりました。長生きですね。もう、8年前のことになります。その後、８年間は、親子3代で生活していましたが、先日、娘が結婚し、現在、夫婦二人です。　今、私は、家内に一人になった時に、一人で生きていく知恵を、一年前から授けています。例えば、下痢をしたときは、どうするか。直ぐに、お医者さんに行かないで、食事はとらないで、寝る。熱が出て、しんどいときは、解熱剤を使わないで、お風呂に入って、温かくして、寝る。あまり、心配の時は、お医者さんに行っても..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-05-10T03:18:16+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>と関係ないことを書いています。<br />
　前回にも書きましたが、夜麻登登母母曽姫は、変な名前だと思われるでしょうが、変なことは有りません。夜麻登で生まれたか、住んでおられた登母母曽姫です。<br />
　古事記では、夜麻登-登母母曾毘売命と記されています。<br />
卑弥呼は、崇神天皇の妹です。崇神天皇と夜麻登-登母母曾毘売命の関係は、<br />
次の系図でご覧ください。<br />
<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%AA%9B%E5%91%BD" target="_blank">http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%AA%9B%E5%91%BD</a><br />
(系図は拡大してみてください)<br />
崇神天皇と夜麻登-登母母曾毘売命は、70年の差は有りそうです。この頃ら様子を次の所に書いていますから、興味がございましたら、読んでください。<br />
<br />
【開化天皇と夜麻登登母母曾毘売命の死亡】<br />
<a href="http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1022.html" target="_blank">http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1022.html</a><br />
　<br />
夜麻登-登母母曾毘売命は、大和朝廷の仮の事務所の取締役だったと考えています。<br />
　崇神天皇は、もっと、安全な所に住んでいました。<br />
　<br />
　この辺りに登場された天皇は、4代ほど、住んで居られたのではないかと推理していまするご自分で、計算してください。ヒントは、崇神紀5年は、多くの人が死んだときです。192年の出来事です。<br />
　夜麻登登母母曽姫のほかにも、二人の天皇が、同じ時に亡くなられたと考えています。<br />
<br />
　前回の続きです。<br />
　ＮＨＫで放映された【天空の棚田に生きる】を見ていて教えられたことは、ハニ族の人は、文字を持たなかったこともありますが、只管、毎年同じことをして来たと云われました。「毎年、同じことを繰り返しすることが、我々の生活の全てだ」。これは、長生きをしていたことの証ではないかと思っています。<br />
　現在の私たちの家族は、一時、３代が生活していましたが、父も母も93才でなくなりました。長生きですね。もう、8年前のことになります。その後、８年間は、親子3代で生活していましたが、先日、娘が<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%B5%90%E5%A9%9A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">結婚</a>し、現在、夫婦二人です。<br />
　今、私は、家内に一人になった時に、一人で生きていく知恵を、一年前から授けています。例えば、下痢をしたときは、どうするか。直ぐに、お医者さんに行かないで、食事はとらないで、寝る。熱が出て、しんどいときは、解熱剤を使わないで、お<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%A2%A8%E5%91%82&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">風呂</a>に入って、温かくして、寝る。あまり、心配の時は、お医者さんに行ってもいいが、早く治る代わりに、完全に治るには、4日で治るのが、長引きます。<br />
　家が古いですから、あちこちに隙間ができて、寒いです。殆どの戸は、、力を入れませんと動いてくれません。　敷居をローソクでこすりますと、フスマもガラス戸も、すらすら動いてくれます。<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%96%B0%E8%81%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">新聞</a>記事は、どの様に読むかです。新聞記者は、読者の心をどきりとするようなことばかり書きます。真面目に新聞を読んでいますと、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%BF%83%E8%87%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">心臓</a>に負担が掛ります。<br />
　<br />
　親子3代ではなくて、親子4代が、常に一緒に住んでいますと、同じ生活を続けていくことは、難しくありません。<br />
<br />
　私の馬鹿話は如何でしたか。4代が一緒に住んでいるだけで、家族は安心して生きていくことが出来ます。<br />
　<br />
では、どの様な、毎年、同じことを繰り返しするのかは、下手な文章では、お伝えできませんが、次回に書いて見ます。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-08"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（109）魏志倭人伝（60）　邪馬壹国は、何所に（56）邪馬壹国(15)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-08</link>  
    <description><![CDATA[<p>タイトルと関係ないことを書いています。　どうしてかと云いますと、日本の歴史界は、①卑弥呼一色です。三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏の国から貰った100枚の鏡だと書いている人が一杯です。②卑弥呼は邪馬壹国の女王だった。　この二つは確定です。　卑弥呼は、崇神天皇の妹で、福知山で、外国からやってくる人の接待をしていました。ここで、上陸した人は、許可が出れば、岡山県の西大寺の所にある朝廷の本部に行くことが出来ました。　ここを日本人は、「夜麻登」と読んでいて、ここの責任者は、夜麻登-登母母曽姫でした。後の世に、この地は、夜麻登から、「倭」か「大倭」に変ったと考えています。　「倭」か「大倭」に天皇が居られましたから、その時に、生れた天皇の名前には、第７代　考霊天皇　は、大倭-根子日子賦斗邇命という名前が付けられたと思われます。http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/10/no39-633b.html　卑弥呼は、外交官であり、巫女さんでした。この地で亡くなった天照大御神の霊を祀っていました。　巫女であることを知っていた魏の人は、「卑」を頭に付けて、魏志倭人伝に、「卑弥呼」と記しました。③箸墓古墳は、卑弥呼の墓である。これは最近、人気が出て来た説です。私もそう思います。卑弥呼の墓は、兄である崇神天皇が造ったと考えています。卑弥呼の後から亡くなられた崇神天皇の墓は、卑弥呼の墓の隣に作られたと考えています。　ところが、崇神天皇は168才まで生きたとことになっています。これは、日本書紀を編集した人達が、干支がずれないように、干支をずらしたからと考えます。　崇神天皇のほか、10代までには高齢の天皇が多いのと、古事記と日本書紀では、記述が僅かしかありません。これは、実在しなかったから、記事が少ないのと、各天皇は、高齢すぎるのが、実在しなかった天皇である証拠になっています。　そこで、そうではなく、当時の人は、天皇に限らず、100才位生きる人が大勢いたということを説明するつもりになっています。　そのようなことは、考古学上、壺がいくら発掘されても分りません。新しく記紀以前の本が見つかっても分りません。しかし、順序だてて考えれば判るような気がしています。　　ＮＨＫで放映された【天空の棚田に生きる】で紹介しましたハニ族の人たちは、それ程筋肉質の身体をしているようには見えませんでしたが、男女共に、40㎏..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-05-08T15:58:34+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>と関係ないことを書いています。<br />
　どうしてかと云いますと、日本の歴史界は、<br />
<br />
①卑弥呼一色です。三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏の国から貰った100枚の鏡だと書いている人が一杯です。<br />
<br />
②卑弥呼は邪馬壹国の女王だった。<br />
　この二つは確定です。　卑弥呼は、崇神天皇の妹で、福知山で、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A4%96%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">外国</a>からやってくる人の接待をしていました。ここで、上陸した人は、許可が出れば、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B2%A1%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">岡山</a>県の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%AF%BA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">西大寺</a>の所にある朝廷の本部に行くことが出来ました。　ここを日本人は、「夜麻登」と読んでいて、ここの責任者は、夜麻登-登母母曽姫でした。後の世に、この地は、夜麻登から、「倭」か「大倭」に変ったと考えています。<br />
　「倭」か「大倭」に天皇が居られましたから、その時に、生れた天皇の名前には、第７代　考霊天皇　は、大倭-根子日子賦斗邇命という名前が付けられたと思われます。<br />
<a href="http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/10/no39-633b.html
" target="_blank">http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/10/no39-633b.html</a>　<br />
<br />
卑弥呼は、外交官であり、巫女さんでした。この地で亡くなった天照大御神の霊を祀っていました。　巫女であることを知っていた魏の人は、「卑」を頭に付けて、魏志倭人伝に、「卑弥呼」と記しました。<br />
<br />
③箸墓古墳は、卑弥呼の墓である。これは最近、人気が出て来た説です。私もそう思います。卑弥呼の墓は、兄である崇神天皇が造ったと考えています。卑弥呼の後から亡くなられた崇神天皇の墓は、卑弥呼の墓の隣に作られたと考えています。<br />
<br />
　ところが、崇神天皇は168才まで生きたとことになっています。これは、日本書紀を編集した人達が、干支がずれないように、干支をずらしたからと考えます。<br />
　崇神天皇のほか、10代までには高齢の天皇が多いのと、古事記と日本書紀では、記述が僅かしかありません。これは、実在しなかったから、記事が少ないのと、各天皇は、高齢すぎるのが、実在しなかった天皇である証拠になっています。<br />
<br />
　そこで、そうではなく、当時の人は、天皇に限らず、100才位生きる人が大勢いたということを説明するつもりになっています。<br />
<br />
　そのようなことは、考古学上、壺がいくら発掘されても分りません。新しく記紀以前の本が見つかっても分りません。しかし、順序だてて考えれば判るような気がしています。<br />
<br />
　　ＮＨＫで放映された【天空の棚田に生きる】で紹介しましたハニ族の人たちは、それ程筋肉質の身体をしているようには見えませんでしたが、男女共に、40㎏のお米を背負って一日に、400メートルある高低差の所を二往復していました。<br />
　家族構成が分りませんが、奥さんは14歳で嫁いできて、現在、54才、主人は、59才ですとある家族の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A4%AB%E5%A9%A6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">夫婦</a>の年令を報道していました。<br />
。<br />
　それがどうしたと云われそうですが、この過酷な労働で、40年は生きて来たということです。<br />
　これは特別で、殆どの人は、35歳ぐらいで死んでしまうのではないかと思いたくなりますが、皆さん、明るくて、よく働いていました。<br />
　<br />
　別に、そのような生活が大変だという様子はありませんでした。<br />
　「毎年、同じことを繰り返しすることが、我々の生活の全てだ」と云われた様に思います。文字も無かったですから、ひたすら同じことを繰り返して生きてこられたと思いました。<br />
<br />
　田を耕す時に、牛を連れて行きました。あれっと、思ったのは、牛に荷物を背負わせていませんでした。坂が急なために、荷物を付けなかったのかと思っていました。しかし、そうではなくて、牛を大切にしていたのだということが判りました。<br />
　どのように大切にしていたのかと云いますと、家族のどなたかが亡くなり、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%81%8A%E8%91%AC%E5%BC%8F&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">お葬式</a>をする映像がありました。<br />
　その時に、大切な牛を殺して、あの世に持って行かせるのだとありました。私は、やっと、過酷な労働から解放されることになるのに、あの世で、又、牛を使って働いて貰うのだと皆さん、考えられるのでしょう。<br />
　牛一頭を失うことは、私たちが、車を壊してしまうより、大きな痛手だと思うのですが、<br />
それだけ、その大切な牛をお供にして、精一杯のお葬式をされていると思いました。　<br />
<br />
　家族が、30~35才で死にますと、そのたびに牛一頭も死ぬことになります。　それでは、経済的に負担が多いです。ハニ族の村では、長生きをする人が多いので、牛を道ずれにするという風習が残ったのでしょう。もっとも、牛の寿命は20年ぐらいまでですから、寿命の近い牛を供するのかもしれません。勿論、殺した牛は、周囲の皆さんで、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">食べる</a>ことになるのでしょうが。<br />
　<br />
　ＮＨＫに、この村では、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%AB%98%E9%BD%A2%E8%80%85&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">高齢者</a>が多かったかどうか、教えて下さいとお願いしましたが、返事は頂けませんでした。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-06"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（108）魏志倭人伝（59）　邪馬壹国は、何所に（55）邪馬壹国(14)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-06</link>  
    <description><![CDATA[<p>ハニ族の人は、長生きされたのではないかと書くつもりになりながら、書かないで、そのことと長生きが分らなくなるのではないかと、前回の脱線になりました。　　ＮＨＫで放映された【天空の棚田に生きる】を見る限りでは、過酷な生活をしておられる様が分ります。そのような過酷な生活をすれば、逆に長生きは出来なかったのではと思えるほどの日常です。　　その様子を記します。　彼らは、高いところは、標高1800ｍある所で生活し、標高差は、1500ｍの棚田と説明していたように記憶します。上300ｍ樹林です。その下に、人の住む村があります。　田は、そこから1500ｍの標高差の所につくられており、20000枚あり、1500世帯の人たちで、稲作をしています。　主なる農作物は、稲です。標高差が大きいですから、稲刈りは高くなるほど、遅くなります。食べるものの大半は稲ですが、稲刈りの時を除いては、田には常に水が入れられています。　そこでは、鯉やタニシがおり、唯一のタンパク源となっています。低い所の他までは、距離にして3キロ半ほど、時間にして50分を要して降りて行きます。降りる時で50分ですから、村に戻るときは、当然、もっとかかるはずです。　農作業で大切なことは、毎年行われる畦直しです。畦に生えた草を土ごと削り取り、その土と草を交ぜ合わせて、残った畦に塗る作業は、鍬一本で行われます。　20000枚ある畦の修理です。完成しますと、牛を使って鋤起こしです。その他の稲刈り等は、全て人力です。収穫した稲は、そのまま、村迄もってあがると重いので、田で穂先を叩いて脱穀します。器械は使用しません。勿論農薬等は一切使いません。　農薬を使いませんと、収穫は3割ぐらい減るのではと思いますが確かではありません。　脱穀したお米は、一袋に40㎏を詰めて、牛は使わないで、一人一人が方に担いで、3キロ半の道のりを歩いて村に帰ります。　私ですと、30㎏でも、持ちあがらないと思います。20㎏でも、歩けないと思います。　どれほど、凄い労働であるか、【天空の棚田に生きる】をご覧ください。食べている物は、米が主食です。村の周りに栽培している野菜はあります。タンパク源は、先ほど、書きました鯉とタニシがありますが、外に鶏と豚がありました。これは、タンパク質と云うよりは、人間が、食べ残したものや排せつ物の処理、こぼれた食物を浚えてくれる動物です。この動物の汚物は、田に還元されます。　養豚とか養鶏とい..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-05-06T07:51:29+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
ハニ族の人は、長生きされたのではないかと書くつもりになりながら、書かないで、そのことと長生きが分らなくなるのではないかと、前回の脱線になりました。<br />
　<br />
　ＮＨＫで放映された【天空の棚田に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">生きる</a>】を見る限りでは、過酷な生活をしておられる様が分ります。そのような過酷な生活をすれば、逆に長生きは出来なかったのではと思えるほどの日常です。<br />
　<br />
　その様子を記します。<br />
　彼らは、高いところは、標高1800ｍある所で生活し、標高差は、1500ｍの棚田と説明していたように記憶します。上300ｍ樹林です。その下に、人の住む村があります。<br />
　田は、そこから1500ｍの標高差の所につくられており、20000枚あり、1500<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%96%E5%B8%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">世帯</a>の人たちで、稲作をしています。<br />
　主なる農作物は、稲です。標高差が大きいですから、稲刈りは高くなるほど、遅くなります。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">食べる</a>ものの大半は稲ですが、稲刈りの時を除いては、田には常に水が入れられています。<br />
　そこでは、鯉やタニシがおり、唯一のタンパク源となっています。低い所の他までは、距離にして3キロ半ほど、時間にして50分を要して降りて行きます。降りる時で50分ですから、村に戻るときは、当然、もっとかかるはずです。<br />
<br />
　農作業で大切なことは、毎年行われる畦直しです。畦に生えた草を土ごと削り取り、その土と草を交ぜ合わせて、残った畦に塗る作業は、鍬一本で行われます。　20000枚ある畦の修理です。完成しますと、牛を使って鋤起こしです。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">その他</a>の稲刈り等は、全て人力です。収穫した稲は、そのまま、村迄もってあがると重いので、田で穂先を叩いて脱穀します。器械は使用しません。勿論農薬等は一切使いません。<br />
　農薬を使いませんと、収穫は3割ぐらい減るのではと思いますが確かではありません。<br />
<br />
　脱穀したお米は、一袋に40㎏を詰めて、牛は使わないで、一人一人が方に担いで、3キロ半の道のりを歩いて村に帰ります。<br />
　私ですと、30㎏でも、持ちあがらないと思います。20㎏でも、歩けないと思います。<br />
<br />
　どれほど、凄い労働であるか、【天空の棚田に生きる】をご覧ください。<br />
食べている物は、米が主食です。村の周りに栽培している<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%87%8E%E8%8F%9C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">野菜</a>はあります。タンパク源は、先ほど、書きました鯉とタニシがありますが、外に鶏と豚がありました。これは、タンパク質と云うよりは、人間が、食べ残したものや排せつ物の処理、こぼれた食物を浚えてくれる動物です。この動物の汚物は、田に還元されます。<br />
　養豚とか養鶏という感じはありませんでした。<br />
　一日に出来る稲刈りは、その日のうちに、お米を運ばないといけないので、一日に出来る稲刈りは、40㎏の袋で、10袋だそうです。一日に何往復するのかは、忘れました。<br />
<br />
　こうした風景は、どこから眺めても、みることは出来ませんから、ＮＨＫでは、ハング<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">グライダー</a>で、滑空して貰って<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%92%AE%E5%BD%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">撮影</a>をしていました。<br />
<br />
　如何ですか、私の記憶違いがあるかも知れません。自分の目で確かめてください。<br />
<br />
　映像見た限りでは、長生きをするどころか、短命であったのは、確かであると思いたいところです。<br />
<br />
　次回、続きを書いて、やはり長生きされたのではという　強引な理屈を書いて見ようと思います。<br />
<br />
<br />
<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-04"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（107）魏志倭人伝（58）　邪馬壹国は、何所に（54）邪馬壹国(13)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-04</link>  
    <description><![CDATA[<p>タイトルの三角縁神獣鏡と魏志倭人伝と、邪馬壹国は何所にと邪馬壹国とは、どのような関係があると思われますか。　初めに、歴史各論と書いています。日本の歴史の流れは、追いかけて、7~8年になります。古代の事で、記録に残っている者のうち、信用がおけるのは、日本書紀と古事記だけではないかと考えるようになりました。　日本書紀と古事記と書きましたが、この二冊の書物と外国の記録、例えば魏志倭人伝と三国史記を組み合わせますと、日本の古代史が、浮かび上って来たように思っています。　日本書紀と古事記は、殆ど、同じことが書いてあると思っておられる方が多いように思われます。一見そのように見えますが、一つずつ丁寧に読み比べていきますと、偽書と思われている古事記には、本当の事が書いてあり、一方の日本書紀には、どの様に考えても、不思議なことが一杯です。　例えば、日本書紀には、大国主神を祀る、出雲大社のことは記されていません。大物主が祀られている大神神社の事は、書いてありますが、訳の分らないことが書いてあります。　　この二社は、知らない人はないほど、有名ですが、学者と云えども、どなたも口出しはされていません。メディアの人も、どの会社も説明はしません。　その外に、有名な所では、奈良の春日大社、石上神宮、伊勢神宮なども同様です。　どうして、研究をされないのでしょう。　そのようなことはないと思います。研究はされましたが、大まかな日本の歴史からは、遠ざかっておられます。　日本の歴史の大きな流れは、ほぼ、確定したような気になっています。本人が思っているだけです。　このブログは、書き始めて７年になります。　スタートは、はじめまして　nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-05-28　です。　　多くの方に読んで頂いていますが、続けて、〔お前の言う通りだ〕と云って貰える方は、ゼロに近いと思います。　そこで、総論は、止めにして、各論を書く気になっています。その第一回目は、三角縁神獣鏡を詳しく眺めることによって、三角縁神獣鏡が登場した時の日本は、どの様なようすであったかを眺める気になりました。三角縁神獣鏡は、どのような鏡かと云いますと、魏志倭人伝に、卑弥呼が100の鏡を皇帝から貰ったと書いてあります。本当は、貰っていないと思うのですが、貰ったと思っておられる方が多すぎと思います。　専門家のかたも、殆どそうだと思います。この間違いを知って頂くた..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-05-04T03:34:31+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>の三角縁神獣鏡と魏志倭人伝と、邪馬壹国は何所にと邪馬壹国とは、どのような関係があると思われますか。<br />
<br />
　初めに、歴史各論と書いています。日本の歴史の流れは、追いかけて、7~8年になります。<br />
古代の事で、記録に残っている者のうち、信用がおけるのは、日本書紀と古事記だけではないかと考えるようになりました。<br />
　日本書紀と古事記と書きましたが、この二冊の書物と<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A4%96%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">外国</a>の記録、例えば魏志倭人伝と三国史記を組み合わせますと、日本の古代史が、浮かび上って来たように思っています。<br />
<br />
　日本書紀と古事記は、殆ど、同じことが書いてあると思っておられる方が多いように思われます。一見そのように見えますが、一つずつ丁寧に読み比べていきますと、偽書と思われている古事記には、本当の事が書いてあり、一方の日本書紀には、どの様に考えても、不思議なことが一杯です。<br />
　例えば、日本書紀には、大国主神を祀る、出雲大社のことは記されていません。大物主が祀られている大神神社の事は、書いてありますが、訳の分らないことが書いてあります。　<br />
　この二社は、知らない人はないほど、有名ですが、学者と云えども、どなたも口出しはされていません。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">メディア</a>の人も、どの会社も説明はしません。<br />
　その外に、有名な所では、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A5%88%E8%89%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">奈良</a>の春日大社、石上神宮、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">伊勢神宮</a>なども同様です。<br />
　どうして、研究をされないのでしょう。　そのようなことはないと思います。研究はされましたが、大まかな日本の歴史からは、遠ざかっておられます。<br />
<br />
　日本の歴史の大きな流れは、ほぼ、確定したような気になっています。本人が思っているだけです。　このブログは、書き始めて７年になります。<br />
　スタートは、はじめまして　<a href="nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-05-28" target="_blank">nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-05-28</a>　です。<br />
　<br />
　多くの方に読んで頂いていますが、続けて、〔お前の言う通りだ〕と云って貰える方は、ゼロに近いと思います。<br />
　そこで、総論は、止めにして、各論を書く気になっています。<br />
その第一回目は、三角縁神獣鏡を詳しく眺めることによって、三角縁神獣鏡が登場した時の日本は、どの様なようすであったかを眺める気になりました。<br />
<br />
三角縁神獣鏡は、どのような鏡かと云いますと、魏志倭人伝に、卑弥呼が100の鏡を皇帝から貰ったと書いてあります。本当は、貰っていないと思うのですが、貰ったと思っておられる方が多すぎと思います。<br />
<br />
　専門家のかたも、殆どそうだと思います。この間違いを知って頂くために、魏志倭人伝に書いてある卑弥呼の事、邪馬壹国のことを書いてきました。<br />
　結論だけを書きますと、<br />
①三角縁神獣鏡は、当初は、魏の国から、日本に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%B4%BE%E9%81%A3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">派遣</a>された部下に支給された鏡である。其の後、魏の国からの支給品が届けることが出来なくなり、日本書紀国内で<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%A3%BD%E9%80%A0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">製造</a>されることになりました。三角縁神獣鏡には同氾鏡があり、多くの鏡を所持している者を中心に、中国人のいくつかのグループがあったと考えています。<br />
<br />
②魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は、いろいろの事を勘案しますと、崇神天皇の妹で、西暦150年から248年頃まで生きた人と思われます。邪馬壹国の女王ではなく、卑弥呼は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B2%A1%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">岡山</a>県にあった邪馬壹国と福知山の間を行き来していたと思われます。<br />
　卑弥呼の役目は、外国からやって来る人を受け入れる接待掛と天照大御神をお祀りする役目でした。<br />
　<br />
③魏志倭人伝が記す、末廬国は、出雲の松江の所です。邪馬壹国は、岡山県の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%AF%BA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">西大寺</a>の格です。<br />
<br />
　このようなことを書くものですから、どなたも、馬鹿らしいと思われるのだと思います。<br />
　上に書きました卑弥呼の年令は、ほぼ、間違いないと考えています。１００才近かった筈です。兄の崇神天皇も、１００才を超えていたと考えています。<br />
　崇神天皇に至っては、日本書紀にかいてあることから、計算しますと、168才になります。<br />
　しかし、この年齢は、日本書紀が、60才プラスして、古事記の干支と合うようにしたと思われます。崇神天皇だけではなく、超高齢の天皇は、60才を減らしますと、すべて、辻褄が合うことになります。<br />
　<br />
　天皇に限らず、一般の人でも、100才近く生きられる方が多かったのではないかと無理矢理こじつけて書いています。<br />
<br />
　ところで、ＮＨＫの棚田に生きる】の映像をご覧になりましたか。はなしは、途中で切れたままですので、次回は、続きを書きます。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
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    <dc:date>2012-05-04T03:34:31+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（106）魏志倭人伝（57）　邪馬壹国は、何所に（53）邪馬壹国(12)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29</link>  
    <description><![CDATA[<p>平成24年2月5日にNHKから【天空の棚田に生きる】が放映されました。タイトルから分るように、天空まで届くほどに作られた棚田に生きるハニ族の人たちの生活を放送していました。　この放送は、文章では伝えることは出来ません。ＮＨＫに依頼すれば、送って貰えますが、4000円ぐらいかかるのではと思います。図書館にあるかも知れません。無ければ、依頼すれば購入してもらえるのではないでしょうか。　放送のなかでも、述べられていましたが、ハニ族の人たちは、漢字のような文字は持っていなかったらしいです。その為に、農業の方法などは、歌で伝えられていたそうですが、歴史が判っていません。1300年ほど前から住んでいたことは判っているそうです。では、1400年前は住んでいなかったのかといいますと、判らないらしいです。ここへ来る前は、チベットに居たとのことですが、精しい内容はありませんでした。　私は、2000年ほど前から住んでいたのではと・・・・・。　棚田の低いところは、聞き漏らしましたが、高いところは、標高1800ｍ。私の近くに見える六甲山は、960ｍですから、倍の高さです。　岡山県のヒルゼン高原には、雲南省の苗族の人たちがやって来て、ヒルゼン高原に高天原を築いたのではと考えています。ヒルゼン高原の山の高さは、　上蒜山（1202m）・中蒜山（1123m）・下蒜山（1100m）です。彼名は、どれほど高い所で、稲作をしているかを見せてくれます。　日本にやって来た苗族の人たちは、全国に散らばりました。ヒルゼン高原には、棚田はなかったのではと思っています。現在、日本に残っている棚田は、このハニ族の人が伝えたのではと思っています。　ヒルゼン高原にやって来た人たちが、稲が育たず、逃げ出したと考えていますが、若し、ハニ族の人達でしたら、　中蒜山（1123m）の麓の上福田は、515ｍぐらいですから、稲作には成功していたと思われます。　どうして、ハニ族や苗族の人がやって来たかと質問されそうですが、【天空の棚田に生きる】を見れば一目でわかります。日本人とそっくりです。　ハニカミヤさんが多いのも特徴です。　収穫されたお米は、ジャポニカ種ですが、それが映像からは分りません。日本では普通は、お米は炊きますが、ここでは蒸していました。このようなことも、丁寧に見てください。　【天空の棚田に生きる】の事は、なにからお伝えすればいいのか、迷います。　低い所から高い所まで、全て..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-04-29T02:25:09+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
平成24年2月5日にNHKから【天空の棚田に生きる】が放映されました。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>から分るように、天空まで届くほどに作られた棚田に生きるハニ族の人たちの生活を放送していました。<br />
<br />
　この放送は、文章では伝えることは出来ません。ＮＨＫに依頼すれば、送って貰えますが、4000円ぐらいかかるのではと思います。図書館にあるかも知れません。無ければ、依頼すれば購入してもらえるのではないでしょうか。<br />
<br />
　放送のなかでも、述べられていましたが、ハニ族の人たちは、漢字のような文字は持っていなかったらしいです。その為に、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%BE%B2%E6%A5%AD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">農業</a>の方法などは、歌で伝えられていたそうですが、歴史が判っていません。1300年ほど前から住んでいたことは判っているそうです。では、1400年前は住んでいなかったのかといいますと、判らないらしいです。ここへ来る前は、チベットに居たとのことですが、精しい内容はありませんでした。<br />
　私は、2000年ほど前から住んでいたのではと・・・・・。<br />
<br />
　棚田の低いところは、聞き漏らしましたが、高いところは、標高1800ｍ。私の近くに見える六甲山は、960ｍですから、倍の高さです。<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B2%A1%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">岡山</a>県のヒルゼン高原には、雲南省の苗族の人たちがやって来て、ヒルゼン高原に高天原を築いたのではと考えています。<br />
ヒルゼン高原の山の高さは、　上蒜山（1202m）・中蒜山（1123m）・下蒜山（1100m）です。彼名は、どれほど高い所で、稲作をしているかを見せてくれます。<br />
<br />
　日本にやって来た苗族の人たちは、全国に散らばりました。ヒルゼン高原には、棚田はなかったのではと思っています。現在、日本に残っている棚田は、このハニ族の人が伝えたのではと思っています。<br />
　ヒルゼン高原にやって来た人たちが、稲が育たず、逃げ出したと考えていますが、若し、ハニ族の人達でしたら、　中蒜山（1123m）の麓の上福田は、515ｍぐらいですから、稲作には成功していたと思われます。<br />
<br />
　どうして、ハニ族や苗族の人がやって来たかと質問されそうですが、【天空の棚田に生きる】を見れば一目でわかります。日本人とそっくりです。　ハニカミヤさんが多いのも特徴です。<br />
　収穫されたお米は、ジャポニカ種ですが、それが映像からは分りません。日本では普通は、お米は炊きますが、ここでは蒸していました。このようなことも、丁寧に見てください。<br />
<br />
　【天空の棚田に生きる】の事は、なにからお伝えすればいいのか、迷います。<br />
　低い所から高い所まで、全てが揃って始めて、この集落は成り立っています。山の上から森林・集落・棚田と縦に並んでいます。棚田には、一年中、水が張られていて、稲刈の<br />
時だけ、水位は下げられます。この水は、一番上の森林に降った雨で賄われています。住居は、棚田の上にありますから、生活水は、全て、棚田に流れる仕組みになっています。<br />
　田の中には、鮒やどじょうなどが飼われており、貴重なタンパク源となっています。<br />
<br />
　日本の棚田のある集落は、低い所にあり、棚田は、その上にあります。どちらにしても、稲を作るには、上下に移動する必要がありますが、住宅が上にありますと、戦争になり、村ごと奪われたとしても、その村を占拠した人達は、このような高い所では、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">食べる</a>ものも無いし、水も無いことになります。即ち、生きていけないことになります。<br />
　ＮＨＫは、このような視点では取材をしていませんでしたが、きっと、村の周りには、村を守る城壁のようなものは無かったのではないかと想像しています。<br />
<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%A9%B1%E9%A1%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">話題</a>があちこちに飛びますが、天皇が住まわれたところでは、外敵から守る壁や濠は、後世ではありますが、始めの頃は無かったのではないかと・・・。<br />
　平城京は、壁は復元されていますから、行かれた時は、ご覧ください。防御の働きはありません。いくらでも乗り越えることができるような代物です。<br />
<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%BD%90%E8%B3%80&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">佐賀</a>県の吉野ケ里遺跡では、環濠があり防御が完璧であるから、邪馬台国であると騒がれましたが、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%90%89%E9%87%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">吉野</a>ヶ里遺跡に居た人は、苗族の人ではなくて中国人の集落だと思います。<br />
　いわゆる環濠集落は、日本のあちこちで見つかっています。<br />
<br />
環濠集落　<a href="http://homepage1.nifty.com/o-mino/page230.html" target="_blank">http://homepage1.nifty.com/o-mino/page230.html</a>　すべて、調べますと、大半は中国人のものであることが判るのではと推理しています。推理と云うことは、調査が完成すれば、予想通りになる筈と云うことです。<br />
　環濠集落は400以上、三角縁神獣鏡は、500枚近く、銅鐸も500個近く、どれもこれも、500個になってきます。<br />
<br />
　脱線でした。本日は、日本人は、昔は長生きをしていた。100才以上生きていた証拠として、<br />
【天空の棚田に生きる】のことを書いています。<br />
<br />
　これまでの所、長生きらしい話題は出てきません。<br />
　本日は、これぐらいにして、次回にしたく思いますが、それまでに、私の余計な話など、頭に入れないで、【天空の棚田に生きる】を見ておいてください。<br />
<br />
ただ、見終わった後に、ハニ族の人は、なるほど、長生きされるだろうと思われるかどうかです。<br />
　ＮＨＫのスタッフは、ハニ族の人には、何才までいきられますかというような失礼な質問はしておられません。老人の映像も撮っておられません。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-26"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（105）魏志倭人伝（56）　邪馬壹国は、何所に（52）邪馬壹国(11)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-26</link>  
    <description><![CDATA[<p>現在より、古代の方が長生きをしていたのではないかと考えるようになったのは、最近です。しかし、10年ほど前に、江戸時代は意外と長生きをしていたのではないかと思うことがありました。大阪の北に、豊能町があります。歴史に興味を持った時に、古文書読む会があり、いろいろ見る機会がありました。その中に、各家庭の人員構成・田畑の広さ・田畑の等級などが書いてあるものがあり、これは、面白いと思って、全部お借りしてコピーしました。コピーの時間だけでも、相当かかりましたので、何時かは分析しようと思っていました。先日、分析しようと思いましたが、どこに片づけたのか分かりません。　と云う次第で、肝心の時に、役立ちません。　どうして、コピーする気になったかと云いますと、これは、税金を取り立てる時の、税務台帳の様なものでした。分析していませんから、なにも判っていませんが、殆どの家では、親子3代が生活していました。あまり、自分たちの村からは、出ることは無かったのではないかと思いました。お米の取れ高だけが書いてあるのですが、何故か、生活が豊かであるように感じられました。江戸時代の歴史の知識は、ゼロに近いのですが、何故か、江戸時代は、8代ぐらいから、次第に幕府の財政が駄目になったように理解していましたが、どのように悪くなっていったかは知りません。今の日本ではありませんが、国の収入よりも支出が多かったということでしょうか。国の収入となりますと、当時は、鎖国をしていたようですから、税収が、国の収入の大半を占めていた筈です。と云うことは、次第に税収が減って来たと考えるかです。どは、どうして、収入が減って来たかです。このことは、現在の歴史家は解明しておられません。稲作を中心にした生活は、紀元前からありました。直播であった農業の技術は次第に改良され、収穫は増えて行ったと思われます。なのに、どうして、コメの収穫は減ったのか。このことを調べるのは、大変です。私が、ここ12年、いろいろの所へ行き、見て聞いたところでは、江戸の最後頃には、全国的に、絹の生産が、半分ぐらい占めていたのではないかと想像しています。絹の生産は、全国的でしたが、中でも関東は抜きんでていたのではと想像するだけです。記録がありません。(記録はありませんが、古墳が一杯あります)　千葉、群馬の人たちは、但馬に移動してきました。従いまして、但馬は、稲作と絹の生産で、豊かな地域だったと思うのですが、享保元年..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-04-26T03:25:45+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
現在より、古代の方が長生きをしていたのではないかと考えるようになったのは、最近です。しかし、10年ほど前に、江戸時代は意外と長生きをしていたのではないかと思うことがありました。<br />
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A4%A7%E9%98%AA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">大阪</a>の北に、豊能町があります。歴史に興味を持った時に、古文書読む会があり、いろいろ見る機会がありました。その中に、各家庭の人員構成・田畑の広さ・田畑の等級などが書いてあるものがあり、これは、面白いと思って、全部お借りして<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">コピー</a>しました。<br />
コピーの時間だけでも、相当かかりましたので、何時かは分析しようと思っていました。<br />
先日、分析しようと思いましたが、どこに片づけたのか分かりません。<br />
<br />
　と云う次第で、肝心の時に、役立ちません。<br />
　<br />
どうして、コピーする気になったかと云いますと、これは、税金を取り立てる時の、税務台帳の様なものでした。分析していませんから、なにも判っていませんが、殆どの家では、親子3代が生活していました。<br />
あまり、自分たちの村からは、出ることは無かったのではないかと思いました。お米の取れ高だけが書いてあるのですが、何故か、生活が豊かであるように感じられました。<br />
江戸時代の歴史の知識は、ゼロに近いのですが、何故か、江戸時代は、8代ぐらいから、次第に幕府の財政が駄目になったように理解していましたが、どのように悪くなっていったかは知りません。今の日本ではありませんが、国の収入よりも支出が多かったということでしょうか。<br />
国の収入となりますと、当時は、鎖国をしていたようですから、税収が、国の収入の大半を占めていた筈です。と云うことは、次第に税収が減って来たと考えるかです。<br />
どは、どうして、収入が減って来たかです。<br />
このことは、現在の歴史家は解明しておられません。<br />
稲作を中心にした生活は、紀元前からありました。直播であった<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%BE%B2%E6%A5%AD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">農業</a>の技術は次第に改良され、収穫は増えて行ったと思われます。なのに、どうして、コメの収穫は減ったのか。<br />
<br />
このことを<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%AA%BF%E3%81%B9%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">調べる</a>のは、大変です。<br />
私が、ここ12年、いろいろの所へ行き、見て聞いたところでは、江戸の最後頃には、全国的に、絹の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%94%9F%E7%94%A3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">生産</a>が、半分ぐらい占めていたのではないかと想像しています。<br />
<br />
絹の生産は、全国的でしたが、中でも<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%96%A2%E6%9D%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">関東</a>は抜きんでていたのではと想像するだけです。記録がありません。(記録はありませんが、古墳が一杯あります)　千葉、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%BE%A4%E9%A6%AC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">群馬</a>の人たちは、但馬に移動してきました。<br />
従いまして、但馬は、稲作と絹の生産で、豊かな地域だったと思うのですが、享保元年(1716年)の野間村の年貢率は、7割5分です。　元文元年(1736)の年貢率は、7割9分です。<br />
『和田山町の歴史　1』22ページには、元和4年(1618)から、起った百姓一揆のすべてが掲載されています。総数46件です。<br />
<br />
日本中で、状態の悪かったのは、和田山町だけでしょうか。元和4年(1618)から150年後には、江戸幕府が崩壊します。　その後、僅かの間に、日本は、ロシア艦隊を打ち破ることになります。<br />
　この間の歴史は、戦のことは語られていますが、経済の事は、誰も語っていません。<br />
<br />
　紀元前後の人は、長命であったことを書こうと思いながら、又、別の事を書いてしまいました。<br />
　話は、飛びますが、次回は、2月5日に放映された【天空の棚田に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">生きる</a>】のことを書いて見ようと思います。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-21"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（104）魏志倭人伝（55）　邪馬壹国は、何所に（51）邪馬壹国(10)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-21</link>  
    <description><![CDATA[<p>タイトルは、邪馬壹国(10)です。　邪馬台国は、どこにあったか判らないのですが、九州の方は、九州にあったと思っておられます。関西の方は、奈良の桜井市にあるといわれている纏向遺跡がそうだろうと思っておられます。　関西の方はと書きましたが、奈良の方はと書いた方が正しいかも知れません。次の文は、2012年4月5日の読売新聞の夕刊に掲載されたものです。　【纒向研究拠点が開所】邪馬台国の有力候補地とされる纒向（まきむく）遺跡(奈良県桜井市)を調査・研究する「桜井市纒向学研究センター」が同市東田(ひがいだ)で開所し、５日、式典が行われた。同センターを拠点に発掘調査を進め、遺物の展示、大型建物跡の復元などを行う。　大和王権発祥地の地ともされる同遺跡は3～4世紀の都市とされ、2009年に宮殿とみられる大型建物跡(3世紀中頃)が出土。しかし調査を終えたのは東西2キロ、南北1.5キロのうちまだ5％で、同センターは、調査範囲の拡大にも取り組む。　新聞では、僅か、一行12字で17行の文章ですから、200字ほどの記事です。他の新聞では、写真も掲載し、内容はもっと、多いです。読売新聞は、纒向遺跡が邪馬台国の有力候補地と記していますが、「桜井市纒向学研究センター」を設立された方は、間違いないと思われているのでしょう。　その証拠となるものが、〔2009年に宮殿とみられる大型建物跡(3世紀中頃)が出土〕ち記事には、書いてありますが、これは、卑弥呼が住んでいた建物、即ち、宮殿と思われています。　この辺り一帯は、崇神天皇を挟んだ天皇の御陵があることになっていますが、これらは、全部証拠がないことになっていて、崇神天皇のお墓は、行燈山古墳　と呼ばれ、崇神天皇御陵と云ってはいけないことになっています。それどころか、崇神天皇は存在したらしいが、その前の9人の天皇は、作られた天皇であろうとなっています。　いっぱい、御陵とか、資料がある天皇が、存在しなかったのに、魏志倭人伝に書いてある卑弥呼は、纒向遺跡に住んでいたことになり、そのことを立証するために、今後、調査を終えたのは東西2キロ、南北1.5キロの範囲の内、5％だけである。そこで、残る95％を発掘して、ここに、邪馬壹国があったことを立証しようとのことです。　これは、此れでいいのですが、仮に、纒向遺跡のところが、邪馬壹国の中心地であったことが判ったとします。末廬国、不弥国、奴国、伊都国は、邪馬壹国より北にあるこ..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-04-21T08:19:26+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>は、邪馬壹国(10)です。<br />
　邪馬台国は、どこにあったか判らないのですが、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>の方は、九州にあったと思っておられます。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%96%A2%E8%A5%BF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">関西</a>の方は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A5%88%E8%89%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">奈良</a>の桜井市にあるといわれている纏向<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%81%BA%E8%B7%A1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">遺跡</a>がそうだろうと思っておられます。<br />
　関西の方はと書きましたが、奈良の方はと書いた方が正しいかも知れません。次の文は、2012年4月5日の読売新聞の夕刊に掲載されたものです。<br />
<br />
　【纒向研究拠点が開所】<br />
邪馬台国の有力候補地とされる纒向（まきむく）遺跡(奈良県桜井市)を調査・研究する「桜井市纒向学研究センター」が同市東田(ひがいだ)で開所し、５日、式典が行われた。<br />
同センターを拠点に発掘調査を進め、遺物の展示、大型建物跡の復元などを行う。<br />
　大和王権発祥地の地ともされる同遺跡は3～4世紀の都市とされ、2009年に宮殿とみられる大型建物跡(3世紀中頃)が出土。しかし調査を終えたのは東西2キロ、南北1.5キロのうちまだ5％で、同センターは、調査範囲の拡大にも取り組む。<br />
<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%96%B0%E8%81%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">新聞</a>では、僅か、一行12字で17行の文章ですから、200字ほどの記事です。<br />
他の新聞では、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%86%99%E7%9C%9F&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">写真</a>も掲載し、内容はもっと、多いです。読売新聞は、纒向遺跡が邪馬台国の有力候補地と記していますが、「桜井市纒向学研究センター」を設立された方は、間違いないと思われているのでしょう。<br />
　その証拠となるものが、〔2009年に宮殿とみられる大型建物跡(3世紀中頃)が出土〕ち記事には、書いてありますが、これは、卑弥呼が住んでいた建物、即ち、宮殿と思われています。<br />
<br />
　この辺り一帯は、崇神天皇を挟んだ天皇の御陵があることになっていますが、これらは、全部証拠がないことになっていて、崇神天皇のお墓は、行燈山古墳　と呼ばれ、崇神天皇御陵と云ってはいけないことになっています。それどころか、崇神天皇は存在したらしいが、その前の9人の天皇は、作られた天皇であろうとなっています。<br />
<br />
　いっぱい、御陵とか、資料がある天皇が、存在しなかったのに、魏志倭人伝に書いてある卑弥呼は、纒向遺跡に住んでいたことになり、そのことを立証するために、<br />
今後、調査を終えたのは東西2キロ、南北1.5キロの範囲の内、5％だけである。そこで、残る95％を発掘して、ここに、邪馬壹国があったことを立証しようとのことです。<br />
<br />
　これは、此れでいいのですが、仮に、纒向遺跡のところが、邪馬壹国の中心地であったことが判ったとします。末廬国、不弥国、奴国、伊都国は、邪馬壹国より北にあることになりますから、立証するには、奈良中を掘りまくらなければなりません。<br />
<br />
　　どうして、このような発想で、「桜井市纒向学研究センター」の設立になるのか判りません。<br />
　残っている資料を利用しようとしますと、余りにも、多くの天皇が生きておられた年数が多すぎるために、資料は当てにならない。そこで、考古学から解明しようと思われているのでしょうか。<br />
　<br />
　神武天皇から応神天皇辺りまでは、あまりにも、享年が高すぎます。　しかし、現在は、男性の最高齢が、115才になられたばかりです。<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%8C%BB%E5%AD%A6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">医学</a>の進んだ現在ですから、115才です納得できるかも知れません。今から2000年も前ですと、現在より早く死ぬように思われます。崇神天皇は、特に高齢すぎます。<br />
<br />
年令のことは、横に置くこととして、「桜井市纒向学研究センター」の方は、邪馬壹国は、どれぐらいの広さだと考えておられるのでしょう。但馬国ぐらいの広さはあったのでしょうか。<br />
<br />
この様なことを考えていますと、やはり、2～3世紀は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%AB%98%E9%BD%A2%E8%80%85&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">高齢者</a>が多かったと説明しないことには、日本史は、益々謎が深まります。<br />
<br />
今、考えているのですが、400字ぐらいの文章では書ききれないなと、外の事を書いています。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://rss.rssad.jp/rss/ad/.VYAy4Kx0EQp/_dvCjy.mR5o7?type=2&amp;ent=dc4cc986aa2a3998c2e59c0c8964c5d8">
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    <description><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/.VYAy4Kx0EQp/_dvCjy.mR5o7?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/.VYAy4Kx0EQp/_dvCjy.mR5o7?type=3&ent=dc4cc986aa2a3998c2e59c0c8964c5d8"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > あなたのペースで婚活スタート☆簡単無料診断で理想のお相手のプロフをプレゼント中 </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></description>
    <dc:date>2012-04-21T08:19:26+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-18"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（103）魏志倭人伝（54）　邪馬壹国は、何所に（50）邪馬壹国(9)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-18</link>  
    <description><![CDATA[<p>以前に何回か見て頂いたと思います。タイトルは少しおかしいですが、【歴代天皇家年表】と云います。　私の外のブログの「おかしな世の中」のhttp://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.htmlに掲載しています。　この表は、私が制作したものではなく、田村誠一氏が作られたものです。　古事記では、いつ亡くなられたかは書いてありませんが、何人かの天皇は、亡くなられた時の干支が書かれています。干支は、正しいとし、天皇は、平均21才の時に、皇太子をお生みになったとして、年表を作成しておられます。　其の為に、多くの天皇の誕生日は、推定になっています。天皇は、平均21才の時に、皇太子をお生みになったのではなく、22才にしても、19歳にしても、全体の数字にはあまり影響を与えません。　9名の高齢の天皇が浮かび上ります。　日本書紀の作者は、古事記に書いてあることは、間違っているように見せるために、9名の天皇の崩御の都市に細工をしました。古事記に書いてある干支と狂わないように、60才多く書いた考えて、田村氏は、修正をされました。　そうしますと、高齢すぎる天皇が、常識と思われる年齢に修正されました。　　このように修正をしますと、10代までの天皇は、辻褄が合わないから、実在しなかったと云われる方が居られますが、欠史10代と呼ばれた天皇は、実在していたと考えても良いことになります。　これほど狂わしたにも関わらず、長い間、おかしいなと誰にも思われなかったということは、実際には孝霊天皇ぐらいの年令の人が大勢いたのではと推理しました。　前回と同じようなことを書きましたが、【歴代天皇家年表】は、殆ど、見て頂けませんでしたので、もう一度書いて見ました。</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-04-18T09:11:08+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
以前に何回か見て頂いたと思います。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>は少しおかしいですが、【歴代天皇家年表】と云います。<br />
　私の外のブログの「おかしな世の中」の<a href="http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.html" target="_blank">http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.html</a><br />
に掲載しています。<br />
　この表は、私が制作したものではなく、田村誠一氏が作られたものです。<br />
　古事記では、いつ亡くなられたかは書いてありませんが、何人かの天皇は、亡くなられた時の干支が書かれています。<br />
干支は、正しいとし、天皇は、平均21才の時に、皇太子をお生みになったとして、年表を作成しておられます。<br />
　其の為に、多くの天皇の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%AA%95%E7%94%9F%E6%97%A5&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">誕生日</a>は、推定になっています。天皇は、平均21才の時に、皇太子をお生みになったのではなく、22才にしても、19歳にしても、全体の数字にはあまり影響を与えません。<br />
　9名の高齢の天皇が浮かび上ります。　日本書紀の作者は、古事記に書いてあることは、間違っているように見せるために、9名の天皇の崩御の都市に細工をしました。古事記に書いてある干支と狂わないように、60才多く書いた考えて、田村氏は、修正をされました。<br />
　そうしますと、高齢すぎる天皇が、常識と思われる年齢に修正されました。<br />
　<br />
　このように修正をしますと、10代までの天皇は、辻褄が合わないから、実在しなかったと云われる方が居られますが、欠史10代と呼ばれた天皇は、実在していたと考えても良いことになります。<br />
<br />
　これほど狂わしたにも関わらず、長い間、おかしいなと誰にも思われなかったということは、実際には孝霊天皇ぐらいの年令の人が大勢いたのではと推理しました。<br />
<br />
　前回と同じようなことを書きましたが、【歴代天皇家年表】は、殆ど、見て頂けませんでしたので、もう一度書いて見ました。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://rss.rssad.jp/rss/ad/.VYAy4Kx0EQp/tMM79I0wo4se?type=2&amp;ent=f527349095a48d34cd30c1b6c357ed42">
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    <description><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/.VYAy4Kx0EQp/tMM79I0wo4se?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://bnr.rssad.jp/rss/img/.VYAy4Kx0EQp/tMM79I0wo4se?type=3&ent=f527349095a48d34cd30c1b6c357ed42"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > 柏の葉キャンパス駅徒歩14分。2つの異なる外観デザイン、全12棟の街並みが誕生！ </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></description>
    <dc:date>2012-04-18T09:11:08+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-14"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（102）魏志倭人伝（53）　邪馬壹国は、何所に（49）邪馬壹国(8)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-14</link>  
    <description><![CDATA[<p>邪馬壹国と云う国が、日本にあったとことは、誰もが信用しているのに、日本の歴史書である古事記にも、日本書紀にも書いてありません。　邪馬壹国のことが書いてあるのは、中国の歴史書で、魏の国のことが書いてある歴史書の中の日本の事が書いてある『魏志倭人伝』の中に書いてあります。ここには、卑弥呼のことも書いてあります。卑弥呼も不思議なことに日本の歴史書には登場しません。しかし、卑弥呼が死んだ年は、魏志倭人伝から推測しますと、248年になります。　「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬壹国に居住し（女王ノ都トスル所）、鬼道で衆を惑わしていたという（卑彌呼 事鬼道 能惑衆）と書いてあります。　　簡単です。卑弥呼は、魏の国があった時代に、日本のどこかにあった国です。誰がそれを認めたかと云いますと、魏の国の人が、自分が持っていた情報網から得たものであることが判ります。　卑弥呼は、ウィキペディアに拠れば、170年頃 - 248年頃の人とされていますが、私の推察では、160年頃の生まれで、90才近くで亡くなったと考えています。　　卑弥呼は日本の史書には掲載されていませんが、200～248年の頃に、邪馬壹国の女王をしていたということになっています。　同じ頃に、日本には、初代の神武天皇以来、続けて天皇が日本を統治していたことになっています。　160年頃 - ～248年頃までの間、どの天皇の時代であったかを検討します。　天皇が治めていた日本は、「倭国」と呼ばれ、その初代の天皇は、古事記には、神倭伊波礼毘古命と書いてあります。同じ天皇を日本書紀では、神日本磐余彦天皇と記しています。　　日本書紀によると、在位は辛酉年（神武天皇元年）1月1日（紀元前660年2月18日?）～ 神武天皇76年3月11日（紀元前585年4月9日?）とされています。　　神武天皇は、紀元前660年の生まれだとされています。これが正しいとしますと、卑弥呼が女王をしていた200～248年の頃の天皇は、どの天皇だったのでしょう。　計算しやすく、一人の天皇が、100才生きていたとしますと、神武天皇から数えて、900年ぐらいたっていることになります。そうしますと、９代か10代の天皇の頃が、200～248年になるでしょうか。　この計算は、おかしいですね。神武天皇が、100才で死んで、2代の天皇が、次の天皇になって、又、100年天皇であったと考えますと、計算は合っています。　神武天皇が、1..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-04-14T04:40:44+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
邪馬壹国と云う国が、日本にあったとことは、誰もが信用しているのに、日本の歴史書である古事記にも、日本書紀にも書いてありません。<br />
　邪馬壹国のことが書いてあるのは、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>の歴史書で、魏の国のことが書いてある歴史書の中の日本の事が書いてある『魏志倭人伝』の中に書いてあります。ここには、卑弥呼のことも書いてあります。卑弥呼も不思議なことに日本の歴史書には登場しません。しかし、卑弥呼が死んだ年は、魏志倭人伝から推測しますと、248年になります。<br />
　「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬壹国に居住し（女王ノ都トスル所）、鬼道で衆を惑わしていたという（卑彌呼 事鬼道 能惑衆）と書いてあります。<br />
　<br />
　簡単です。卑弥呼は、魏の国があった時代に、日本のどこかにあった国です。誰がそれを認めたかと云いますと、魏の国の人が、自分が持っていた情報網から得たものであることが判ります。<br />
<br />
　卑弥呼は、ウィキペディアに拠れば、170年頃 - 248年頃の人とされていますが、私の推察では、160年頃の生まれで、90才近くで亡くなったと考えています。　<br />
　卑弥呼は日本の史書には掲載されていませんが、200～248年の頃に、邪馬壹国の女王をしていたということになっています。<br />
　同じ頃に、日本には、初代の神武天皇以来、続けて天皇が日本を統治していたことになっています。<br />
　160年頃 - ～248年頃までの間、どの天皇の時代であったかを検討します。<br />
<br />
　天皇が治めていた日本は、「倭国」と呼ばれ、その初代の天皇は、古事記には、神倭伊波礼毘古命と書いてあります。同じ天皇を日本書紀では、神日本磐余彦天皇と記しています。<br />
　<br />
　日本書紀によると、在位は辛酉年（神武天皇元年）1月1日（紀元前660年2月18日?）～ 神武天皇76年3月11日（紀元前585年4月9日?）とされています。<br />
　<br />
　神武天皇は、紀元前660年の生まれだとされています。これが正しいとしますと、<br />
卑弥呼が女王をしていた200～248年の頃の天皇は、どの天皇だったのでしょう。<br />
　計算しやすく、一人の天皇が、100才生きていたとしますと、神武天皇から数えて、900年ぐらいたっていることになります。そうしますと、９代か10代の天皇の頃が、200～248年になるでしょうか。<br />
　この計算は、おかしいですね。神武天皇が、100才で死んで、2代の天皇が、次の天皇になって、又、100年天皇であったと考えますと、計算は合っています。<br />
　神武天皇が、100年生きていても、天皇在位が100年ではありません。神武天皇が、20才の頃には、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%AD%90%E4%BE%9B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">子供</a>が生まれます。神武天皇が、40歳の時には、2代目は、20才になります。<br />
　20才で、天皇の位を引き継ぐとしますと、10代までの天皇の在位の合計は、200年になります。<br />
<br />
　神武天皇が生れた紀元前660年から、卑弥呼が亡くなった240年までは、900年あります。<br />
　先ほどの、20年で天皇の位を譲るとしますと、45代目の天皇が、200～248年頃に当たります。<br />
別に、このようなことでも、いいのですが、魏志倭人伝に拠りますと、日本にあった国々は、邪馬台国だけではありません。天皇が、治める倭国以外に、20を超える国が日本にはあったことになります。<br />
日本の歴史家は、魏志倭人伝も信じ、日本書紀も信じておられます。どちらかに書いてあることが間違っていると考えませんと、辻褄が合いません。<br />
<br />
　この辺りの矛盾を解き明かしておられる方は、ＷＥＢでは見当たりません。<br />
<br />
　魏志倭人伝に書いてあることを元にして、邪馬壹国が何所に有るかを書いてきました。、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B3%B6%E6%A0%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">島根</a>県の松江を末廬国と考えますと、魏志倭人伝に書いてある通りの、方角と距離の所に、全ての国が、収まります。<br />
　これほど、みごとに、一致するということは、魏志倭人伝に書いてあることは、正しいことになります。即ち、日本書紀にかいてある　「在位は辛酉年（神武天皇元年）1月1日（紀元前660年2月18日?）～ 神武天皇76年3月11日（紀元前585年4月9日?）」は、嘘であることが判ります。<br />
<br />
　以前にも書いていますが、崇神天皇だけは、ほぼ、正確にいつ頃の人であるかが、判りますので、書いて見ます。<br />
<br />
ダブりますが、<br />
　次のところにもかいています。<br />
Ｎｏ115　崇神天皇は、紀元200年頃の人<br />
<a href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-20" target="_blank">http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-20</a><br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-10"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（101）魏志倭人伝（52）　邪馬壹国は、何所に（48）邪馬壹国(7)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-10</link>  
    <description><![CDATA[<p>日本書紀では、天皇の享年を高齢に書いてあるのに、誰も、おかしいと思わなかったのは、紀元前後には、120才ぐらいの人は、大勢いたと考えるしかないと書きました。その2は、日本書紀に細工をしただけではなく、古事記にも改ざんを加えたからではないかと思います。では、古事記のどの部分に改ざんをしたのかと云いますと、膨大すぎて判りにくくなっています。日本書紀に細工をした部分は、判り易いです。「一書に曰く」と書かれた部分です。古事記に書かれている部分を、いくつかの「一書に曰く」に分けて書き改めています。日本書紀の形式は、日本書紀以外に、当時、存在した書物には、次のように書いてありますと、多いときには、10冊ぐらいの書物から抜粋したように書いてあります。不思議なことに、古事記と同じものは一切見ることは出来ません。日本書紀では、不思議なことに、読み方は古事記と同じなのに、漢字はすべて、読むことが出来ないような難しい漢字が使われています。田村誠一氏は、「神話にすぎない日本書紀」のタイトルで、6回に分けて書いておられます。私の【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/03/1-d07d.htmlに掲載していますから、読んでください。古事記を改ざんした部分は、「神話にすぎない日本書紀(3)」に於いて、次の箇所だと書いておられます。日本書紀と古事記とで、記述が矛盾していて、しかも完全に一致した天若日子(天雅彦)を葬った場所である。この場所は両書共「美濃の藍見河の河上の喪山といふ山なり」と書かれている。意味はお分かりですか。お葬式が行われた所は、高天原から下った所なのに、「美濃」になっています。　きっと、理解出来ないと思います。高天原は、ヒルゼン高原だったのに、古事記を参考にして、日本書紀を制作する時に、意味が不明になるように、製作しましたから、歴史の学者も全員騙されることになりました。　高天原は、歴史学者だけではなく、日本人、全員が、宮崎県の高千穂という山の天上にあるとしておられます。　山の上と云いますと、宇宙ということになります。　日本書紀を編纂した影の責任者は、藤原不比等だと思われます。712年に発行された古事記は、悉く、没収したと思われていましたが、若し、どこかに残っていたのでは、天皇家は、日本の正当な支配者であったことが判ってしまうので、古事記に書いてあることは、間..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-04-10T10:21:14+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
日本書紀では、天皇の享年を高齢に書いてあるのに、誰も、おかしいと思わなかったのは、紀元前後には、120才ぐらいの人は、大勢いたと考えるしかないと書きました。<br />
<br />
その2は、日本書紀に細工をしただけではなく、古事記にも<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%94%B9%E3%81%96%E3%82%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">改ざん</a>を加えたからではないかと思います。では、古事記のどの部分に改ざんをしたのかと云いますと、膨大すぎて判りにくくなっています。<br />
日本書紀に細工をした部分は、判り易いです。「一書に曰く」と書かれた部分です。古事記に書かれている部分を、いくつかの「一書に曰く」に分けて書き改めています。<br />
日本書紀の形式は、日本書紀以外に、当時、存在した書物には、次のように書いてありますと、多いときには、10冊ぐらいの書物から抜粋したように書いてあります。不思議なことに、古事記と同じものは一切見ることは出来ません。<br />
日本書紀では、不思議なことに、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%AA%AD%E3%81%BF%E6%96%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">読み方</a>は古事記と同じなのに、漢字はすべて、読むことが出来ないような難しい漢字が使われています。<br />
<br />
田村誠一氏は、「神話にすぎない日本書紀」の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>で、6回に分けて書いておられます。<br />
私の【楽しい人生】<a href="http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/03/1-d07d.html" target="_blank">http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/03/1-d07d.html</a><br />
に掲載していますから、読んでください。<br />
<br />
古事記を改ざんした部分は、「神話にすぎない日本書紀(3)」に於いて、次の箇所だと書いておられます。<br />
日本書紀と古事記とで、記述が矛盾していて、しかも完全に一致した天若日子(天雅彦)を葬った場所である。この場所は両書共「美濃の藍見河の河上の喪山といふ山なり」と書かれている。<br />
<br />
意味はお分かりですか。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%81%8A%E8%91%AC%E5%BC%8F&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">お葬式</a>が行われた所は、高天原から下った所なのに、「美濃」になっています。<br />
<br />
　きっと、理解出来ないと思います。高天原は、ヒルゼン高原だったのに、古事記を参考にして、日本書紀を制作する時に、意味が不明になるように、製作しましたから、歴史の学者も全員騙されることになりました。<br />
　高天原は、歴史学者だけではなく、日本人、全員が、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%AE%AE%E5%B4%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">宮崎</a>県の高千穂という山の天上にあるとしておられます。<br />
　山の上と云いますと、宇宙ということになります。<br />
<br />
　日本書紀を編纂した影の責任者は、藤原不比等だと思われます。712年に発行された古事記は、悉く、没収したと思われていましたが、若し、どこかに残っていたのでは、天皇家は、日本の正当な支配者であったことが判ってしまうので、古事記に書いてあることは、間違っていると思わせる細工をしたと考えています。<br />
　ところが、実際には、古事記は、残っていなかったのではないかと推理しています。その古事記が、どうして、400年も後に発見されることになったか、判っていませんが、発見された古事記を眺めていますと、不備なところを見付けたのではないでしょうか。右近衛大将藤原朝臣が手を加えることとなります。<br />
　古事記の改ざんされた所は、「神話にすぎない日本書紀(3)」以下にも、書いてありますから、ご覧ください。<br />
<br />
以上、2回にわたって、日本書紀が作られて以降、どうして、だれもが、騙されてしまうことになったかの要因を二つ挙げて見ました。<br />
<br />
　次回は、本当に、紀元前後には、120才ぐらいの人は、大勢いたという推理が、どうして、そう思うことができるのかを書いて見ようと思います。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://rss.rssad.jp/rss/ad/.VYAy4Kx0EQp/VrMOvoImdFaF?type=2&amp;ent=5b0619d86a42641d5f208be27e20f7f8">
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    <description><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/.VYAy4Kx0EQp/VrMOvoImdFaF?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/.VYAy4Kx0EQp/VrMOvoImdFaF?type=3&ent=5b0619d86a42641d5f208be27e20f7f8"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > ソリッドなデザインに、多彩な機能を凝縮。IXY 1／IXY 3デビュー。 </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></description>
    <dc:date>2012-04-10T10:21:14+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（100）　魏志倭人伝（51）　邪馬壹国は、何所に（47）邪馬壹国(6)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06</link>  
    <description><![CDATA[<p>前回は、10代ぐらいまでの天皇は、100才ぐらいまで生きたのではと考えて見ました。それが、邪馬壹国とどのような関係があるのだと思われたでしょう。　邪馬壹国とは、関係はありません。邪馬壹国は、中国の魏志倭人伝に書いてある国です。日本の資料には残っていないのですが、みなさん間違いなくあった国だと思っておられます。　間違いなくあったのであれば、どの辺りにあったのか。それは、どれぐらいの広さのくにであったかぐらいの事は、判っていて当然です。　私のような素人を含めますと、邪馬壹国は九州、四国、岡山(私の意見)、滋賀県(近江八幡)、奈良県などなどです。一番有力な説は、九州のようです。佐賀県で、吉野ヶ里遺跡が発掘された時は、此処が、邪馬壹国と発掘された方や、新聞社が、ほぼ決定の様に書かれました。そのように書いてある本を二冊購入しました。　なぜ騒がれたかと云いますと、魏志倭人伝に書いてあった環濠などをはじめとして、全部揃っていると云われました。　本当は、そうではなく、吉野ヶ里遺跡が邪馬壹国を彷彿させるに十分な広さがあったからだと思いました。　ほとぼりが冷めた頃に、訪れました。折角、遠くまで行ったのに、がっかりしました。吉野ヶ里は、あまりにも狭かったからです。帰ってから、吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を調べました。http://homepage1.nifty.com/o-mino/page630.html　これらの遺跡は、精しくは調べていませんが、吉野ヶ里遺跡と何等かの関係はあったと思いますが、邪馬壹国ではないと思いました。　中国人のお墓だと思われるものが、見つかっています。　魏志倭人伝には、邪馬壹国は七万戸とあります。吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を合わせますと、これぐらいの人口を養うことが出来ますが、吉野ヶ里遺跡だけでは、無理だと思いました。　七万戸には、何人の人間が住んでいたのかを知るつもりになっています。〔崇神天皇は、享年168才となっていますが、60年を差し引いた108才が本当の享年だという一覧表です〕と書きました。　これは、魏志倭人伝ではなくて、どうやら、日本書紀に書いてあった記事から、計算されたものです。　日本書紀は、720年に完成したことになっています。　今でこそ、168才と書けば、誰も相手にしません。この時に、崇神天皇は、享年168才となっていますが、100才以上の人が、全くいなかったら、日本書紀は、誰にも信用されなかったで..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-04-06T05:22:06+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
前回は、10代ぐらいまでの天皇は、100才ぐらいまで生きたのではと考えて見ました。それが、邪馬壹国とどのような関係があるのだと思われたでしょう。<br />
<br />
　邪馬壹国とは、関係はありません。<br />
<br />
邪馬壹国は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>の魏志倭人伝に書いてある国です。日本の資料には残っていないのですが、みなさん間違いなくあった国だと思っておられます。<br />
　間違いなくあったのであれば、どの辺りにあったのか。それは、どれぐらいの広さのくにであったかぐらいの事は、判っていて当然です。<br />
<br />
　私のような素人を含めますと、邪馬壹国は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9B%9B%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">四国</a>、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B2%A1%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">岡山</a>(私の意見)、滋賀県(近江八幡)、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A5%88%E8%89%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">奈良</a>県などなどです。一番有力な説は、九州のようです。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%BD%90%E8%B3%80&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">佐賀</a>県で、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%90%89%E9%87%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">吉野</a>ヶ里遺跡が発掘された時は、此処が、邪馬壹国と発掘された方や、新聞社が、ほぼ決定の様に書かれました。そのように書いてある本を二冊購入しました。<br />
　なぜ騒がれたかと云いますと、魏志倭人伝に書いてあった環濠などをはじめとして、全部揃っていると云われました。<br />
　本当は、そうではなく、吉野ヶ里遺跡が邪馬壹国を彷彿させるに十分な広さがあったからだと思いました。<br />
　ほとぼりが冷めた頃に、訪れました。折角、遠くまで行ったのに、がっかりしました。<br />
吉野ヶ里は、あまりにも狭かったからです。帰ってから、吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を調べました。<br />
<br />
<a href="http://homepage1.nifty.com/o-mino/page630.html" target="_blank">http://homepage1.nifty.com/o-mino/page630.html</a><br />
　<br />
これらの遺跡は、精しくは調べていませんが、吉野ヶ里遺跡と何等かの関係はあったと思いますが、邪馬壹国ではないと思いました。　中国人のお墓だと思われるものが、見つかっています。<br />
<br />
　魏志倭人伝には、邪馬壹国は七万戸とあります。吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を合わせますと、これぐらいの人口を養うことが出来ますが、吉野ヶ里遺跡だけでは、無理だと思いました。<br />
　七万戸には、何人の人間が住んでいたのかを知るつもりになっています。<br />
<br />
〔崇神天皇は、享年168才となっていますが、60年を差し引いた108才が本当の享年だという一覧表です〕と書きました。<br />
　これは、魏志倭人伝ではなくて、どうやら、日本書紀に書いてあった記事から、計算されたものです。<br />
<br />
　日本書紀は、720年に完成したことになっています。　今でこそ、168才と書けば、誰も相手にしません。この時に、崇神天皇は、享年168才となっていますが、100才以上の人が、全くいなかったら、日本書紀は、誰にも信用されなかったでしょう。日本書紀は、現在でも、読める人は、歴史を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%8B%89%E5%BC%B7&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">勉強</a>している人でも、一人もいないのですから、720年当時は、読める人は、殆どいなかったと思います。それにしても、中国人で一杯でしたから、500人ぐらいの人は、読むことが出来たでしょう。<br />
　<br />
　日本書紀の中で、素人でもおかしいとすぐわかる箇所が、崇神天皇の享年168才でしょう。<br />
　崇神天皇一人ではありません。9人もの、享年を60年ごまかした日本書紀の編集者は、怪しまれずに済んだのでしょうか。<br />
　少しは、変だと思う人もいたでしょうが、延々と、現在までの日本人を誤魔化せたということは、いくつかと要因があったと考えるしかないでしょう。<br />
<br />
　要因その1は、当時は、168才は無理としても、120才ぐらいの人は、大勢いたと考えるしかないと思います。<br />
　ここ数年、日本人の寿命は、年々伸びています。100才を超える人が増えてきました。<br />
　後、10年もしますと、110才を超える人は、増えるのではと考えています。<br />
<br />
次回は、要因その2を書いて見ます。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-03"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（99）　魏志倭人伝（50）　邪馬壹国は、何所に（46）邪馬壹国(5)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-03</link>  
    <description><![CDATA[<p>神武天皇は、初代天皇とされています。いや、そのような天皇はいなかったと説明している歴史家が居られます。その証拠として、10代天皇とされている崇神天皇が、初代天皇だと説を唱えておられる方が居られます。　　本当は、お一人ずつ、本名を書いて、どこがいけないのか、論破しなければなりませんが、お一人に1年かかったとします。100人居られますと、論破するのに、100年かかります。　従いまして、どの学者が間違っておられるかを指摘しても意味がありません。　お一人だけ、例を挙げて書いて見ようと思います。ウィキペディアの崇神天皇の所をご覧ください。　この記事を書かれた方の名前は、書いてありません。私のブログと同じです。全く無責任極まる事例です。　署名なしを非難しておきながら、署名しない私が以下の事を書くのは、矛盾していますが、私の疑問とする部分を書いて見ます。先ず、はじめからの9行です。　崇神天皇（すじんてんのう、開化天皇10年（紀元前148年） - 崇神天皇68年12月5日（紀元前29年1月9日））は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇（在位：崇神天皇元年1月13日（紀元前97年2月17日） - 同68年12月5日（紀元前29年1月9日））。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇（みまきいりびこいにえのすめらのみこと）。また、御肇國天皇（はつくにしらすすめらみこと）と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命（みまきいりひこいにえ）である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。　崇神天皇の所は、数人の方が、討論しながら、得られた結論かもしれません。一番おかしな部分は、太い文字で書かれている　「現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇である」の部分です。誰がこのようなことを認めたのでしょう。私は、はじめに書きました数人の方が認められたのではないかと考えます。とすれば、この9行の文章は、意味が無くなります。　上4行は、『古事記』『日本書紀』に書いてあることから、現代日本の学術上、証明されるということでしょうか。　和風諡号は①『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇（みまきいりびこいにえのすめらのみこと）。また、御肇國天皇（はつくにしらすすめらみこと）と書いてある。②『古事記』では御真木入日子印恵命（みまきいりひこいにえ）です。　①②の事から、現代日本の学術上から言えることは、崇神天..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-04-03T06:34:21+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
神武天皇は、初代天皇とされています。いや、そのような天皇はいなかったと説明している歴史家が居られます。その証拠として、10代天皇とされている崇神天皇が、初代天皇だと説を唱えておられる方が居られます。<br />
　<br />
　本当は、お一人ずつ、本名を書いて、どこがいけないのか、論破しなければなりませんが、お一人に1年かかったとします。100人居られますと、論破するのに、100年かかります。<br />
　従いまして、どの学者が間違っておられるかを指摘しても意味がありません。<br />
<br />
　お一人だけ、例を挙げて書いて見ようと思います。<br />
<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E8.AB.A1.E5.8F.B7.E3.83.BB.E8.BF.BD.E5.8F.B7.E3.83.BB.E7.95.B0.E5.90.8D" target="_blank">ウィキペディアの崇神天皇</a>の所をご覧ください。<br />
　<br />
<br />
この記事を書かれた方の名前は、書いてありません。私のブログと同じです。全く無責任極まる事例です。<br />
<br />
　署名なしを非難しておきながら、署名しない私が以下の事を書くのは、矛盾していますが、私の疑問とする部分を書いて見ます。<br />
先ず、はじめからの9行です。<br />
<br />
　崇神天皇（すじんてんのう、開化天皇10年（紀元前148年） - 崇神天皇68年12月5日（紀元前29年1月9日））は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇（在位：崇神天皇元年1月13日（紀元前97年2月17日） - 同68年12月5日（紀元前29年1月9日））。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇（みまきいりびこいにえのすめらのみこと）。また、御肇國天皇（はつくにしらすすめらみこと）と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命（みまきいりひこいにえ）である。<strong>現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇である</strong>と言われている。<br />
<br />
　崇神天皇の所は、数人の方が、討論しながら、得られた結論かもしれません。<br />
一番おかしな部分は、太い文字で書かれている　「現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇である」の部分です。誰がこのようなことを認めたのでしょう。私は、はじめに書きました数人の方が認められたのではないかと考えます。とすれば、この9行の文章は、意味が無くなります。<br />
　上4行は、『古事記』『日本書紀』に書いてあることから、現代日本の学術上、証明されるということでしょうか。<br />
<br />
　和風諡号は<br />
①『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇（みまきいりびこいにえのすめらのみこと）。また、御肇國天皇（はつくにしらすすめらみこと）と書いてある。<br />
<br />
②『古事記』では御真木入日子印恵命（みまきいりひこいにえ）です。<br />
<br />
　①②の事から、現代日本の学術上から言えることは、崇神天皇が、初代天皇であると云ってもいいだろうという感触が得られます。<br />
<br />
この後、いっぱいの記事がありますが、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">スクロール</a>して、8 関連項目　に移動してください。<br />
1：神武天皇前660-前585 / 2：綏靖天皇前581-前549 / 3：安寧天皇前549-前511 / 4：懿徳天皇前510-前477 / 5：孝昭天皇前475-前393 / 6：孝安天皇前392-前291 / 7：孝霊天皇前290-前215 / 8：孝元天皇前214-前158 / 9：開化天皇前158-前98 / 10：崇神天皇前97-前30 /・・・・<br />
<br />
　この記事はどういうことでしょうか。<br />
神武天皇は、前660-前585 まで生きて居られたということでしょうか。天皇の在位期間でしょうか。<br />
　このような話は、素人でも、誰も認めないと思います。ここに書いてある数字は、日本書紀に書いてある数字を現在の表記の仕方に修正したものだと思われます。<br />
<br />
と云うことは、ウィキペディアの崇神天皇の所を書かれた方は、日本書紀に書いてあることを信用して、日本書紀の歴史を考えようとしておられることが分かります。<br />
<br />
田村誠一氏は、『日本書紀は神話にすぎない』という文章を書いておられます。まだ、全部掲載していませんが、ゆっくり読んでください。<br />
<br />
【おかしな世の中】という私のブログに、田村氏が作られた「歴代天皇家年表」を掲載しています。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">コピー</a>して、ゆっくり眺めてください。天皇家で、長生きされた天皇の小生さ<br />
<a href="http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.html" target="_blank">http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.html</a><br />
<br />
　崇神天皇は、享年168才となっていますが、60年を差し引いた108才が本当の享年だという一覧表です。残念ながら、拍手をされた方は、お一人でした。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">その他</a>の方は、この表の意味が判らなかったか、こんなバカなと思われたか、どちらかだと思います。<br />
<br />
　2000年前に、崇神天皇が108年も生きられたのか、信じられないと思われる方が殆どだと思います。<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%8C%BB%E5%AD%A6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">医学</a>が発達していなかったから、この頃は、108才まで生きたと考えられます。<br />
　70年ほど前は、60才ぐらいで死んでいた人々が、医学が発達したから、最近は、110才まで生きれる様になりましたと考える人が普通の人ですが、私は、それは間違いだろうと考えています。<br />
　その証拠を知るには、110才～110才の方に、どのような人生を送ったか。例えば、どのような食事をして来たか。どのような仕事をして来たか。どのような遊びをしてきたか。どのような<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%8B%89%E5%BC%B7&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">勉強</a>をしたか。　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%B5%90%E5%A9%9A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">結婚</a>をしたか。今でも、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A4%AB%E5%A9%A6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">夫婦</a>二人で生活をしているか。<br />
　だれかに助けてもらいましたか。　一番楽しかった思い出はなんですか。<br />
<br />
　最後に、長生きをしてよかったか。まだ、長生きをしたいと思いますか。<br />
<br />
　全部質問してください。　<br />
　長生きの条件が、浮かびあがってくると思います。<br />
<br />
<br />
　最近は、長生きしたくない人は、自殺をされます。ここ8年間、長生きしたくない人の自殺が増え続いています。一年に、30000人を超えていると思います。<br />
<br />
<br />
　神武天皇は、紀元前52年の誕生で、崩御は、紀元後、25年です。日本書紀のデーターに拠りますと、享年、137年ですが、実際の享年は　77才だったという年表です。<br />
<br />
　神武天皇は、古事記に拠れば、16年間も、戦争を続けて、柏原に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%AE%AE%E5%9F%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">宮城</a>を建てたことになっています。<br />
　これは、西暦紀元元年の事です。今日は、2012年ですから、2012年前に、神武天皇は、始めて、日本を治めたことになります。<br />
　<br />
　西暦元年という数字がハッキリしましたので、崇神天皇の五年も、ハッキリすることになります。と云うことは、神武天皇から開化天皇までは、実在した天皇であることが、立証できることになります。<br />
<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ストレス</a>の多かった神武天皇でも、108年も生きられたということは、一般の人民は、110才ほど生きていたと考えても良いことになります。<br />
<br />
　長生きをしていた古代史は、バラ色の時代だったと思います。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（98）　魏志倭人伝（49）　邪馬壹国は、何所に（45）邪馬壹国(4)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30</link>  
    <description><![CDATA[<p>魏志倭人伝には、末羅国から始まって、邪馬壹国まで沢山の国が書いてあります。その国を治めていた長官と副官の名前が書いてあります。名前なのか、職種なのか判りませんが、誰一人として、このことについて書いておられる方はありません。そして、外には国の人口が書いてあります。少ない方は、伊都国は千余戸、不弥国の千余家、多いところは、奴国の二万戸、投馬国の五万戸、邪馬壹国の七万戸です。　伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です。不弥国の方は、建っている家の数です。伊都国は千余戸の方は、世帯数です。建っている家の数は、だれでも、数えればいいことになります。戸数の方は、どうしてわかったのでしょう。　外の所にも、目を向けます。奴国の長官は、兜馬觚 副官は卑奴母離です。兜馬觚は中国人でしょうか。卑奴母離は、奴国の守でしょうか。そこに「卑」が付いています。中国人でないことを著しているのでしょうか。卑弥呼の「卑」と同じです。外に、「卑」の付く名前は、対馬国の卑狗と卑奴母離、一大国の卑狗と卑奴母離です。　この名前を書いたのは、魏志倭人伝の作者の陳寿ですが、報告を受けたのは、卑弥呼の使いとして中国へ行った難升米から報告を受けたのではないでしょうか。　このようなことなども考えますと、難升米は、卑弥呼の家来ではなく、卑弥呼を捕えて捕虜にしていた説の補強になります。　千余戸ぐらいですと、調べるのは、難しくはありませんが、七万戸となりますと、どの様にしてしらべたのだろうと、この辺りですでに、疑問がわきます。しかし、七万戸は、七千戸の書き間違いであろうとは云わないで、全て正しいであるということで、検証をすべきだと思われます。　七万戸とは、一軒の家の中で、家族全員が住んでいるとして、七万家あるということでしょうか。そうではない様に思われます。先ほど、書きました〔伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です〕で、若し、「戸」と「家」が同じものであれば、かき分ける必要はありません。別に書いたということは、「戸」の方は、大きな家族で会っても、小さな家族集団であっても、一戸は、一戸であると思われます。　吉野ヶ里遺跡では、いろいろの建物が復元されていました。生活を主体とする建物として、竪穴住居が復元されていましたが、住むには、十五人が限度でしょうか。　この一戸を表す建物は、復元してなかったように思います。例えば、二軒で一戸と分る。又は、三軒で一戸とい..</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-03-30T16:54:28+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
魏志倭人伝には、末羅国から始まって、邪馬壹国まで沢山の国が書いてあります。その国を治めていた長官と副官の名前が書いてあります。名前なのか、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%81%B7%E7%A8%AE&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">職種</a>なのか判りませんが、誰一人として、このことについて書いておられる方はありません。そして、外には国の人口が書いてあります。少ない方は、伊都国は千余戸、不弥国の千余家、多いところは、奴国の二万戸、投馬国の五万戸、邪馬壹国の七万戸です。<br />
<br />
　伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です。不弥国の方は、建っている家の数です。伊都国は千余戸の方は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%96%E5%B8%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">世帯</a>数です。建っている家の数は、だれでも、数えればいいことになります。戸数の方は、どうしてわかったのでしょう。<br />
<br />
　外の所にも、目を向けます。<br />
奴国の長官は、兜馬觚 副官は卑奴母離です。兜馬觚は中国人でしょうか。卑奴母離は、奴国の守でしょうか。そこに「卑」が付いています。中国人でないことを著しているのでしょうか。卑弥呼の「卑」と同じです。外に、「卑」の付く名前は、対馬国の卑狗と卑奴母離、一大国の卑狗と卑奴母離です。<br />
　この名前を書いたのは、魏志倭人伝の作者の陳寿ですが、報告を受けたのは、卑弥呼の使いとして<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>へ行った難升米から報告を受けたのではないでしょうか。<br />
　このようなことなども考えますと、難升米は、卑弥呼の家来ではなく、卑弥呼を捕えて捕虜にしていた説の補強になります。<br />
<br />
　千余戸ぐらいですと、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%AA%BF%E3%81%B9%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">調べる</a>のは、難しくはありませんが、七万戸となりますと、どの様にしてしらべたのだろうと、この辺りですでに、疑問がわきます。しかし、七万戸は、七千戸の書き間違いであろうとは云わないで、全て正しいであるということで、検証をすべきだと思われます。<br />
<br />
　七万戸とは、一軒の家の中で、家族全員が住んでいるとして、七万家あるということでしょうか。そうではない様に思われます。<br />
先ほど、書きました〔伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です〕で、若し、「戸」と「家」が同じものであれば、かき分ける必要はありません。別に書いたということは、「戸」の方は、大きな家族で会っても、小さな家族集団であっても、一戸は、一戸であると思われます。<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%90%89%E9%87%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">吉野</a>ヶ里<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%81%BA%E8%B7%A1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">遺跡</a>では、いろいろの建物が復元されていました。生活を主体とする建物として、竪穴住居が復元されていましたが、住むには、十五人が限度でしょうか。<br />
　この一戸を表す建物は、復元してなかったように思います。例えば、二軒で一戸と分る。又は、三軒で一戸というような復元の仕方です。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://rss.rssad.jp/rss/ad/.VYAy4Kx0EQp/tXNPwlhVAj7Z?type=2&amp;ent=4988b0aeefceaa9ecc60c8af3fb46377">
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    <description><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/.VYAy4Kx0EQp/tXNPwlhVAj7Z?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://bnr.rssad.jp/rss/img/.VYAy4Kx0EQp/tXNPwlhVAj7Z?type=3&ent=4988b0aeefceaa9ecc60c8af3fb46377"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > 海外サイトでネットショッピングを楽しもう！＜はてなブログにてＰＲ記事掲載中＞ </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></description>
    <dc:date>2012-03-30T16:54:28+09:00</dc:date>
  </item>
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-26"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（97）　魏志倭人伝（48）　邪馬壹国は、何所に（44）邪馬壹国(3)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-26</link>  
    <description><![CDATA[<p>  投馬国の一回目の時に書きました。ここは、５万戸だと魏志倭人伝は記していることを。人口に直すと、55万人です。これほど多いと、九州に投馬国や邪馬壹国があると云われた方は、説明が出来ませんから、無視されている方が殆どです。邪馬壹国は、7万戸です。投馬国の時は、何故多かったかは、証拠がありませんでしたから、苗族の人を神武天皇が入植させたからだと簡単に書きました。しかし、7万戸となりますと、７７万人です。　このような人口を有する町は、東京近辺でしたら、ザラにあるでしょう。私の町は、131,450人です。30000人になったので、市制が開かれたのが、1956年です。56年たっても、4倍の13万人です。隣の豊中市は、１９８５年までは増え続けてきましたが、現在は、減少傾向にあり、389,341人です。　両市とも、家がびっしりと建っています。しかし、大阪府では、緑の多い方です。どの家でも、狭いながらも、小さな庭を持っています。地図で見ますと、広大な面積です。　我が箕面市では、まだ、米も野菜も作られていますが、131,450人の人口のお腹を満たす食糧は確保されていません。それどころか、先日、家内のお供をしてスーパーへ行き、野菜のコーナーで商品を眺めていましたら、野菜の産地が、すべて印字されていました。四国や九州から運ばれていました。　投馬国の55万人を養おうとしますと、どれほどの面積が必要なのかは、計算していませんが、福岡に邪馬台国があるとされておられる歴史家は、邪馬台国が存在するに必要な面積を計算それるべきだと思います。　紀元元年頃の１戸を形成する家族数は、１０人ぐらいでしょうか。そんなに多くないだろうと思われるでしょう。何を根拠にそう思われますか。6人に減らしても、42万人です。この数字を誰が調べたかと云いますと、難升米ではないかと思います。投馬国と邪馬壹国、そして、これらの国を守る軍隊は、狗奴国にいました。一番警戒が強い国を調べるには、相当困難が伴ったと思います。　これらの国の面積など分りませんから、一部を調べて、何倍かするのではなく、歩いて調べたと思われます。不思議なことに、考古学が盛んになりましたが、古代には、家族は何人ぐらいであったかを考えた方は居られません。本当は、居られるのでしょうが、私が知らないだけかも知れません。　次回は、私がどのように推察して人口を出したかを書いて見ます。</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-03-26T02:21:01+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
  投馬国の一回目の時に書きました。ここは、５万戸だと魏志倭人伝は記していることを。<br />
人口に直すと、55万人です。これほど多いと、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>に投馬国や邪馬壹国があると云われた方は、説明が出来ませんから、無視されている方が殆どです。<br />
<br />
邪馬壹国は、7万戸です。投馬国の時は、何故多かったかは、証拠がありませんでしたから、苗族の人を神武天皇が入植させたからだと簡単に書きました。しかし、7万戸となりますと、７７万人です。<br />
　このような人口を有する町は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%9D%B1%E4%BA%AC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">東京</a>近辺でしたら、ザラにあるでしょう。<br />
私の町は、131,450人です。30000人になったので、市制が開かれたのが、1956年です。56年たっても、4倍の13万人です。隣の豊中市は、１９８５年までは増え続けてきましたが、現在は、減少傾向にあり、389,341人です。<br />
　両市とも、家がびっしりと建っています。しかし、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A4%A7%E9%98%AA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">大阪</a>府では、緑の多い方です。どの家でも、狭いながらも、小さな庭を持っています。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%B0%E5%9B%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地図</a>で見ますと、広大な面積です。<br />
　我が箕面市では、まだ、米も<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%87%8E%E8%8F%9C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">野菜</a>も作られていますが、131,450人の人口のお腹を満たす食糧は確保されていません。それどころか、先日、家内のお供をして<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">スーパー</a>へ行き、野菜の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">コーナー</a>で商品を眺めていましたら、野菜の産地が、すべて印字されていました。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9B%9B%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">四国</a>や九州から運ばれていました。<br />
　投馬国の55万人を養おうとしますと、どれほどの面積が必要なのかは、計算していませんが、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%A6%8F%E5%B2%A1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">福岡</a>に邪馬台国があるとされておられる歴史家は、邪馬台国が存在するに必要な面積を計算それるべきだと思います。<br />
　<br />
紀元元年頃の１戸を形成する家族数は、１０人ぐらいでしょうか。そんなに多くないだろうと思われるでしょう。何を根拠にそう思われますか。6人に減らしても、42万人です。<br />
<br />
この数字を誰が調べたかと云いますと、難升米ではないかと思います。<br />
投馬国と邪馬壹国、そして、これらの国を守る軍隊は、狗奴国にいました。一番警戒が強い国を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%AA%BF%E3%81%B9%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">調べる</a>には、相当困難が伴ったと思います。　これらの国の面積など分りませんから、一部を調べて、何倍かするのではなく、歩いて調べたと思われます。<br />
<br />
不思議なことに、考古学が盛んになりましたが、古代には、家族は何人ぐらいであったかを考えた方は居られません。本当は、居られるのでしょうが、私が知らないだけかも知れません。<br />
<br />
　次回は、私がどのように推察して人口を出したかを書いて見ます。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-23"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（96）　魏志倭人伝（47）　邪馬壹国は、何所に（43）邪馬壹国(2)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-23</link>  
    <description><![CDATA[<p>前回に書きましたように、以下、田村誠一氏の田村誠一氏著　『燦然と輝いていた古代　追』(平成５年出版)の116頁にある　【邪馬台国は夜麻登国】のコピーを記ます。　末廬国の南で、水行十日陸行一ヶ月の所に女王がいる邪馬台国があると書かれています。奴国から伯耆街道を一ヶ月かかって津山盆地に達します。ここから吉井川を高瀬舟で十日かかって下れば備前の国で邪馬台国と書かれ人口は七万戸もありました。ここは古事記で黒姫がおられた所で、仁徳天皇が黒姫を慕って皇后に内緒で訪れました。この時、黒姫が詠まれた歌に、この国が夜麻登として登場します。　邪馬台国は夜麻登国に下卑な当て字をしていました。当て字だから邪馬台国をヤマタイ国と読むのは間違いで、邪馬壹国が正式だと議論するのも問題の解決になりません。　郡から邪馬台国まで万二千里で、郡とは韓国の帯方郡のことです。起点が韓国なら、ここからの距離は韓国の単位で測るべきで、八四〇キロに相当します。この直線距離をどうして測ったかを考えることです。この能力があれば方角や距離は正確な筈です。　邪馬台国の東、海を越えて千里の所に倭種すなはち倭人が住んでいた魏志倭人伝に書いてある通りの所に、邪馬壹国があります。　田村氏は、〔起点が韓国なら、・・・・・・・・この能力があれば方角や距離は正確な筈です。〕と、軽く書いておられます。  魏志倭人伝では、どこそこの方角が、間違っているとか、距離をオーバーに書いたとか、自分で訂正されているのを、軽く戒めておられます。</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-03-23T05:42:10+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
前回に書きましたように、以下、田村誠一氏の田村誠一氏著　『燦然と輝いていた古代　追』(平成５年<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%87%BA%E7%89%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">出版</a>)の116頁にある　【邪馬台国は夜麻登国】の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">コピー</a>を記ます。<br />
<br />
　末廬国の南で、水行十日陸行一ヶ月の所に女王がいる邪馬台国があると書かれています。奴国から伯耆街道を一ヶ月かかって津山盆地に達します。ここから吉井川を高瀬舟で十日かかって下れば備前の国で邪馬台国と書かれ人口は七万戸もありました。<br />
ここは古事記で黒姫がおられた所で、仁徳天皇が黒姫を慕って皇后に内緒で訪れました。<br />
この時、黒姫が詠まれた歌に、この国が夜麻登として登場します。<br />
　邪馬台国は夜麻登国に下卑な当て字をしていました。当て字だから邪馬台国をヤマタイ国と読むのは間違いで、邪馬壹国が正式だと議論するのも問題の解決になりません。<br />
　郡から邪馬台国まで万二千里で、郡とは<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%9F%93%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">韓国</a>の帯方郡のことです。起点が韓国なら、ここからの距離は韓国の単位で測るべきで、八四〇キロに相当します。この直線距離をどうして測ったかを考えることです。この能力があれば方角や距離は正確な筈です。<br />
　邪馬台国の東、海を越えて千里の所に倭種すなはち倭人が住んでいた<br />
<br />
<br />
<br />
魏志倭人伝に書いてある通りの所に、邪馬壹国があります。　田村氏は、〔起点が韓国なら、・・・・・・・・この能力があれば方角や距離は正確な筈です。〕と、軽く書いておられます。<br />
  魏志倭人伝では、どこそこの方角が、間違っているとか、距離をオーバーに書いたとか、自分で訂正されているのを、軽く戒めておられます。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-19"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（95）　魏志倭人伝（46）　邪馬壹国は、何所に（42）邪馬壹国</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-19</link>  
    <description><![CDATA[<p>今日から邪馬壹国です。田村誠一氏は、私の様にクダクダと書かないで、どの国も、一ページで収まるように書かれました。　前回の投馬国は、その一ページをそのまま、コピーして紹介しました。　もう一度、ご覧ください。歴史各論　三角縁神獣鏡（90）　魏志倭人伝（41）　邪馬壹国は、何所に（37）投馬国http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-07田村氏は、投馬国が、どうして、人口が多いかの理由を次の様に書かれました。吉備に八年駐留して苗族を入植させました。このため投馬国の戸数は五万戸に達していました。当時は若夫婦も一緒に暮らしていたので人口は五十五万人は遥かに超えていたことになります。　　前の部分は、許せても、後ろの「人口は五十五万人は遥かに超えていた」は、どなたも、なんと馬鹿なと思われたでしょう。この部分は、歴史家の頭では、書くことの出来ない部分だと思います。　投馬国に関しては、抜群の考え方だと思います。そこで、邪馬壹国のところでも、田村氏の書籍からコピーをして見て頂こうと思っています。　次回にします。</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-03-19T04:30:18+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
今日から邪馬壹国です。田村誠一氏は、私の様にクダクダと書かないで、どの国も、一ページで収まるように書かれました。<br />
　前回の投馬国は、その一ページをそのまま、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">コピー</a>して紹介しました。<br />
　もう一度、ご覧ください。<br />
<br />
歴史各論　三角縁神獣鏡（90）　魏志倭人伝（41）　邪馬壹国は、何所に（37）投馬国<br />
<a href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-07" target="_blank">http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-07</a><br />
<br />
田村氏は、投馬国が、どうして、人口が多いかの理由を次の様に書かれました。<br />
吉備に八年駐留して苗族を入植させました。このため投馬国の戸数は五万戸に達していました。当時は若<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A4%AB%E5%A9%A6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">夫婦</a>も一緒に暮らしていたので人口は五十五万人は遥かに超えていたことになります。　<br />
<br />
　前の部分は、許せても、後ろの「人口は五十五万人は遥かに超えていた」は、どなたも、なんと馬鹿なと思われたでしょう。<br />
<br />
この部分は、歴史家の頭では、書くことの出来ない部分だと思います。<br />
<br />
　投馬国に関しては、抜群の考え方だと思います。そこで、邪馬壹国のところでも、田村氏の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%9B%B8%E7%B1%8D&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">書籍</a>からコピーをして見て頂こうと思っています。<br />
<br />
　次回にします。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-17"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（94）　魏志倭人伝（45）　邪馬壹国は、何所に（41）投馬国(5)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-17</link>  
    <description><![CDATA[<p>岡山県の古代史を知るためには、文献は殆ど、役に立ちません。　私の場合は、投馬国も邪馬台国も岡山県にあるとしていますから、このことを立証するためには、ここに、多くの人が住んでいたことを確認しなければなりません。　岡山県には、大型の古墳がこれでもかというほどありますが、こうした古墳は、地元の豪族の墓であると片づけられています。　これでは、歴史になりません。大きな古墳が築かれたということは、余程、住民から尊敬されていたか、恐ろしくて従っていたか　を説明しなければいけないと思います。　　現在の歴史家が考えておられる歴史では、何も解決できないと思います。古代と寺院が建設された時代の間には、少し、年月が経ちすぎていますが、仕方がありません。　岡山県にある廃寺をすべて、調べれば何か糸口がつかめるのではないかと、調べ始めました。その成果は、次の所に蓄積するつもりでした。岡山県の廃寺http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page860.html結果は、ごらんの通りです。インターネットでは、資料を見付けることが出来ません。と云う次第で、中断しています。　ただ、高梁川を挟んで、天皇方と中国人方が、住み分けていたのではとの感触は感じています。　〔岡山県の廃寺〕に記しました廃寺は、10年程前にその地にやって来た人が、お寺を建てたと考えるよりは、その地に、4代ぐらいの人々が、100年ぐらい住んでいて、建てられたと考える方が、無理がないと思います。　そうしますと、大型古墳時代が終了して、小さくなっていった古墳時代とドッキングをすると思われます。　と云うことで、廃寺を調べる時は、その寺の周り2キロ以内にある古墳の特徴は調べる必要があろうかと思います。投馬国は、今回で終了です。次回は、邪馬壹国のことを書いて見ます。</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-03-17T08:58:39+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B2%A1%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">岡山</a>県の古代史を知るためには、文献は殆ど、役に立ちません。<br />
　私の場合は、投馬国も邪馬台国も岡山県にあるとしていますから、このことを立証するためには、ここに、多くの人が住んでいたことを確認しなければなりません。<br />
　岡山県には、大型の古墳がこれでもかというほどありますが、こうした古墳は、地元の豪族の墓であると片づけられています。<br />
　これでは、歴史になりません。大きな古墳が築かれたということは、余程、住民から尊敬されていたか、恐ろしくて従っていたか　を説明しなければいけないと思います。<br />
　<br />
　現在の歴史家が考えておられる歴史では、何も解決できないと思います。古代と寺院が<br />
建設された時代の間には、少し、年月が経ちすぎていますが、仕方がありません。<br />
　岡山県にある廃寺をすべて、調べれば何か糸口がつかめるのではないかと、調べ始めました。その成果は、次の所に蓄積するつもりでした。<br />
岡山県の廃寺<br />
<a href="http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page860.html" target="_blank">http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page860.html</a><br />
<br />
結果は、ごらんの通りです。<br />
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">インターネット</a>では、資料を見付けることが出来ません。<br />
と云う次第で、中断しています。<br />
　ただ、高梁川を挟んで、天皇方と中国人方が、住み分けていたのではとの感触は感じています。<br />
　〔岡山県の廃寺〕に記しました廃寺は、10年程前にその地にやって来た人が、お寺を建てたと考えるよりは、その地に、4代ぐらいの人々が、100年ぐらい住んでいて、建てられたと考える方が、無理がないと思います。<br />
　そうしますと、大型古墳時代が終了して、小さくなっていった古墳時代とドッキングをすると思われます。<br />
　と云うことで、廃寺を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%AA%BF%E3%81%B9%E3%82%8B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">調べる</a>時は、その寺の周り2キロ以内にある古墳の特徴は調べる必要があろうかと思います。<br />
<br />
投馬国は、今回で終了です。次回は、邪馬壹国のことを書いて見ます。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-15"> 
    <title>歴史各論　三角縁神獣鏡（93）　魏志倭人伝（44）　邪馬壹国は、何所に（40）投馬国(4)</title>  
    <link>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-15</link>  
    <description><![CDATA[<p>邪馬壹国と投馬国が並んであった話は如何でしたか。　邪馬壹国が九州や奈良盆地にあると思って、研究を続けておられる先生方には、100％受け入れられないことだと思います。　　邪馬壹国という名前は、日本の歴史書には、残っていないのに、なぜか日本ではあったことは確実とされています。　何故かと云いますと、魏志倭人伝に書いてあるからです。　では、日本の歴史書である古事記、日本書紀、先代舊事本紀　等は、多くの歴史家は、古事記は、偽書であるとされています。先代舊事本は、ウィキペデイに執筆された先生？は、「日本の歴史的書物である。学術的には偽書とされている。ただし、部分的には資料的に価値があるとする見解もある」と誰からもイチャモンを付けられないような記述になっています。　　長いこと、誰も認められないようなことを書いてきましたが、同じ事象のことを取上げてあるときに、違うことが書いてありますと、書いた人の考え方が何故違うのか、追求しますと、真実が浮かび上るのではないかと考えています。前置きが長くなりましたが、歴史の真実を追求するには、これらの書物をいくら分析しても限度があります。　そこで、出来るだけ、いろいろのものから推察する必要があると思います。鳥取と岡山のことを調べていますと、廃寺が多いなと思いました。　鳥取県の上淀廃寺は、日本では、二つ目の壁画が見つかりました。　歴史家の先生は、当然、法隆寺の方が、古く、上淀廃寺を造ったひとは、法隆寺を参考にして造ったと考えておられるように思います。　　上淀廃寺の事は、http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2581213/　この辺りから書き始めています。この廃寺は、天皇家の人たちによって造られたのではないと推理しています。それだけではなく、法隆寺が建てられた以前に建てられていたのではないかと考えています。　このような観点から、投馬国近辺にある廃寺のことを調べたことがあります。それは、次回にまわそうかと思っています。</p>]]></description>  
    <dc:subject>三角縁神獣鏡</dc:subject>  
    <dc:creator>ｖｅｔｔｙ</dc:creator>  
    <dc:date>2012-03-15T05:36:09+09:00</dc:date>  
    <content:encoded><![CDATA[
邪馬壹国と投馬国が並んであった話は如何でしたか。<br />
　邪馬壹国が<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>や<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A5%88%E8%89%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">奈良</a>盆地にあると思って、研究を続けておられる先生方には、100％受け入れられないことだと思います。<br />
　<br />
　邪馬壹国という名前は、日本の歴史書には、残っていないのに、なぜか日本ではあったことは確実とされています。<br />
　何故かと云いますと、魏志倭人伝に書いてあるからです。<br />
<br />
　では、日本の歴史書である古事記、日本書紀、先代舊事本紀　等は、多くの歴史家は、古事記は、偽書であるとされています。先代舊事本は、ウィキペデイに執筆された先生？は、「日本の歴史的書物である。学術的には偽書とされている。ただし、部分的には資料的に価値があるとする見解もある」と誰からもイチャモンを付けられないような記述になっています。<br />
　<br />
　長いこと、誰も認められないようなことを書いてきましたが、同じ事象のことを取上げてあるときに、違うことが書いてありますと、書いた人の考え方が何故違うのか、追求しますと、真実が浮かび上るのではないかと考えています。<br />
<br />
前置きが長くなりましたが、歴史の真実を追求するには、これらの書物をいくら分析しても限度があります。<br />
<br />
　そこで、出来るだけ、いろいろのものから推察する必要があると思います。<br />
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%B3%A5%E5%8F%96&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">鳥取</a>と<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B2%A1%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">岡山</a>のことを調べていますと、廃寺が多いなと思いました。<br />
　鳥取県の上淀廃寺は、日本では、二つ目の壁画が見つかりました。<br />
　歴史家の先生は、当然、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">法隆寺</a>の方が、古く、上淀廃寺を造ったひとは、法隆寺を参考にして造ったと考えておられるように思います。<br />
　<br />
　上淀廃寺の事は、<a href="http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2581213/" target="_blank">http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2581213/</a>　この辺りから書き始めています。この廃寺は、天皇家の人たちによって造られたのではないと推理しています。それだけではなく、法隆寺が建てられた以前に建てられていたのではないかと考えています。<br />
<br />
　このような観点から、投馬国近辺にある廃寺のことを調べたことがあります。<br />
それは、次回にまわそうかと思っています。<br />
<a name="more"></a>
]]></content:encoded> 
  </item> 
</rdf:RDF>

