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    <title>不弧風録庵 －Snobist Blog-</title>  
    <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/</link>  
    <language>ja</language>  
    <pubDate>Mon, 02 Mar 2009 23:26:11 +0900</pubDate>  
    <description><![CDATA[五里霧中の現代をときに軽やかに疾駆し、時に木陰で逡巡しながら生きていくことを目指すSnobist、Masa.Nによるブログスペース]]></description>  
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    <item> 
      <title>小沢発言狂騒</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-03-02</link>  
      <category>随思庵－徒然思いを語る草庵－</category>  
      <pubDate>Mon, 02 Mar 2009 23:26:11 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-03-02</guid>  
      <description><![CDATA[<p>民主党の小沢発言がいろいろと取り上げられている。ずっとやられっぱなしの自民党としてはこれを「妄言」扱いしたい気が山々だし、なぜかアンチ民主党の場と化しているYahoo!コメント欄などを見ても、売国発言扱いされているようだ。<br />
<br />
確認しておくと、小沢党首は「日本の防衛についてはアメリカは第７艦隊がいれば十分、あとは自衛隊でやればよい」ということを云っているはずだ。個人的には民主も自民も相当信頼がおけないが、なぜこれがそんなに批判されているのかがよくわからない。<br />
<br />
というか、この種のコメントについては日本の防衛事情についてあまりに疎い発言が多すぎる。小沢発言ひとつでなく、全体に対していつもいらだちを覚える。小沢氏も馬鹿ではあるまい。民団や総連にカネを積まれてそうした発言をした、と思うなら思っておけばいいと思うが、それ以上に、イラクや韓国など、世界中に軍隊を駐留させてきたアメリカが撤退モードへ入ったことへの応援でもあり、牽制球でもあるように思われる。少なくともオバマ政権のこの動向を伝えないのはおそらく、日本人（日本のメディア）が安保体制の不朽を信じて疑っていないからなのだが、それはどうなんだろう、と気がする。<br />
<br />
個人的には小沢発言は、撤退モードのアメリカにエールとなるメッセージを送ると同時に、「第７艦隊は日本にいるよね」と釘を刺しているようにも思われる観測気球に聞こえている。そして誰もこのことを主張しないのも理解できないのだが、米軍の撤退によって生まれた空白は自衛隊によって埋めるしかない。非武装論者は別として、これまた自明のことだ。<br />
<br />
<br />
<a name="more"></a>わざわざ第７艦隊を名指ししたのには理由がある。東アジアの国際関係の中で軍事的プレゼンスの核となっているのはこの第７艦隊なのだ。はっきりいえば、それ以外のことは自衛隊でも代替が効く。このことを裏返して云えば、第７艦隊がいなければ、在日米軍や在韓米軍がどれほど強力になろうとも、北朝鮮、中国、ロシアにとってはどうでもいい。抑止力を失ったも同然だ。<br />
<br />
この「抑止力」の概念は日本においてはとりわけ重要だ。まだ憲法改正が容易ではないだろうという事情に鑑みれば、日本は海外へ出兵することができない。共産党や朝日る方々（最近の朝日はそこまで物わかり悪いわけではないが）がよく批判するように、日本は世界第３位の軍事大国なのではない。それは軍事費が３位だというだけの話であって、日本の作戦行動能力は貧弱だ。米軍と共同行動でなければ何もできない。もっと具体的に云えば、日本には航空母艦と長距離爆撃機、中長距離ミサイルがない。これらはいずれも「専守防衛」という規定に反する兵器であり、憲法解釈上もてないものだ。そして作戦行動も含め、この部分を補っているのが第７艦隊を中心としたアメリカ軍なのである。<br />
<br />
小沢発言は、将来的な改憲後のことはいざ知らず、現憲法下でも米軍を極力少なくして日本の自主的な自衛力による軍備をめざすものと取ることが可能だ。そしてこれは、私は基本的にはいいことだと思っている。沖縄に基地を背負わしている状況を看過できないのはもちろんのこと、横田や三沢では米軍がブンブン飛び、あまつさえ爆音を立てて六本木に軍用ヘリが離着陸する現状は、「敗戦国」であることを否応なく思い出させる。この非植民地的な実情を変えなければ、どんなに嫌韓反中でナショナリズムを煽っても、「普通の国家」的な観点のナショナリズムに照らせば戯言に過ぎない。この点についてはかつての『日本改造計画』以来小沢氏の主張は一貫している。<br />
<br />
戦後的なものをすべて否定するつもりはないが、しかし、今起こっていることは派遣村をダシにした共産党運動もプチ右翼によるナショナリズムもさして変わりなく、実は戦後的なものの戯画的な再生に過ぎないと僕は思っている。そしてそれはごく単純にいえば、アメリカと戦争をして負けた、というリアルを、方や人道主義で、方や陰謀史観や解放戦争論によって何とか忘れたいという願望の変質したものにしか思えない。そういうのは今後の日本のために何も起こさない。興味がない。いつになったら戦って負けたという事実に目が向いていくのだろうか。</p>]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>虚偽報道騒ぎの昨今、「一社提供」について考える</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-03-01</link>  
      <category>随思庵－徒然思いを語る草庵－</category>  
      <pubDate>Sun, 01 Mar 2009 23:13:21 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-03-01</guid>  
      <description><![CDATA[３月ですね。奈良では修二会。<br />
<br />
東京は引き続きの寒さの中で、所用があって外へ出たのですが、途中猛烈な睡魔に襲われ大苦戦。ここしばらく、午後３時頃に急激な睡魔に襲われます。ナルコレプシー症候群でしょうか。それだと困るが。<br />
<br />
さて先週の金曜日、テレビ広告の将来をめぐっていろいろ話す。今日、「バンキシャ」の虚偽報道騒ぎも出て、この話がさらに気になっている。話題は「一社提供」の可能性について。一社提供とは、このwikiを見てもらえると概略はわかるが<br />
<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/" target="_blank">http://ja.wikipedia.org/wiki/</a>一社提供<br />
<br />
wikiと僕の考え方が違うのは、一社提供は「番組に影響力を及ぼす」ことができるというよりは、自社のブランドイメージを高められる、ということだ。<a name="more"></a>もっと簡単に言えば、一社提供ではない、複数のスポンサーがつく番組よりも、自由に作ることができる、という意味だ。<br />
<br />
この点で、もう２年前になるが「あるある大辞典Ⅱ」の納豆ダイエットの虚偽放送はやはりダメージが強かった。この番組は花王の一社提供で、比較的自由度が高いはずであったにもかかわらず、もっとも視聴率にしばられるかたちで番組を虚偽に構成してしまった。<br />
<br />
その最大の元凶はひとことでいえば某大手広告代理店なのだが、どのマスコミもこのことには触れていない。わずかに「あるある」検証委員会がその報告書に触れていて、そのこと自体も非常に大きいのだが、しかしほとんど世間的な話題にはならなかった。<br />
<br />
一社提供というのは制作者の自由度を確保する制度だった。これが少なくなりつつある。それはそれで自由競争の結果だと云われればそれまでだが、そのことによって、自由競争が本来目指している市場の活性化を促すような良質なコンテンツが失われていけば本末転倒だ。どうもそちらがわを目指しているような気がしてならない。<br />
<br />
今日も日本テレビで虚偽報道騒ぎがあった。裏金証言が虚偽だった、ということなのだが、裏をとっていれば簡単に見抜ける嘘だったし、また裏がとれていれば岐阜県から何を抗議されようと強く出てかまわない。いわば単に「つかまされた」だけであり、これは視聴率では勝っているが報道姿勢ではたびたび問題視される日本テレビの典型的な動向のようでもある。<br />
<br />
実際、花王が一社提供を降りて関西テレビは大きな影響を受けた。いま「エチカの鏡」で戻ってきてくれているが、一社提供自体が下り坂のいま、今後のことはわからない。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>2009-02-23</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-02-22</link>  
      <category>未分類</category>  
      <pubDate>Sun, 22 Feb 2009 23:22:47 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-02-22</guid>  
      <description><![CDATA[この週末は、ひさしぶりに二日とも自宅のことにかかずらわる。土曜日はIEKAとコストコホールセールでもろもろ大量の買い込み。そもそも整理下手なこともあって家の収納はいつも破綻寸前なのだが、特に本の増殖が止まらないため、IEKAで本棚を購入。<br />
<br />
とはいっても、家庭内交渉の末全面的に勝ち取った納戸のスペースにすでに４つの本棚があり、これが５個目なものだから、それほど大きなものを買うわけにもいかず、小さなものに。少し本の整理も必要か。<br />
<br />
帰り道のＤＩＹショップで、プランターを増設し、この春はベランダ菜園にもう一歩踏み出すつもり。<br />
<br />
<img src="http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_25f/snobistblog/RIMG0086.JPG" width="364" height="227" border="0" align="" alt="RIMG0086.JPG" /><br />
<br />
このごろ、太陽に凝っている。そのことはまたどこかで書こうと思うけれども、いろいろな瑣事のことよりも、太陽が植物に反映していくところを見てみたい。何しろ、人はそうでなければ生きられないのだから、というようなことを思う今日この頃。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>「必殺」にみる、時代劇苦戦</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-02-15</link>  
      <category>随思庵－徒然思いを語る草庵－</category>  
      <pubDate>Sun, 15 Feb 2009 23:01:01 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-02-15</guid>  
      <description><![CDATA[昨晩の疲れをだいぶ引きずっており、ゆっくり眠りたかったのだが結局は朝８時30分には起床。本を読むテンションを高めるために近くのジョナサンへ行ったのだが、対してペースは上がらない。帰宅してからも、ラグビーのサントリー対早稲田の試合（何だか両チームともどこか余所を向いているような試合で、見えにくかったが）を見たりしながらしていたが、やはりよく読めなかった。<br />
<br />
結局休日は撮り溜めたテレビを見ることで多くが費やされていくのだが、どうも期待していただけに「必殺仕事人2009」がいただけない。昔の「必殺」シリーズと比べて迫力がない、と難じて終わるのは簡単なのだが、それ以上に難しい話も孕んでいるだけに、期待していたのだが。<br />
<br />
難しい話、とは（真実大して難しいわけでもないが）「時代劇が見られなくなった」という一点につきる。<a name="more"></a>時代劇というよりはその一線を越えて「ルーチン」になってしまっている水戸黄門を除けば、民放が時代劇を作らなくなって久しい。その水戸黄門のTBSでさえ、かつては水戸黄門と大岡越前（ときに「飛んでる平賀源内」などの意欲作もあったが）が半年ずつ交代する習わしだったが、この前の半年は漫画原作の「あんどーなつ」という現代ドラマだった。かつて鬼平犯科帳を見事に制作していたフジテレビも時代劇は作らなくなった。テレビ朝日ですら、「暴れん坊将軍」のような黄金ソフトを制作できなくなったのだ。<br />
<br />
ことは民放にとどまらない。NHKの時代劇にはすでにその兆候が見えていた。NHKは、制作費と時間をかけて古典的な、いわば映画風に撮影する時代劇の「大河ドラマ」と、江戸時代を中心とした人情もの時代劇の２本柱で時代劇を作ってきた。しかし2002年に放送された大河ドラマ「利家とまつ」はかつての「おんな太閤記」以上にホームドラマ路線を徹底して高視聴率をマークした。久しぶりに“古典的”な時代劇だった「風林火山」はそれほど視聴率を伸ばすことができず、一方翌年の、とても古き良き時代の視点からは時代劇とは言いがたい「篤姫」が話題をかっさらった。こうした流れと期を一にするのだが、もう一方の人情時代劇は放送時間がかつての45〜50分から30分に短縮され、若い役者を使って活気ある方向性に生まれ変わった。それはそれでいいのだろうが、しかし、かつての「御宿かわせみ」のような、現代ドラマでは描きにくいしみじみとした人情の機微を演出することはできなくなった。<br />
<br />
そんなところに、時代劇がジャニーズと全面的に組んだのが「必殺仕事人2009」で注目していたのだ。古い必殺ファンを離さぬよう藤田まことを立てながら、少年隊東山、TOKIO松岡、関ジャニ大倉と各世代のファンがつくような配置は周到と云えば周到。これで客が復活するのなら、期待作といえるものだ。<br />
<br />
しかし、正月早々の２時間スペシャルは何とか持ちこたえたものの、各週の放送になってからどうもいただけない。藤田まことを含め４人の仕事人が「仕事」をするわけだが、その相手となる悪人の性格や、その悪人に苦しめられる人情を描く余裕がなく、人の数が多いことだけがやけに気になるのだ。殺される方の悪人にも、初回は竜雷太、その後も大物役者を使ってはいるのだが、どうも時代劇が描ききれない。ジャニーズの顔見せで終わってしまっている側面少なからず、である。これでは、おそらくテレビ朝日の狙いが外れてしまっている。まだまだ勝負する余地はあるように思うのだが・・・。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>人間ドック、その他、環境の語り方。</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-02-14</link>  
      <category>春秋庵－日々の消息を語る草庵－</category>  
      <pubDate>Sat, 14 Feb 2009 23:21:38 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-02-14</guid>  
      <description><![CDATA[３年ぶりの人間ドックに出かける。やってはいけないと思いつつ、前日は地中海風のトロットロの赤ワインを大量に飲んでしまったために、血液検査は驚異のドロドロ血液値が出たり、相変わらず内臓脂肪の問題を指摘された。後は視力が落ちていたことと、ヘリコバクター・ピロリ菌の除菌に失敗していたことが話題か。それ以外は特に問題なし。<br />
<br />
内臓脂肪、まあ、平たく言うとメタボリック症候群のことはかなり厳しく言われる。40歳になると、約８０分ほど、生活習慣も含めてかなりみっちり怒られるそうで、４０歳になるまでにはあと１１キロ減量してください、とのこと。実は自分のベスト体重は６２キロだというのは医者に指摘されるまでもなく理解していることなのだ。まだ私がアスリートだった頃（卓球に打ち込んでいた頃だが）、相当体重管理は綿密にやっていた。６２キロプラスマイナス１キロが限度で、６０キロになるとスタミナが切れ、６４キロになると体が重かった。<br />
<br />
そうしたセンシティブな感覚をなくしてしまっことが標準体重＋ン十キロという惨めな体を作ってしまったわけだ。というわけで医者のアドバイスは徹底して「泳ぎなさい」ということ。もっとも続かなさそうではあるが、近所のスポーツクラブに行ってみるしかないだろうか。<br />
<br />
帰りは病院で読んで「おっ」と思ったブルータスを購入。<br />
<a href="http://magazineworld.jp/brutus/656/read/" target="_blank">http://magazineworld.jp/brutus/656/read/</a><br />
いろいろと農業のことを書いてあるが、ソトコトよりは良心的に書いてあるか。それよりもベランダ菜園にことが結構事細かに載っていて、この３月から再スタート予定の私としても参考になる。<br />
<br />
帰宅後、11日に放送されたTBSの「森のラブレター」の録画を見る。<br />
<a href="http://www.tbs.co.jp/morino-loveletter/" target="_blank">http://www.tbs.co.jp/morino-loveletter/</a><br />
大きく構えた割には予算がなかったのか、倉本聰さんのトークで引っ張りすぎていてさすがに飽きた面がある。だいたい、倉本さんが何を言うかについては視聴者側も予測がつきそうなものだから。それを克服しようと、渡辺満里奈を送り込んだ里山は老夫婦と花と水というテレビがもっとも好みそうな話題だったがそれはそれで安心してみることができた。ただの環境番組にならないよう、竹下景子さんがTOKIOの国分君をナビして宇宙の長い歴史、宇宙の広大さ、地球の歴史と我々生物圏のフラジリティを説明していた視点は良かったが、ああいう内容は環境の視点から見て「大事だね」という話になるといかにも説教くさい。むしろシンプルに、科学の視点から説明された方が、ことの重要さを感じられるのではないかと思った。まあ、そういうふうに語れる科学者が少ないのが今の日本の問題なんだけれども。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>卓球全日本選手権評（福原愛ちゃんにはちょい辛口）</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-18</link>  
      <category>春秋庵－日々の消息を語る草庵－</category>  
      <pubDate>Sun, 18 Jan 2009 23:01:55 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-18</guid>  
      <description><![CDATA[最近は広報戦略が功を奏したのか、卓球人気も人口も増えているそうな。そんな時代に、昔では考えられないような演出とともに昨日までおこなわれた卓球の全日本選手権も、軒並みどのニュースでも取り上げられていた。<br />
<br />
メディアとしては福原愛が準決勝で敗れてしまったのが残念なのだろうが、女子決勝はほんとうにすばらしい試合だった。勝った平野はこれで一段レベルが上がったか、というような試合だった。<br />
<br />
メディアがさんざん持て囃すし、実際弱いわけではないのだが、福原はずっとここ数年もがいている。子どもの頃からバックハンドに頼るショットが多く、事実バックハンドに限っていえば世界トップレベルといってもいい（この大会でも変化に富み、安定性が増していたようだ）が、どうしてもフォアが弱い。どんなに強くてもバックハンドでエースや決定的なショットを奪うのは容易ではなく、フォアを強化せざるを得ないのだが、それがいまひとつうまくいっていない。<br />
<br />
かつて中国代表でカットマンをやっていた王輝相手にはそれがもろに出た準決勝となった。<a name="more"></a>王輝のような千変万化のカットボールを送ってくる相手にはフォアハンドで変化をつけたドライブを攻め側も出していくしかないのだが、変化をつけるほどのフォアのスイングの強さがないため全く太刀打ちできなかった。これには彼女自身が小柄だというハンディもあるのだが、この点をどう克服していくかが今後の福原の見所になるだろう。<br />
<br />
その点を克服して王輝に打ち勝ったのが平野だった。経験者でなければテレビ中継ではほとんどわからなかったと思うが、自信のドライブにもさまざまな変化をつけ、本来カットマンがねらいとしている、同じスイングで相手の腕を「固める」ことを王輝に強要していた。試合前半はフォアにゆるいボールを送ってフォアスイングに慣れさせたところでバックへ振り、甘くなったボールをミドルへ叩く、という一点で徹底。後半は反撃を受け、ファイナルセットも５点差と絶体絶命のピンチになるまでバックを攻め続け、肝心のところからフォアへすばらしいスピンのかかったドライブを連発してこの点差を追いついていた。<br />
<br />
この勝ちは、今後の世界大会へ向けて大きい。女子は中国が、史上最強の世界チャンピオンともいわれる張怡寧を中心に無敵の強さを誇っているが、その次はけっこう混戦だ。とりわけ３番手を日韓で争うことが多いが、ここ一番というところで日本が韓国に勝てないのは韓国に五輪銅メダリストのカットマン、キム・キュンアがいるからである。福原はもちろん、平野も何度もキムに泣かされてきた。そのキムと、いまでも互するほどの実力のある王輝に平野が勝ったのは、次の世界での戦いに希望がもてる結果といえる。<br />
<br />
その他では、準々決勝で愛ちゃんに敗れたものの石川佳純のフォアは昨年よりぐっと強くなっていたように思った。平野と組んだダブルスでは、福原ペアをフォアで完全に圧倒していた。まだ15歳だが、上述の理由のとおりでフォアが強い天性を持つ選手はきっと大事に育ててもらいたい、と思う。<br />
<br />
男子は水谷準の勝利という無難な結果に終わったが、報道のとおりベテラン二人が目を引いた。<br />
<br />
この大会で引退する松下浩二は、私が卓球少年だった中高時代のヒーローであり、私が中学生だったときのインタハイ決勝で、後に彼のダブルスパートナーとなって世界で活躍した渋谷浩との壮絶なカットラリーの試合を見たことは今でも忘れられない。日本初のプロ契約を結んだり、女子はともかく男子ではラケットとラバーの技術が急速に発展してカットマンが廃れていく中で、ほとんど世界で“孤高の”カット主戦の戦いを続けていたことなど、パイオニアとしても印象深い選手だった。<br />
<br />
もうひとりはこの大会で男子で初めて通算100勝を達成した斎藤清である。これもまた私が卓球少年だった頃、日本選手権を５連覇、通算８回優勝した名選手だった。これまたラケットとラバーの技術の発達により、現在ではペンホルダーグリップの選手をほとんど見なくなってしまったが、当時はスピードと回転は手首の効くペンホルダー、安定性とパワーはシェイクハンドという時代だった。その“ペンドラ”（ペンホルダーのドライブ攻撃型）時代の最後の名選手といってもいい。46歳にしてまだ全日本に出場し（これ自体大変なこと）、通算100勝を上げたのはもちろん男子では最高。女子でも100勝選手が一人いるだけで、来年１勝すれば男女通じての新記録になる。この点もぜひ、注目して来年を待ちたい。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>盛岡写真館</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-17</link>  
      <category>春秋庵－日々の消息を語る草庵－</category>  
      <pubDate>Sun, 18 Jan 2009 00:04:27 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-17</guid>  
      <description><![CDATA[盛岡から帰ってきました。なかなかいいところ。寒いけれど、とにかく、人がすばらしい。<br />
<br />
<img src="http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_25f/snobistblog/RIMG0002b.jpg" width="365" height="274" border="0" align="" alt="RIMG0002b.jpg" /><br />
<br />
すでに真っ昼間なのですが、気温は０度ぎりぎり。<br />
<br />
<img src="http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_25f/snobistblog/RIMG0003b.jpg" width="365" height="274" border="0" align="" alt="RIMG0003b.jpg" /><br />
<br />
清和源氏南部氏20万石の居城、盛岡城。建物はもう残っていないが、石垣がすばらしいことで知られる。が、いまはこの雪の中。<br />
<br />
<img src="http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_25f/snobistblog/RIMG0004b.jpg" width="365" height="274" border="0" align="" alt="RIMG0004b.jpg" /><br />
<br />
盛岡は桜が有名だが、中でも有名なもの。裁判所の構内にある「石割桜」。根本を見ると、岩を割って桜が伸びていることがわかる。<br />
<br />
<img src="http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_25f/snobistblog/RIMG0005b.jpg" width="274" height="365" border="0" align="" alt="RIMG0005b.jpg" /><br />
<br />
岩手は偉人をたくさん出しているところでもある。宮沢賢治、石川啄木は有名だけれども、これは原敬。もと南部藩士の家に生まれたが戊辰戦争で南部藩が官軍と戦ったために士族から平民に落とされ、その平民として初めて総理の椅子に座った。雪のいたずらで今日はユーモラス。<br />
<br />
<img src="http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_25f/snobistblog/RIMG0010b.jpg" width="365" height="274" border="0" align="" alt="RIMG0010b.jpg" /><br />
<br />
盛岡はこの景色が一番いい。前夜はただ寒いだけだったが、北上川の向こうに岩木山が雄々しい。<br />
<br />
桜の季節にはこの河岸が花に染められる。また来たい。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>盛岡にて。</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-15</link>  
      <category>春秋庵－日々の消息を語る草庵－</category>  
      <pubDate>Thu, 15 Jan 2009 22:34:28 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-15</guid>  
      <description><![CDATA[<img src="http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_25f/snobistblog/RIMG00011.jpg" width="365" height="274" border="0" align="" alt="RIMG00011.jpg" /><br />
<br />
盛岡に来ています。開運橋からの北上川です。<br />
<br />
雪です。氷点下です。寒いです。<br />
<br />
冷麺食べました。じゃじゃ麺食べました。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
もちろんグルメの旅ではありません。いろいろ考えることがありました。<br />
<br />
<br />
それはまたのちほど。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>強行採決って,何をしているのか</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-13</link>  
      <category>随思庵－徒然思いを語る草庵－</category>  
      <pubDate>Tue, 13 Jan 2009 23:37:49 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-13</guid>  
      <description><![CDATA[定額給付金を争点とした補正予算案（云われてみると何のこっちゃ、という感じだが）が衆院を一挙に本会議まで通過した。もうこうした強行採決も慣れっこになって、このことの意味が分からないままに与党側もやりまくっている。参院で否決されたら衆院で３分の２で再可決して、それで文句あるの、という感じだ。<br />
<br />
民主党も一度は参院で似たような真似をして、これに与党側が「強行採決反対」と詰め寄るシーンは戯画的でなかなかに面白いものがあった。やってる人は必死なんだろうけれど、笑いの要素しか残らない。<br />
<br />
かくして、少数意見の尊重という民主主義の建前をぶっ飛ばした強行採決ゲームが繰り広げられているわけだが、相対的に見てどちらに理があるかといえば、明らかに野党側に理がある。参院で多数を獲得したときの野党は、少なくとも「政策の束」を争点にしていたが、衆院で３分の２という多数を獲得したときの与党は、さまざまな政策のパッケージではなく「郵政民営化は是か非か」という一点だけを争点にしていた。<br />
<br />
<a name="more"></a>これはあきらかに横暴だった。だって郵政民営化についての議論が終わったら、そこで得られた多数の正統性はなくなってしまうのだ。そしてまたファシズム国家でもないかぎり、経済、地方自治、国防、教育、農業、漁業に林業、興業、商業、外交といった多様な政策のパッケージをめぐって投票が行われれば、３分の２などという「超絶対多数」の状況が生まれることは考えにくい。だからこそ過去の政権や政党は、そんな選挙戦を戦おうとしなかった。ただ小泉さんがその常識をぶっ飛ばした。<br />
<br />
だから簡潔に言えば、郵政民営化以外には正統性はなかったのだ。しかし絶対多数でやったのが派遣法の改正であり、香気高齢者医療制度だ。いや、百歩譲って小泉内閣の間は正統性があったとしても、安倍内閣に正統性はなかったのだ。その安倍さんがまったく郵政民営化とは関係のない教育基本法の改正とか（個人的には改正すべき基本法だったと思うが、それにしても酷いものになった。質の評価はともかくも、目的が正しければ方法が正当化されるというのは民主主義国家のやることじゃない）正統性ははなはだ疑わしい。<br />
<br />
それがまた福田政権になり、政権維持のために小泉政権時代の政策の揺り戻しを行うとなれば（僕は小泉政策には批判的だが、方法論として語れば）正統性のかけらもないし、一律給付金なんてまともな資本主義先進国が考える方策ではあるまい。今日の採決、安倍さんも菅さんも塩崎さんも立っているわけだが、どの面下げて、と思うし、一方で彼らが結果として強烈な格差の底に落とした住所不定の人々にはこのお金は届かない、というシニカルさも抱えている。<br />
<br />
良くも悪くも一度は選挙をしないと、民主主義の正統性が保てない。ずいぶん長いことそのことを建前としながら政治をやってきたはずだったのだが、いまやベテランの自民党議員も公明党に膝を屈して賛成する有様である。こうなってくると、正統性が保てないことが問題と云うよりも、政権が常に責任から回避し続けることが最大の問題だ。景気だ、スピードだと云うが、大事なことは、繰り返しになるが「民主主義は目的ではなく、方法である」ということだ。このことだけは強く云っておきたい。<br />
<br />
敷衍すれば、民主主義のみならずこの社会のいろいろが「方法」であるはずなのだ。そのことはのちのち今準備中の「中の院」でご披露していきたいが、いまはひとまず、政治や経済のみですべてを語ろうとしないことを肝に銘じておきたい。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>「派遣村」を見て。同調するわけではないが、確かに昔見た光景が。</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-12</link>  
      <category>春秋庵－日々の消息を語る草庵－</category>  
      <pubDate>Mon, 12 Jan 2009 23:10:46 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-12</guid>  
      <description><![CDATA[実は先日、「派遣村」なるものに行ってきた。個人的興味ではなくて、仕事である。<br />
<br />
「派遣」という形態が何かゆがんだものを生み出しているというとちょっと語弊があるのかもしれない。そもそも日本の経済構造の中に歪んだものがあって、これは人を批判するので申し訳ないが奥田や御手洗といった連中が経団連のトップを張るということ自体がもはや日本の経済構造の歪みであったのだが、そのことをたとえば派遣労働が、たとえば郵政民営化が、大きく言えば金融の自由化を含む規制緩和路線が隠蔽してきた。それが今回、おおっぴらになってしまったのだ。<br />
<br />
だから、日本の経済構造の歪みを何とかしなければならないことが本質なのだ。竹中平蔵はまだそんなこと言っているが、ほんとに外需依存と外資依存、国際競争力を高めるために上げ潮路線をとり続けていいのか。そのあたりを問わなければならないところにきているだろう。<br />
<br />
そしてまた目の前にある失業問題については、早急に何らかの手を打たなければならない。経済理論がどうとかいう問題ではなくこれは政治的大前提である。<br />
<br />
雇用に関してはどこも話が経済学的に進んでいるが、ここまでくると明らかに社会学的問題になる。少なくとも「社会資本」ということを抜きにして格差や階級のことを語るのは筋が違っている。<br />
<br />
実はこの点については、「市場原理主義者」も、見に行った「派遣村」で活動している人たちも考えていることに大差ないのが問題だ。<a name="more"></a>誤解のないように繰り返すが、目の前の問題には早急に手を打たなければならない。しかしそれを、もちろん最終的な解決は政治によるものであるにせよ、政治に対して何らかの給付を求めるという以外に方法がないというのでは、おそらく未来がない。<br />
<br />
もっとはっきりいうと、現場で非常にいやな臭いがしたのである。この臭いはデジャビュだった。1995年の2月、薬害エイズ問題で厚生省に謝罪を求める若者たちの人の輪はそれはそれで壮観だった（その事情を知らない人には、小林よしのりが人権派オピニオンリーダーと目されていたなんて今からでは想像もできないだろう）。その人の輪を、冷戦崩壊後に行く先を失っていた左派運動が「オルグ」しようとしたのである。そのことによって「普通の教師として生きていきたい」といっていた川田龍平は政治家を目指し、それを批判した小林よしのりは右翼へと流れていき、ひょっとしたら可能であったかもしれない新しい「連帯」の可能性は失われてしまった。<br />
<br />
今回も、同じ臭いがするのである。支援運動を通して政治を批判するのは大いに結構だし、賛同する。しかしながらすでにそこにオルグの方法論が入り込んできているのがいやなのだ。そういう組織化こそが、こうした階層を生み出す原因なのではなかったのか。坂本政務官の発言は上から目線の本末転倒というべきものだが、実は、彼らの見方であるはずの支援者たちの中にも、自分たちが先頭となって「導いてやっている」傲慢が垣間見える。これもまた一種の歪みなのだ。<br />
<br />
こうしたことは、ロシアでのナロードニキ運動の昔から続いていることだし目新しいことではない。かなり乱暴に言えば共産主義運動というのはその昔から、学校に行くこともできず字も読めず自分が置かれている状況を考えることもできない貧乏な大衆を、たまたまそうした階級から出た少数の大学出クラスのインテリゲンチャが、とにかく自分の思っている方向に引っ張っていくということに集約される。<br />
<br />
それはそれで問題があったことなのだが、冷戦以後の問題は、自由主義が「圧勝」したと見られてしまったことによって、自由主義的な、ケインズ主義を否定するような官僚や政治家たちと、もともと「指導」を前提としている共産主義的な動きがどこかで皮肉にも連動するようになってしまっているのだ。これは僕がこのブログなどで「テクノクラシズム」と呼んで嫌ってきたものである。<br />
<br />
そのことを、もう少し中の院では考えてみたい。経済的なロジックに乗っかるなら「社会資本」ということを抜きに議論するのは、本来不可能なことであるはずだからだ。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>昭和は遠くなりにけり。</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-07</link>  
      <category>随思庵－徒然思いを語る草庵－</category>  
      <pubDate>Wed, 07 Jan 2009 23:53:25 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-07</guid>  
      <description><![CDATA[昭和天皇が亡くなられて、20年になったそうだ。そうだ、１月７日だった。早朝だった。<br />
<br />
まだ当時は高校生だった。先帝は長らく体調の悪い時期が続き、年末にかけてはさらにお体を崩されていたことが伝えられていたので、何となく受け止める心の準備があったのだが、登校直前にNHKのニュースで「天皇陛下崩御」の文字が出たことはよく覚えている。<br />
<br />
<a href="http://jp.youtube.com/watch?v=16LFgTDR-aQ" target="_blank">http://jp.youtube.com/watch?v=16LFgTDR-aQ</a><br />
<br />
youtubeにはこんな動画が上がっている。実はこのNHKのチャイム音は非常事態に当たる臨時ニュースでのみ流されるもので、私が調べた限りでは戦後は初めての放送になったはずだ。（国家非常事態の際は別のチャイムが流れる）。<br />
<br />
昭和も遠くなった。松の内は終わる。いろいろと、けりをつけるか。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>ビューロクラティック（官僚的）な風にあたって</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-06</link>  
      <category>随思庵－徒然思いを語る草庵－</category>  
      <pubDate>Tue, 06 Jan 2009 23:13:11 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-06</guid>  
      <description><![CDATA[昼間に年始早々の会議。ある種の勉強会のようなものだが、講師は元官僚の方。大変勉強になった会だったが、随所に官僚らしいところも見られておもしろかった。官僚らしいというのは、「自分の守備範囲はここまでですよ」と明確に線を示し、その線の内側のことについてはほぼ完璧、相手の反論をまったく寄せ付けないほどに完璧にロジックを組み立てているのであるが、その外のことについては「わからないし、回答する気もない」といった感じがある。<br />
<br />
昨今の派遣労働についても同じようなことがいえるように思う。仕組みとして、制度論としては現行制度も完璧だ。ここで制度論というのは、あることを決める仕組みを作るときに、たとえば役所が決めるのか、第三者機関を作って決めるのか、といったことを意味する。やや辛口にいえば、決定権を持つことは予算と権限を同時に持つことなので、役所（あるいは組織内の役所的なもの）はそう簡単にはその権限を手放さない。したがって制度論に素人が口を出すと、「制度がどうこうではなく結果で見るべきだ」ということをおっしゃる。しかし結果が悪い方に転がれば、「政治状況が、経済状況がこういう風になるとは当時では想定できなかった」とかなんとかいって責任は回避されるということになる。<br />
<br />
ま、官僚が政治責任をとるべきだとはもちろん思っていなくて、政治責任は政治家がとればよい。<a name="more"></a>政治家は何のかんのいって選挙で選ばれるというプロセスを踏んでいるわけだから、ハイリスクな分、ハイリターンがあってしかるべきだと思う。（言い分をころころ変えてリスクをとらない政治家は最低だと思うが。）そのハイリターンの陰に隠れて、官僚が責任を回避することは許し難い。官僚が官僚にしかわからない専門的な言葉を使うのは職務の性質上これは致し方のないことであるが、その「言葉を駆使できる」能力を持って責任を回避しながら権限を持つのはやっぱりよろしくないだろう。<br />
<br />
知人友人に霞ヶ関暮らしをしている人も多いので一概に批判する気はない。ここでいいたいのは、おそらく小泉さん以降極端に何かが変わっている、ということだ。昔は政治家も一度当選したら与野党とも死ぬまで選挙に出続けていた人も少なくなく、一方で官僚は身分保障があるから当然最後まで仕事をしていた。こういう状況においては、政治家も官僚も、20年〜30年先を見据えた政策ビジョンというものを考えることができただろう。<br />
<br />
しかし政治家のタームはどんどん短くなっている。いま選挙をすれば政権交代の可能性すらある。そうしたなかで政治家も短期的な業績を求めるようになり、官僚的な機構が想定するスパンとはずれが生じてきているように感じる。その際に、官僚の方が揺るぎなく、自分の方針を貫くとすれば齟齬が生じる。地方分権改革推進会議で、委員の議事録に密かに一文を潜り込ませ解釈の余地を広げていた一件などはその好例で、さまざまな専門的な技巧を駆使して、両者の意向が対立することもまま出てくるようになるだろう。<br />
<br />
さてそのとき、どうするか。言うまでもないが偉いのは政治家の方である。国会議員である。国会が国権の最高機関だと憲法に定めているのだから、国民は政治家に対しもっと強く出るように求めなければなるまい。もっとも政治家がだらしないのではどうしようもないが、テクノクラートの越権よりはだらしない政治家の方がまだましである、と、近代主義者の私は思う。<br />
<br />
テクノクラシズムは近代が生んでしまった（とはいえ、そうなることはすでにヘーゲルによって見通されていたことではあるが）禍根だ。まだ取り除けるものは取り除いておきたいし、これは政治や官僚だけでなく、みずから論理の強さと技巧の巧みさを振りかざす様々な論説に対してもいえることである。そう、私はたぶん、テクノクラートがいちばん嫌いなのだ。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>「派遣切り」をめぐる不毛な論戦</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-04</link>  
      <category>随思庵－徒然思いを語る草庵－</category>  
      <pubDate>Sun, 04 Jan 2009 17:39:46 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2009-01-04</guid>  
      <description><![CDATA[年末年始はずっと帰省。けっこう疲れましたね。気持ちよくゆっくりという訳にはなかなか行かないものです。昨日の飛行機で帰京。<br />
<br />
元旦の夜、雲仙の旅館に家族で泊まる。雲仙に泊まるのなんて高校生以来で（長崎の一部の高校は夏休みに雲仙のホテルで勉強のための“合宿”を行うのである。東京では考えられないと思いますが。）、久しぶりに硫黄分の強い温泉にも入ったし、地獄巡りもやったし、いろいろ考える時間があったと思う。<br />
<br />
この年末年始、派遣切りの問題がニュースでも、どこのブログでも話題になっていた。そりゃそうだ。雨露しのぐ場所もないままに年を越さなければならないなんて、人情が許さない。<br />
<br />
とはいうものの、人情が許さないことを論理に持ち込んではいけないのも確かで、この年末年始はそうした言い回しが多かったのが気になった。たとえばこの<a href="http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/332632b1440004c7115da458ca02b33c" target="_blank">池田信夫のブログ</a>の内容は、「人権という迷信」というタイトルで、<a name="more"></a>この人の論調にはほとんど共感できないけれどいっていることは間違っていない。逆に、本来、性質として契約関係がどういうふうになりがちか、という本性に目を向けずに「雇用者は守られるべきである」というべき論ばかりを振りかざしているほうが間違っている、と思う。誤解のないように言い添えておくが、個人的には、雇用は基本的に守られるべきであると考えているが、それが、自由契約の果てに均衡を求め労働環境を大きく変化させるような賃金で調整を働かせようとする経済の仕組みそのものに組み込まれるものであるとは考えていない。理屈で語ろうとするなら、人情を容れるべきではないだろう。<br />
<br />
こんなことを思ったのは、雲仙で泊まった旅館に「布団敷き」さんがいたからだ。これは驚いた。久しくそうした職業があるということを忘れてしまっていた。現在では人員削減の影響かなにか知らないが、どこにもこの「布団敷き」さんがいなくなり、女中さんが食事の間に部屋に布団を敷くわけだが、この旅館にはちゃんとした「布団敷き」さんがいたのである。<br />
<br />
「ちゃんとした」というのはほかでもなく、その布団を敷く手際があまりに鮮やかだったからである。押し入れの布団を出し、二人一組でシーツに入れて手際よく見事に布団を敷いていく。とてもじゃないが自分ではあんなに手際よくできはしない。この旅館専属というわけではなく、おそらく、いくつかの旅館を渡り歩きながら仕事をしているに相違ない。<br />
<br />
もちろん、彼らの給料はかなり安いだろう。そのことを考えればこの文章も、金持ち旅館客が貧乏労働者を哀れんでいるように感じられて不快に思われる方がいるかもしれないが、それはここでは措かせておいていただきたい。大事なのは「かわいそうだ」という人情とともに、この人たちがきちんと働けている（もっと環境を向上させていくための施策を常に考えていくべきだが）という状況を守っているための一線である。この一線を考慮しない人情論は、政治家の演説には必要かもしれないが、あまり考察には役に立たない。<br />
<br />
その「一線」が、「労働者」と「奴隷」を分ける一線である。そしてまたこの一線が“近代”というものの一線でもある。個人的には、これを守ることにかけてみたいと未だに思っているのである。上述の池田信夫氏のブログにはエドムンド・バークを引いて「人はどんな権利も生まれながらに持ってはいないし、特定の絶対的な権利を持つべき先験的な理由もない」っていうのはそれはもちろんそのとおりなのだが、だからこそ、「人権」とかいう仮構を作った上でひとつの社会システムをつくっているのが「近代」というものである。<br />
<br />
もちろんこの仮構の恩恵を経済も、経済学も存分に蒙っている。このあたりはヘーゲルが喝破したことだが、「人権」という不可思議な概念が、固定的な権利と自由な経済活動というものの同居を生み出し、それが国民国家と市民社会と現在の経済システムの奇妙な婚姻関係を生み出している。上記ブログでは、経済学だけがこの点に自覚的で無知蒙昧を脱しているようにも書いているが、そんなことはなくて現今の「人権」を破棄し、たとえば重商主義帝国や江戸時代の身分制社会に戻ってしまえばその英明なる経済学すら存立基盤を失ってしまうだろう。<br />
<br />
といって池田氏の議論を全否定してもつまらないことであって、単に守旧派が復帰しただけではどうしようもあるまい。新しい仕組みを考えるのでも何でもいいが、そこには人権議論も経済議論も有機的につながっているのであって、経済学は正しいけれどたとえば組合運動は間違っているという言い方はやはりおかしい（まったくずれているわけでもないが）。経済学説信奉者で楽観論ばかりうつ竹中一派の議論はもうどうでもいいけれど、池田さんらと反ネオリベ（これももうあるのかどうか）との論戦は、確かに池田氏がいうように不毛だろう。雲仙の布団敷きさんの手際に驚きながら、そんなことを考えた。<br />
<br />
]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>非正規雇用問題：根幹を考えないと</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-12-26</link>  
      <category>道心庵－迷いに導を探す草庵－</category>  
      <pubDate>Fri, 26 Dec 2008 16:30:29 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-12-26</guid>  
      <description><![CDATA[先日、伯母の葬儀に帰省するために朝方の池袋駅を通ったら、ホームレスの人の数が増えていてびっくりした。昔からホームレスがいる駅ではあるが、昔ながらの人だけではなく、新たに加わった人が多い。まだ小汚い感じがしないし、若い人が多い。40代、なかには30代と見受けられる人もいる。<br />
<br />
それもこれも、もとはといえば小泉政権時代に派遣労働法が改正されたことによるのは、ニュース等で伝えられているとおりだ。労働力の「流動化」を促すとともに、労働者の側にも裁量のある、自由な労働環境を作り出すことを目的としていたと聞く。<br />
<br />
実は経済学にとって、「労働力」とその対価である「賃金」は大問題であり続けてきた。経済学というものは、根本的にはいろんな“商品”の需要と供給の関係を考える学問だ。論理と数式を駆使すれば、需要の量と供給の量がある「価格」において“均衡”し、その点において社会にとってもっとも最適な分配がなされる、というふうに考える。もちろんこれはニュートン力学を模して経済学を「科学」化しようとする試みであり、それ自体に云いたいこともあるのだが、それはここではさておく。<br />
<br />
さて、それがほんとの“商品”であるならばいいのだが、「労働力（者）」という“商品”、そしてその“価格”である「賃金」となると話がちょっとややこしくなる。まず、ふつうの“商品”はものをいわないが、「労働力（者）」という商品は、文句も言うし抵抗もする。それから、再利用が効かない。人情もある。何より経済学的に問題なのは、調整が効かない、ということである。<a name="more"></a>人は企業の都合で簡単に生まれたり死んだりしないし、生まれたところで「労働力（者）」という“商品”になるまでは長い年月がかかる。実は「少子化対策」なるものはこうした観点への対策でもあるのだが、それがうまくいったところで、赤ん坊がまともな労働力になるまでの時間と企業が直面する状況が変化する時間が一致することはあり得ないから、究極の解決にはならない。<br />
<br />
そういうわけで、賃金の問題は経済学上ややこしい。とりわけ不況になったとき、商品を作っても売れなくなるから生産量を減らす、そのための労働力も不要になる、というときに、すぐに労働者を解雇したり、賃金を下げたりできないことが「賃金の下方硬直性」という難しい名前で呼ばれる現象だ。この究極の解決のためには、労働者を「モノ」ないし「駒」として使う仕組みを作るほかない。現在の派遣労働法がすぐさまそうした仕組みだとは云わないが、しかし、その方向へ踏み出した法律であることは間違いない。<br />
<br />
ところで、“商品”や“価格”に対する考え方には、もうひとつのポイントがある。それは、ある“価格”で交換された商品と貨幣は「等価交換」である、という考え方だ。これが市場原理を重視する見方の根幹にはある。等価でない交換、たとえば贈り物などでは、一方に「恩」が、もう一方には「借り」が生じる。こうしたそもそも不均衡な交換のあり方を経済学は嫌う。市場価格で等価交換をおこなうことが、純粋な経済行為であるというわけだ。<br />
<br />
この観点からすれば、労働力と賃金は等価交換であり、もし十分な労働力（現在では「スキル」と呼ばれているものだ）を持っていれば、終身雇用のような長期的な契約関係がなくても、自分のスキルを十分に発揮して次々と会社を移りながら、自分のライフプランにあった人生を送ればいい、ということになる。（ただし、この理屈は裏返しがあり、たとえば無職の状態が続いている人には外的要因があるのではなく、単に彼の「自己責任」ということに帰着するのであり、これはこれで大きな問題だ。）<br />
<br />
しかしながらこうした議論は、「お金を持っている人」と「お金をもらう人」の等価性を前提としているが、現実から見ればほとんど無意味だ。流動性の高い「貨幣」を持っている人が流動性の低い「労働力」と交換されるという非対称性そのものが、経済のはじめからつきまとっている。そのための安全装置を宗教であったり制度であったりして社会は工夫してきた。金持ちや商人を卑しんだり、通貨の発行権を政府が持ったりすることで、非対称性から生み出される混乱を回避しようとしてきた。<br />
<br />
昨今の「新自由主義的」と呼ばれる経済政策は、等価交換が等価交換として自立することを前提に議論されているのだが、その前提自体への問いは皆無である。竹中平蔵氏などは、「正社員の労働組合が非正規雇用を仲間はずれにして自分の権益を守っているからこのようなことになっている」と発言しており、実際、そのことは当たっているのだが、しかし一方で彼らの云う正社員の“特権”を排除してみたところで、賃金と労働力の「非対称性」に目を向けないかぎりは問題は解決しないだろう。御手洗経団連会長の「景気が悪いからこうなった」発言も同様である。<br />
<br />
政府がどの数値を元にどんな経済対策を発表しようと、この根幹に基づいた考え方をしないと何の解決にもならない。個人的には財政出動が必要な時期だとは思うが（その理由も別途いつか述べたい）、道路を造ったりするだけは論外である。では方法はないかというと、あると思う。やや大手術になるが。そのことも、のちほど考えてみたい。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>冬至の日、無常の風</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-12-24</link>  
      <category>随思庵－徒然思いを語る草庵－</category>  
      <pubDate>Wed, 24 Dec 2008 16:28:25 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-12-24</guid>  
      <description><![CDATA[土曜日のことになるが、佐賀の伯母が亡くなった。冬至になれば、人の生命力もいささか落ちるらしい。亡母の姉で、母が死んでからも何かとお世話になっていた。歳はいっているとはいえそこそこ元気だったのに、脳出血で急逝した。朝は普通にしていたが、夕方に家族が帰ってきてみると意識がなかったという。そのため正確な事情はわからないが、どうやら玄関先で後ろに倒れて後頭部を打ったときに脳に損傷・出血があったものの、外出血ではなかったためそのままにしていて倒れたもののようだ。<br />
<br />
葬儀は涙涙にくれた。私らのような長崎の人間はこういうときにもどこか突っ張ってでも陽気にするものなのだが、佐賀の人は悲しみが全面に出る。佐賀の者が歩いた後は草も生えない、とよく言われる佐賀県人像は間違ってはいないけれども、それはあくまで余所者に対してのことで、身内に対しては驚くほど情が濃い。父などは「見ておられない」と云っていた。急いで逝ってしまったのは残念だが、祖母思いの孫たちに囲まれて幸せでもあったろう。<br />
<br />
ところで、伯母は熱心な真宗信者だった。通夜のお経を上げてくださったお導師さんが「正信偈を本を読まないで読み上げておられました」といっていたが、確かにそうだった。<br />
<br />
<a name="more"></a>我が家が日蓮宗なので、真宗のことを詳しく知っているわけではないけれども、参列したおばさんたちが声を合わせて導師さん（調声人）に従って唱和するのは、こちらの気分も相まってか荘厳だった。真宗の人はわかっているだろうが、正信偈には声調がある。それがまた、穏和な響きで子どもの頃から好きであった。それをよく読んでいた伯母さんの死にあたっては、他宗といえど合わせておくのが礼儀であろう。故人を悼んで読むものではないが、声を合わせて読めば、阿弥陀さんが早く迎えにきてくれると思って読めばなおさらのことである。弥陀の誓願にそうあるのだから、そうなのだろう、と思う。<br />
<br />
焼き場で変わり果てた姿になって最期は人は出てくる。導師さんが、読んでいた、御文章が心にしみた。<br />
<br />
<br />
夫れ、人間の浮生なる相をつらつら觀ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。<br />
<br />
されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形態をたもつべきや。我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、をくれさきだつ人は、もとのしづく、すゑの露よりしげしといへり。<br />
<br />
されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく變じて、桃李のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。<br />
<br />
さてしもあるべき事ならねばとて、野外にをくりて夜半のけふりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふも中々をろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀佛をふかくたのみまいらせて、念佛まうすべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>不安をかき立てられる裁判員制度賛成派の景気の良さ</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-12-07</link>  
      <category>随思庵－徒然思いを語る草庵－</category>  
      <pubDate>Sun, 07 Dec 2008 16:48:27 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-12-07</guid>  
      <description><![CDATA[噂の、なんでしたけど、「２５２　生存者あり」を観てきました。<br />
<br />
<a href="http://wwws.warnerbros.co.jp/252/" target="_blank">http://wwws.warnerbros.co.jp/252/</a><br />
<br />
ネタバレするのも何なので、詳しくは書きませんが、オリジナリティというか、他のパニック映画のパッチワークに近かったのと、日テレが絡みすぎていたのかテレビ的なシーンの散乱がひどく、しかもつなぎに禁じ手を多数使っていたところが何とも。５２５、生存者なし、って感じだったでしょうか。<br />
<br />
それより数倍面白かったのは夜のNHKスペシャルで、裁判員制度をめぐってのものでした。ドラマの方は見ていないのだけれども、夜９時からの討論パートだけみてもなかなか興味深いものがあった。<br />
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個人的には裁判員制度には反対、いや違憲の疑いさえあると思っている。番組の中でも誰かいうかと思って待っていたら最後に出てきたのでさすが、と思ったが、発端は日本国民が求めたことではなくてアメリカから求められたことだからしょうがなくてみんなやっている。アメリカが例の「年次改革要求書」（だっけか？）なるもので法曹人口を増やすよう日本に求め、その法曹改革の一環としてこの裁判員制度の議論はスタートしている。<br />
<br />
もちろんそのことによって裁判のあり方が改善される可能性もない訳ではないから全否定するつもりはないが、そもそもの動機が不純なのは否めない。ちょっと前に流行った「アリー・マイ・ラブ」みたいな雰囲気の外資系の弁護士事務所が日本に進出してきて、アメリカの資本が稼ぎを増やすということ以外に、いったいこの制度は何を目指しているのだろう？<br />
<br />
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<a name="more"></a>市民参加の番組としては良質の部類として、番組では賛成・反対の双方がバランスよく意見を言っていた。偏った見方かもしれないが、景気のいい賛成派に反対派が根本的な疑義をぶつける、という展開が多かったように思う。<br />
<br />
賛成派の基本的な意見は、市民も司法に参加すべきだ、というものだ。それが開かれた社会につながる、というものだ。中には反対派をして、「市民参加という面倒から逃げているのだ」と論難する向きもあった。しかしこれはちがう。基本ロジックとして掲げようとするのなら、それなら、今の司法制度を全廃して人民裁判にすればよい。それが極端だというのなら、国権の最高機関であるところの国会（当然のことながら、国民の声を代表している）が社会の良識を発揮している（はず）だから、司法トップの人事権を国会にゆだねればいい話だ。<br />
<br />
そうであるべきでないから、いまの司法制度があるのではなかろうか。<br />
<br />
市民が参加することによってよりより司法制度を構築していくのだ、という意見もあった。市民が参加することによってよりよい司法制度が構築されていくことには何の異存もないが、なぜその手段が裁判員制度なのか、という問いには答えられていない。裁判に市民の感覚や常識を入れるといったときの、その「市民の感覚や常識」って何なんですか、と、反対派が問うたときに、賛成派は「お前は裁判の報道を見ていて何も思わないのか」と強く反論していたが、それが健全な「市民の感覚や常識」であるという保証はどこにもない。もし、選ばれた６人が多くの「市民の感覚や常識」と異なる判断をしたとき、彼らは守られるのか、という至極真っ当な問いもあった。<br />
<br />
実際のところ、裁判員制度でより良識ある判断がなされるというのは、「国民の代表である国会が社会の良識を発揮するはず」という命題と同程度に虚構でしかないだろう。<br />
<br />
まずは根本的にいって、この国の司法に一般市民が参加するほど民主主義や人権に関する観念が浸透しているかがはなはだ怪しい。一例だが、そのこと自体を非難してもしょうがないのだけれど、私の父は銃後の少国民として戦前に教育を受けてきたから、韓国・朝鮮人に厳しい。もし被告がそうした外国籍の人であれば、父が裁判員だったら判断が厳しくなるのは想像に難くない。そうした人はこの国に無数にいる。程度の問題で、私だって「市民の良識」を発揮して正確な判断ができるかどうかかなり怪しいものだ。もし従来の司法判断がこうした「人権」に偏りすぎていて市民感覚とはなれていることをこの制度で是正しようとするのであれば、裁判員制度を導入したりするのではなく、司法制度そのもの、あるいは憲法を変えるべきで、これは順序が違う話だ。<br />
<br />
番組を見ていて思ったのは、ひとつは、賛成派の方々の揺るぎない自信だ。いまの司法制度はうまくいってなくて、判決の感覚も大きくずれていて、自分が裁判に関われば正義の鉄槌とまではいわないが社会良識の木槌を振り下ろすことができる、と確信しているように見えた。しかしほんとうだろうか。私にはとてもその確信がない。たとえば、裁判官だけの裁判と、裁判員込みの裁判、どちらを受けたいと思うだろうか。その答えが聞きたかった。<br />
<br />
もうひとつは、どうもこの社会の構造全体に対する無関心である。この裁判員制度は導入するとするならば、刑法の改正や取り調べの可視化といった制度面の改正はもちろんのこと、裁判員として出席することに対する社会の意識も変えていかなければならない。さらにいえば、例えば光市事件のような心理にあたった際には、厳罰を下すのならば未成年の社会的権利といったことに対する見解も述べなければならない（未成年が原則死刑にならないのは例えば選挙権がなく自分の権利を主張したり行使したりする場がないという点によるのである。更正可能性だけなら２０歳と分ける必要はなく、単なる情状などではもちろんない）。<br />
<br />
反対派を「市民参加から逃げている」と難じた賛成派の人にしてみれば、古代アテネのような直接民主制の場で政治も司法も行われることが理想なのだろう。しかし、好むと好まざるとに関わらず、私たちはポリスのような小共同体に生きているのではなく、巨大で複雑な社会システムを持った近代国家に生きている。その近代への批判と、裁判員制度の是非を混乱させるべきではないが、無意識にそこが混同しているように感じた。<br />
<br />
近代の根幹のひとつは「代理性」にある。クリーニング屋がいなくても選択はできるが、クリーニング屋に任せた方がより質がよく、またその分の時間を自分の専門的な仕事に投入することができる。そうやって近代社会は成長してきた。裁判官がいなくても司法はできるかもしれないが、裁判官のほうが質がいいとはいわないが、ことは近代の根幹に関わる「人権」と密接に関わるものであり、裁判官に任せた方がいい、というのがこれまでの基本的な考え方だった。<br />
<br />
今回の裁判員制度が向かうベクトルは、これとは真逆になる。それ自体が悪いとはいわない代わりに、であれば、裁判員制度が適合するような社会システムを別途構築していかなければならないが、その覚悟があるのか。そこがはなはだ疑問だ。<br />
<br />
この社会において一人一人の「社会の中の個」の意識を高めていくことは重要だろう。しかしそれは、「俺がやればちゃんとできるのに、あいつはダメだ」というのでは、テレビ中継でチャンスに凡打した野球選手をビール飲みながら難じるとの何ら変わりがない。<br />
<br />
代理性の果てに権力があり、それがテクノクラシズムと化しつつある現在、そこを批判することは重要なことだ。しかし、凡打した野球選手を難じるように「代理性」を難じているだけではかえってテクノクラシズムに絡めとられてしまう。政治家を批判することは大いに結構だがうかつにやると官僚支配に手を貸してしまうように、これが裁判官のテクノクラシズムに手を貸してしまわないか。賛成派の皆さんの景気が良かっただけに、はなはだ不安をかきたてられる番組だった。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>牛に曳かれて善光寺</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-12-05</link>  
      <category>春秋庵－日々の消息を語る草庵－</category>  
      <pubDate>Fri, 05 Dec 2008 10:05:02 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[昨晩から福島に来ているのですが、写真は一昨日出張した長野。<br />
<br />
<img src="http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_25f/snobistblog/RIMG0036.JPG" width="365" height="274" border="0" align="" alt="RIMG0036.JPG" /><br />
<br />
10年ぶりぐらいに善光寺を参拝。最近は個人的には観音様づいていたので、阿弥陀様にお参りをするのはひさしぶり。<br />
<br />
この日の長野の早朝の気温は摂氏１度。冷たい空気の中、石畳をかつかつと歩いてお参りする。ふだんは不信心の不行状ばかりだが、せめて境内に入った折は仏門のひとりとしてきっちりしておきたい、と願う。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
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      <title>週が開けました</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-12-02</link>  
      <category>春秋庵－日々の消息を語る草庵－</category>  
      <pubDate>Tue, 02 Dec 2008 14:04:34 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[先週はほとんど家に帰る暇もなく、仕事をしていました。<br />
<br />
更新が全くなかったのはそのせいで。<br />
<br />
<br />
<br />
今日あたりから少し落ち着いております。<br />
<br />
今晩は長野出張ですが、ぼちぼちやってまいります。<a name="more"></a>]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>11月24日。教会史に長崎の地がまた刻まれる。</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-11-21</link>  
      <category>随思庵－徒然思いを語る草庵－</category>  
      <pubDate>Fri, 21 Nov 2008 02:42:28 +0900</pubDate>  
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      <description><![CDATA[今度の振り替え休日、24日月曜日に、長崎でちょっとしたイベントがある。日本では初めておこなわれる、ローマカトリック教会による列福式だ。<br />
<br />
<a href="http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/kibe_187/index.htm" target="_blank">http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/kibe_187/index.htm</a><br />
<br />
列福式、とは、カトリック教会で、その類稀な霊性と徳を認められた信者を「福者」として聖別することである。福者になるのは簡単ではなく、死後、管区大司教によって綿密な調査がおこなわれる。苦しみをくぐり抜けて殉教した信者であるか、奇跡の逸話のひとつは伝わっているぐらい信望を集めた信者でなければならない。これが管区大司教からローマ教会に推薦され、最終的には教皇によって「福者」として認められる。なお、聖者あるいは聖人はこの福者のなかからさらに選ばれることになる。<br />
<br />
<img src="http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_25f/snobistblog/26.jpg" width="400" height="270" border="0" align="" alt="26.jpg" /><br />
（長崎・西坂の丘にある二十六聖人殉教の祈念碑）<br />
<br />
こういうプロセスがあるから、例外中の例外として死後６年で福者に列っせられたマザー・テレサのような人がいないわけではないが、通常、福者になるには死後数十年から数百年かかる。今回列聖されるのは、江戸時代初め、鎖国から禁教令の中で殉教した１８８人の日本人の信者である。この列福式は、ヴァチカンで行われるのが通例で、ヴァチカン以外でおこなわれたのは世界に数例しかない。上述の通り、日本では初めてとなる。<br />
<br />
今回列福される信者の中には、禁教期にローマに渡ってイエズス会の司祭となり、鎖国日本に戻ってきて布教・殉教した大分生まれのペドロ岐部や、天正少年遣使として教皇に謁見し、その後司祭となって最後は殉教した中浦ジュリアンらが含まれる。歴史的にもかなり大規模なものになることは、殉教者のみならず「転んだ」（改宗した）信者たちも含めた歴史（遠藤周作さんが『沈黙』で描いた世界だ）に関わった地として、誇りに語るべきだろう。<br />
<br />
僕はクリスチャンではないが、長崎にとってキリスト教は特別だ。<a name="more"></a>小学校４年生の時に、前のローマ法王ヨハネ・パウロ２世が来崎したこともある。２月の、南国には珍しい大雪の日に野外ミサがあり、クラスのクリスチャンは軒並み授業を放り出してミサへ行ってしまったことが印象深い。その後長じても宗教への関心は薄れなかったのは、近くに教会がありクリスチャンの友人がいたからではなかろうか。<br />
<br />
その頃、詳しい話を聞きに行きたいときは、二十六聖人記念館に立ち寄ったものである。ここの館長をしておられた結城了悟神父の説教に当たると、何だかキリスト教が身近に思えたものだ。<br />
<br />
結城神父はもともとセビリア生まれのスペイン人だったが、神父として長崎にきてそのまま住まい、日本国籍を取り、<br />
名前も殉教した大阪の宣教師結城了雪から採り、ずっとキリシタン研究をされていた。今回の列福式をとりおこなうにあたっても尽力されていたと聞くが、あろうことか今週初めに、式を目前にして亡くなられた。<br />
<br />
東京ではほとんどニュースにならない。長崎の歴史を語ることなど、日本においてはどうでもいいことだから。でも、長崎は大きなものを失い、大きなものへと歩み出している。そのことを、書いておきたかった。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item>  
    <item> 
      <title>日能研でエクササイズ</title>  
      <link>http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-11-20</link>  
      <category>春秋庵－日々の消息を語る草庵－</category>  
      <pubDate>Thu, 20 Nov 2008 12:09:13 +0900</pubDate>  
      <guid isPermaLink="false">http://snobistblog.blog.so-net.ne.jp/2008-11-20</guid>  
      <description><![CDATA[山手線の電車でみた、日能研の問題を歩きながら、<br />
メモに書きながら考えてみた。<br />
<a href="http://www.nichinoken.co.jp/column/shikakumaru/2008/0811_sa.html" target="_blank">http://www.nichinoken.co.jp/column/shikakumaru/2008/0811_sa.html</a><br />
けっこう時間がかかったが、いいトレーニング。<br />
<br />
＜問題＞<br />
○長方形ＡＢＣＤがある<br />
○この長方形の縦を２センチ減らし、横を３センチ増やしても、面積は変わらない。<br />
○さらにその長方形の縦を３センチ減らし、横を12センチ増やしても面積は変わらない。<br />
<br />
という長方形の面積は？という問い。<a name="more"></a>＜答え＞<br />
縦の長さをx、横の長さをyとすると、<br />
この長方形の面積はxyと表される。<br />
<br />
さらに、最初の作業は、(x-2)(y+3)となる。<br />
次の作業は、(x-5)(y+15)となる。<br />
<br />
(x-2)(y+3)=(x-5)(y+15)<br />
xy+3x-2y-6=xy+15x-5y-75<br />
なるほど、xyが消えるのか。<br />
-12x+3y+69=0<br />
4x-y=69<br />
<br />
あれれ？<br />
<br />
そうだ、関係式がひとつ足りない。<br />
<br />
xy=(x-2)(y+3)<br />
  =xy+3x-2y-6<br />
3x-2y=6………式①<br />
<br />
xy=(x-5)(y+15)<br />
  =xy+15x-5y-75<br />
15x-5y=75<br />
3x-y=15………式②<br />
<br />
これで連立一次方程式だ。<br />
<br />
　3x-2y=6<br />
　3x-y=15<br />
だから、<br />
　y=9になり、<br />
3x-9=15<br />
 3x=24<br />
  x=8<br />
<br />
になるから、答えは、<br />
<br />
　xy=72平方センチメートル<br />
<br />
になる。<br />
<br />
これって中学入試なんだな。<br />
ということは連立一次方程式は使えない。<br />
図を書いて比をとるしかないのだが、できるかな。]]></description>  
      <author>Snobist</author> 
    </item> 
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